生きる意味と死ぬ意味と⑨




結論から言えば、沙夜の兄は溺れて死んだ。 樹亜に拒絶の言葉を伝えたその日、足を滑らせ沼に落ちた沙夜を助けようとして。


『愚図でのろまなアンタが沼で溺れたから、誠二くんは死んでしまったのよ』


唯一残された肉親を失い、それを信じることもできず、悲しみに暮れている沙夜に樹亜は冷たく言い放つ。 それは、沙夜の心をえぐり取るには十分過ぎた。

子供ながら、自分なんていなければよかったと思う程に。 例え――――沙夜を沼に突き落としたのが、樹亜であったとしても。


『でも、済んでしまったことは仕方がないわね。 これからは、私がたった一人の貴女の姉妹になるのだから』


そう言って、小さな飴玉をくれたのを憶えている。 個包装すらされてない、何の変哲もない飴。 それでも樹亜が何かをくれたのは、それが初めてだった。

傷心の沙夜の心を掴み取るには、十分過ぎる代物。 それにより、沙夜が持ち直したのも事実。 もし何もなければ、兄の後を追ってしまう可能性も低くはなかっただろう。

例え――――白雪姫が魔女から、リンゴを受け取ってしまったようなことだったとしても。


それからは無気力ながらも、静かに生き永らえた。 特に誰かと交流することもなく、静かにただ学校へ行き勉強をし、そして家に帰る。 つまらない毎日であるが、別にそれでよかった。

樹亜も以前に比べると、驚く程に何もしてこなかったからだ。 だが――――その状況は、ある日を境に一変した。


『沙夜が死んだら、物凄いお金が私のものになるの!?』


いつだったのか忘れてしまったが、樹亜の部屋からそんな言葉が聞こえてきたのを憶えている。 沙夜自身、その時はあまり意味がよく分からなかった。

だが翌日から、樹亜の酷い嫌がらせが再開したことで何となく理解する。


(この人は、私に死んでほしいんだ)


嫌がらせに対し、反応すると樹亜は喜んだ。 だから、沙夜は何に対しても反応しないようにした。 心を虚無に落とし、無表情を保ち、そして生きるために必要なことだけをし、絶対に死なないようにと。

更に言うなら、何も持たず、人と関わらず、樹亜に何も奪われないように、何も壊されないように。


それが、昨日までの沙夜だった。






「おい・・・。 あれ、さっきの猫じゃないか?」

「・・・ッ!?」


川から流れてきているのは、先程捨てられていた猫。 チラチラ光る蝶の髪飾りからして、ほぼ間違いないだろう。 バシャバシャと飛沫が散り、とても泳いでいるようには見えない。


「俺、助けてくる」

「待って、危険だと思う」


沙夜に腕を掴まれ止められたが、先程捨て猫を前にした時を思い出せば、このまま見過ごすわけにはいかなかった。


「沙夜、言ったよね。 自分のことはどうでもいい、人に迷惑はかけたくないって」

「言ったけど、それが何?」

「俺のことも猫のこともどうでもいい。 俺は、沙夜のために助けに行きたいんだ」

「・・・」


竜真は悪く言えば、これまで八方美人として生きてきた。 友達にも先生にも、誰からも嫌われることのないよう行動する。 もちろん、それで誰からでも好かれるわけではない。

失敗したことは何度もある。 それでも日常を過ごすのに、もっとも都合がよかったらからそうしてきた。 だが、今は違う。 普段口にしないようなことを言い、本気で沙夜のためだけにと思っていた。


