第2話:白猫の行く先、完全でも不完全でもない現実
学校からの帰り道も、自宅まで続く田園風景の中でも、静まり返った駄菓子屋に続く路地裏も、いつだって彼と一緒に過ごした時間だった。鮮やかではないにしろ、それは確かな経験であり、彼がこの世界に存在したことの傍証。
――苦しい。息がつまる
随分と長い時間を共に過ごしたはずなのに、はっきりと記憶に残っているハルタは、机に膝をつきながら、窓の外をじっと眺めていた横顔でしかない。口元をきゅっと結び、切れ長の目が見つめる先は、どんなにツグムが手を伸ばしても届かない景色なのだと、なんとなく彼には理解できていた。
列車の走行音に紛れる踏切の警告音、売り切れの表示が点灯しっぱなしの自動販売機、帰路を包む田園風景の中、いつも隣にいたはずのハルタを鮮明に思い出すことが難しい。しかし、ツグムは知っている。それが過去から未来に向かって流れる時間という思想から自由になるための唯一の方法なのだと。思い出こそが人間存在の基盤を規定している。
身体が少しずつ感覚を取り戻してくる。微かな冷感が末梢神経を刺激しているのが分かる。鈍い振動が体の全身に感じられるものの、体の重心がどこにあるのかよく分からない。体が思うように動かせないのは意識がまだ鮮明さを取り戻していないから、あるいは重力の行方を感じることができないからだろうか。
あまりの息苦しさに目を見開いたツグムの視界に入り込んできたものは、透明なドーム状の壁面であった。ガラス製であろうか、それともアクリル製か……。限りなく透明に近いその壁面の内側は、やはり透明は液体で満たされていた。世界がユラユラと揺れている。自分の身体がその液体の中に浮かんでいるのは理解できた。重力を感じないのも、窒息しそうなほど苦しいのも、そのせいだ。
ツグムは目の前に広がる透明な壁面を両手で押しのけようとするが、全身に力が入らない。むろん、たとえ強靭な腕力が備わっていたとしても、透明な壁面がそう簡単に破壊できるものでもなさそうなことは、薄い意識の中でも自覚できた。
――結局のところ、何もかも忘れてしまうことが、最も美しい思い出し方なのかもしれない。
諦めの感情が脳内を侵食していく中で、透明なドーム壁面の向こうから誰かが近づいてくる。おぼろげに捉えられたそのシルエットに、消えかかったツグムの意識に色が戻る。
「手を離して」
ツグムはその声に壁面から両手を離す。液体を通じて鼓膜を震わす声は遠い。でも、この声はあの夢の少女のものだと確信できた。
少女は自身の身長ほどもあろう、巨大な灰色の棒のようなものを振り上げ、ドームの壁面に思いっきり叩きつけた。ひび割れたドームから内部の液体が吹き出し、同時に大量の空気が一気に入り込んでくる。
液体から解放されたツグムは、反射的に大きく息を吸い込む。全身の血液中に酸素が行き渡る感覚に新鮮な驚きを覚えつつも、視界が明確に、思考が鮮やかに、そして末梢神経が過敏になっていくのを感じた。水圧による身体的拘束から解放されたのもつかぬ間、重力によって押さえつけられた体が意思の力に抗い始める。
「つかまって」
少女が差し伸べてきた真っ白な手を握るのが精いっぱいだった。引き上げられた身体は程なくして、重力に抗うだけの感覚を取り戻す。地に足をつく、ただそれだけのことが生きることの基本条件だ。
「服は、そこの棚の中に入ってる。」
そう言われて全身丸裸であることに気が付いたツグムは、慌てて少女に背を向ける。目の前のあるのは灰色の小さなロッカーのようなものだった。先ほどまでツグムが眠っていた円形のドームは、ブツブツと音をたてながら内部の液体を噴出し続けている。まるでカプセル型の生命装置のようだ。ロックダウンされる思考の中で、ツグムは床に置かれた灰色のロッカーに近寄り、その小さな扉を開けた。
「最低限必要な着替えとか、そういうのは下のリュックに入っているから持って行って」
少女はそれだけ言うと部屋から出ていった。とても小さな部屋だ。天井の蛍光灯がブウンと断続的なうなり声をあげている。安定期がもう寿命なのだろう。部屋の扉が閉まると同時に床に積もった埃が舞い上がった。
「ここはいったい……」
リュックの中にはレーションのパウチがいくつかと、数着の着替えしか入っていなかった。上の段には丁寧にたたまれた灰色のつなぎ服が置かれている。ツグムは服を着るとリュックを背負い、少女が出ていった扉に歩みを進めた。
カプセル装置からは相変わらず透明な液体が漏れ出し、床を濡らし続けていた。液晶モニターには意味不明な数字の羅列が繰り返されている。何かの警告だろうことは分かるが、それ以上のことは思考が回らない。
扉を開けた先に、少女は立っていた。ガードレールに腰かけるように壁にもたれ、少しだけ首を斜めにかしげながらツグムを見つめている。
「以前にも会ったことがあるよね……」
ツグムはそう問いかけ、彼女から視線を外した。高圧電線の鉄塔。波の音が聞こえるわけじゃないのに、微かに漂ってくる潮の香り、そして背景に溶け込んでしまうほどの淡い空。
「ええ、何度も」
「この場所はいったい?」
「白猫の行く先……。完全でも不完全でもない現実よ」
人間には物事をリアルだと感じられる閾値がある。現実へのコミットは、身体がどれだけリアルを引き付けるかに存している。ただただ言葉が足りないとツグムは直観した。世界を記述する言葉が……。
「君は誰なんだい?」
「質問ばかりね。気持ちは分かるわ。みんな分からないことをそのままにできるほど強くはないもの。わたしは
情報量が多い。それが現実という名の世界の本質。消化しきれずに、持て余してしまう不安。そういうとき、現実をちょっと遠ざけておくことは、心の安定を維持する助けになる。ツグムはゆっくり深呼吸をして先に歩き出したトワを追った。
二人は狭い通路の少しだけ早足で歩いていく。天井に並ぶ蛍光灯の光は褪せていて、ところどころで寿命の尽きた灯体が点滅を繰り返していた。静寂の中を足音と安定期の振動音のみが響いている。
ツグムが眠っていた部屋と同じような建物構造がいくつもあるのだろう。廊下のいたるところにドアが設置されている。その先を抜けると、大きな広間のような部屋に行きついた。床に整然と並べられているのは、ツグムが眠っていたのと同じカプセル型の生命維持装置だ。
「これは……」
「みんな夢を見ているの」
「でもいったい、なぜ」
「静かに」
ショートボブの髪を揺らしながらトワは人差し指を口元にあてる。その背後で、紺色の何かが動いた。人の大きさほどもある金属製の物体だ。背中からはいくつかのアーム状のものが伸びていて、まるで触手のように自在に動いている。走行は極めて滑らか灰色の床を滑るように移動していく様子は不気味だ。
やがて、一つのカプセル装置の前でとまると、装置に設置された端末モニターに触手を伸ばしていく。ゆっくりとした動作に、この物体がただの金属でないことを思い知る。
カプセル装置から圧縮空気が吹き出す音が響き、透明なドームが静かに開いていく。内部の液体は排水装置から排出されているらしく、ツグムの時のように装置から噴き出すことはない。
ドームが完全に開き切ると、意思をもった金属は、いくつかの触手を装置内に伸ばしていく。その次の瞬間、真っ赤な液体が周囲の床や柱に飛び散った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます