生きる意味と死ぬ意味と⑪
「この、くそ猫・・・ッ!」
「フーッ!」
先程川で溺れかけていた捨て猫が、いつの間にか樹亜の足に噛み付いていた。
自分のことを川に投げ捨てた憎き相手が、溺れているのを助けてくれた恩人に危害を加えようとしたのを見て、攻撃したのだろう。
「止めて、樹亜さん。 この子に罪はない。 ただ樹亜さんのことが、怖かっただけなの」
沙夜は全身の毛を逆立てて威嚇する猫の前に守るように立ち、そう言った。 それでも樹亜は怒りが収まらないのか、襲いかかろうとする。
―パァン。
乾いた音が鳴り響く。 振り切られた沙夜の手は、空で止まっていた。 樹亜は頬を手で押さえながら、信じられないといった表情を浮かべている。
「言っても分からないなら、痛みで分からせるしかない。 もしかしたら、この子もそう思っていたのかもね」
「ふざッ・・・! ふざけんな! 覚えていなさい・・・ッ!」
もう勝負は決まっていた。 樹亜は呆然と立ち尽くした後、背を向けて走り去っていく。 血の跡が、点々と付いていくのが少々生々しい。 竜真も沙夜も何も言わず、彼女を静かに見送っていた。
正直な話、竜真はこんな展開になるなんて予想はしていない。 結果として見ればいいのかどうか、これからの沙夜のことを考えると不安もある。 何故なら二人は、一応同じ家で暮らしているのだ。
「これでよかったの?」
「・・・うん」
更に言うなら、樹亜がこれで懲りて改心するとは到底思えなかった。 逆恨みして、危害を加えてくる可能性も十分にある。 だがそれは、これから考えていけばいいだろう。
「俺、驚いたよ。 まさか沙夜が、こんなに言うとは思っていなかったから」
「・・・技術」
「え?」
「天音さんは、人生は技術の集大成って言った。 だから、試してみたの。 感情を殺した私が、どこまであの人に通用するのかって。 上手く、やれてたかな?」
そう言いながら、沙夜が小さく笑いかけてくる。 “技術”と口にする沙夜にとっては、それも技術なのだろう。 だがそれでも竜真は、その笑顔に惹かれてしまう。
「さっきの、演技だったの? 女優になれるよ、本当」
「そう?」
沙夜は未だに、樹亜の去った方向に威嚇している猫の頭を撫でていた。
「これで私は一人、アナタも一人。 誰も文句を言わなくなったから、一緒に生きようか」
「・・・にゃぁ」
抱きかかえられた猫は、頭を沙夜に摺り寄せた。 竜真のことを、ジッと見つめているようにも見える。
「ちょっと待ってくれ」
「竜真、さっきの答えだけど、延長してもいいよ」
「え? あ・・・」
竜真は沙夜に『君は一人じゃない』と言いたかった。 だがそれを言おうとしたところで、沙夜に先回りされてしまい言葉を失う。 “今日のこの日を、この先もずっとに延長したい”
その願いは、沙夜も憶えていたのだ。
「凄いな、沙夜は。 出会った時には、こんな女子だなんてまるで予想もしていなかったよ」
「がっかりした?」
「逆にもっと好きになった」
「・・・竜真も大概ね。 今日、初めて会ったっていうのに」
沙夜の頬が赤らんだのは、夕日のせいだけではなかったように思えた。
「そろそろ行こうか」
「うん」
二人は夕焼けに向けて静かに歩き出す。 初夏とはいえ、竜真の身体は多少濡れている。 それに川の水は、お世辞にも綺麗とは言えない。 樹亜に会う前は、早くシャワーを浴びたいと思っていた。
「そう言えばさ、遺言書。 俺破ったと思うんだけど」
何気なく聞いた疑問に、沙夜はあっけらかんとした様子で答えた。
「天音さんが『竜真に見せたら絶対に破る』って言うから、二枚書いておいたの。 というより、さっきの中身は書いていなかったから」
「え・・・」
「白紙っていうわけじゃないけど、読まないと思ってね」
「・・・敵わないなぁ」
竜真は肩をすくめてみせた。 昨日までは、将来のことなんて欠片程にも想像できない少年だった。 だが、今日沙夜と出会いぼんやりとながら見えた夢に覚悟が決まる。
隣を歩く少女を、ずっと守り続けていけるようにと。
だが二人の将来は、想像の遥か上をいくことになる。 今歩いている先、人の集まる繁華街で沙夜が受け取った一枚の名刺が、二人の人生を大きく変えることになるとはこの時の竜真はまだ知らなかった。
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