第1話:夢は眠りを離れることをせずとも応えられている

 踏切の警告音がドップラーの効果をまといながら、耳元をかすめていく。瞳を閉じていても、列車内に差し込む午後の日差しが真っ白に輝いているのが分かる。


「ツグム、もうつくよ」


 音が遠い。まだ夢うつつの立原たてはらツグムを揺さぶるのは大柳おおやぎハルタだ。ツグムの膝から紺色の学生カバンが滑り落ち、列車の床に転がった。


「同じ夢を見ていた」


「またその話なんだね。で、その女の子、名前は聞けたの?」


 ハルタは床に落ちたツグムの鞄を拾い上げながら小さく笑う。現実の思考を夢に託すほどの勇気も信念もない。きっと誰でもそうだと言うように。


「なあ、ハルタ。終わらない夢を見続けることができる人は、きっと強いと思う」


「大丈夫か、ツグム」


 二人は列車を降りると木造の駅舎を改札に向けて歩いていく。自動販売機に並ぶ商品は、全て売り切れのランプが点灯している。まるで時間が止まったように、この街のいたるところに、色の濃い静寂が積み重なっている。


「夢に咲く花は、宇宙に舞う桜に似ているのかもしれない。そんな気がしたよ」


 ツグムはそう言って、少しだけうつむいた。無重力の真空に舞い散る無数のピンク。それは落下するというより、真に舞うといった方が良いかもしれない。そう、それは儚さのない美しさ。そして不変の幻想。


 あらゆる記憶と意志の混濁。あれは夢であって夢ではない。むしろ自分の意識の一部。ツグムは同じ夢を見る。何度も繰り返し、繰り返し。時間にすればたった数分でしかない夢。しかし、その数分の間に世界が夢であるような現実であるような、その境界線の行方をどうしても意識せざるを得ない。その意識はやがて、むな苦しさに変わっていく。


「君が文学少年なのは知ってる。でもね、そんなことばっかり言ってると、みんなに気持ち悪がられてしまうよ、ツグム。文学は日常とは縁遠いものなんだ。むしろ引き寄せてはいけない。特に君のように感受性が豊かな人にはね。本当のリアルに視線を向けないと、軸足のようなものが消えてしまう。それはとても怖いことなんだ」


 自動改札越しに振り返ったハルタはそう言うと、立ち止まってツグムを見つめた。彼の首元に結ばれた制服のネクタイが風に揺れている。


「夢や希望に現実的な力がないことはよく分かるよ。うん、そうしたことを足掛かりにすることは絶望でしかないのかもしれない。でもね、そういう言葉が必要である場面は想像もできるし、理解もできるんだ」


 記憶にとって、夢が現実かどうかは大きな問題ではない。大切な記憶は、ただただ消えないよう、願うばかり。それだけだ。


 二人が駅舎を抜けると、視界に飛び込んでくるのは、どこまでも続く広大な田園風景。じきに田植えが始まるのだろう。二人の間をすり抜けていく微かな風たちが、田に張られた水面を揺らし、映りこむ空と雲をざわつかせる。


「胸が、苦しくなるぞ」


 ハルタの言葉にツグムは息をのむ。そう、あの夢の行く先はいつだって苦しいものだ。呼吸ができないほどに。


「ハルタも……見るのか? あの……あの夢を」


「言葉にした瞬間、夢は夢でなくなるんだ。大事なのはリアルな言葉だよ、ツグム」


 駄菓子屋の軒下につり下がっている季節外れの風鈴がカランと乾いた音を立てる。どこかで見たような白猫が家屋の塀に乗り上げ、こちらを見つめていた。


 気づけば、ハルタはこちらに背を向けたまま右手を上げ、またな、というように小さく手を振っている。


「忘却された夢こそに大切な何かがある。そういったのは……フロイトか、ラカンか……」


 夢の機能が眠りの延長にあるのだとすれば、そして夢が自身の提示する現実に、ついにはここまで接近することができるのであれば、僕たちは次のように言ってしまってよいのではないか。

――この現実に対して、夢は眠りを離れることをせずとも応えられているだろう、と *。



 翌朝、いつもと同じように教室に入った立原ツグムは、室内の違和に気づく。窓ガラス、机の配置、黒板の落書き、蛍光灯の灯り。そのいずれもが、いつもと違う何かを視界に連れてくる。

 大柳ハルタの姿が見当たらない。いつだって、誰よりも一番に教室に来ていて、窓際の席に一人座り、何をするでもなく机に肘をつきながら高架線が横切る景色を見ていた彼がいない。


 ツグムは自分の席につくと、鞄からいくつかの教科書と参考書を取り出し、それをゆっくりと机にしまいながら、隣の席に座る伊坂いさかサオリに声をかける。


「ハルタは休みなのか?」


「ハルタ?」


首をかしげるサオリ。まるで最初からいなかったように、きょとんとした視線をツグムに向ける。


「誰それ? ツグム君、また夢を見ていたの?」


 夢の中が「いつ」だかわからないように、記憶は時間から切り離されている。


「これはっ……」


姿が見当たらないんじゃない。きっと、存在そのものが消えている……。


「ハルタ、大柳ハルタは!!」


ツグムの大きな叫び声に、教室は一瞬凍りつき、そしてざわつき始める。学校の教室という小さな社会、その平均的な構成員からの逸脱。


 共同体になじめない異分子を眺める視線に耐え切れなくなったツグムは、席を立つと、そのまま教室を飛び出した。廊下の突き当りを抜け階段を駆け上がる。息を切らしながら屋上へ飛び出したところで、思いのほか強い向かい風を受け、足並みが乱れた。風にあおられた紙屑が宙をまって、どこかに消えた。ツグムはゆっくりと歩みを進めてフェンスに両手をかける。


「胸が苦しくなるぞ」


ハルタの声を思い浮かべながら眼を閉じる。

忘れられてしまった夢にこそ大切な現実世界がある。


苦しい。

息がつまるように苦しい。

呼吸ができない。

本当に本当に呼吸が……。


ツグムの身体は力を失いそのまま膝から崩れ落ちていった。


 春の訪れという淡い期待の中に一抹の、でも決してぬぐいされない不安を覚えるのはなぜだろう。やけに苦しいと感じるなら、それは季節のせいかもしれない。変化というプロセスには僕らの想像以上の負荷がかかるものだ。だからこそ、現実をもう無理去り、夢うつつに生きることを選ぶ、そうした決断が人にとって幸福をもたらすという側面もあるのだろう。



*Jacques Lacan, Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse, op. cit., p. 57


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