「まぁ、猫が溺れているのを見過ごすわけにはいかないっていうのも、ちょっとはあるけどね」

「正直なのね」


おどけたように言った竜真に、沙夜は呆れるよう言葉を返した。 竜真はそれを機に駆け出していく。 走りながら服を脱ぎ、川に飛び込んだ。 

岸からそれ程離れているわけでもなく、物凄く深いといったこともない。 流れも緩く、泳ぎの得意な自分なら何とかできると考えていた。


「――――ッ!?」


だが、もう手が触れるといった場所で異変が起きる。 突然、身体中に衝撃が走り身体のコントロールを失ってしまったのだ。 もう猫を助けるどころの話ではない。

パニックを起こし、呼吸するタイミングさえ不明瞭になってしまう。 ――――助けに行った竜真自身が、溺れてしまったのだ。


―――俺は、沙夜のために助けに来た。

―――・・・だから、沙夜のために命を懸けたっていうことになるのかな。


必死に猫に手を伸ばし、引き寄せる。 特に何か考えがあったわけではなく無意識で行った行動だが、触れた瞬間おかしな感触に疑問を感じた。


―――ビニール・・・?


猫の体には何かが巻き付けられていて、沈まないようにされていたのだ。


―――一体誰が、何のためにこんなことを・・・。


竜真は生臭い水の臭いと同時に、微かに異様な匂いを感じた。 どこかで嗅いだことのあるような、花のような臭いを。 だが、考える間もなく水を飲みこんでしまう。


―――・・・あぁ、沙夜ともっと生きたかったな。

―――生きる意味も、将来の夢も、そんなものなしでただ一緒にいたかった。


水に沈みかけながら、竜真はそれを願うことしかできなかった。


「ッ、竜真!」


そんな竜真を救ったのは――――沙夜だった。 沙夜は過去の経験から、溺れた人間を救うということの危険性について誰よりもよく分かっている。

竜真に何か異変が起きたことを感じた彼女は、公園に常備されている救命浮き輪をすぐさま取り外し、竜真に向かって放り投げた。 竜真は無我夢中で浮き輪を掴み、何とか一命を取り留める。

しばらく体力と思考力の回復をして、自力で川岸まで泳いで戻った。 猫も水を飲み疲弊してはいたが、大丈夫そうだ。


「沙夜・・・。 助かったよ。 もう駄目かと思った、ははは」

「突然、溺れたから驚いた。 竜真はもう少し、冷静に行動した方がいい」

「ここは泣いて、抱き着いてくれるところじゃないの?」

「それはないわね」


沙夜はそう言いながらも、手を差し伸べてくれた。 正直、予想以上に疲れ自力で立つのも難しかったのだ。


「・・・ありがとう」


沙夜は小さくそう言って、身を翻した。 今度は竜真にも確かに聞こえた。 それだけで、死にかけたのも忘れるくらいに嬉しかったのだ。 だが、同時に見てしまう。 彼女の頬に流れる、小さな雫を。


「なぁ、沙夜。 この猫・・・」

「酷い、誰がこんな・・・」


猫には沈まないための浮き具と、奇妙な機械のようなものがくくり付けてあった。


「俺が溺れる瞬間さ、身体に衝撃が走ったんだ。 もう濡れて壊れているようだけど、これが原因な気がする」

「何のためにそんな・・・。 あ、ちょっと待って、この匂い・・・。 樹亜さんの、お気に入りの香水・・・」

「え・・・」


竜真が鼻を近付けると、確かに香った。 水でびしょ濡れになってしまってはいるが、先程樹亜が割り込んだ時に匂った薔薇の匂い。


「お姉さ・・・。 あの人が、これをくくりつけて川に放り込んだのか?」

「分からない。 どうしてそんなことをするのか、理由も・・・。 ッ、あ! もしかして、髪飾りで・・・」


沙夜はこれまで両手の指では足りない程、自分のものを壊されてきた。 猫と沙夜の髪飾りに付いている蝶は、同じもの。 だから、沙夜がそう考えたのも自然だった。


「許せないな」

「・・・」


身体が多少乾いたのを見て、竜真は服を着て公園へと向かうことにした。 いくら怒っていても、救命浮き輪を返さなければならないためだ。 沙夜はその背中を見ながら、一人考える。

もし猫を川に投げ入れたのが樹亜だったとして、その理由は本当に猫だったのかということを。



―――竜真が言った、水の中での衝撃。

―――そして、壊れた機械。


元々、樹亜に抱いていたのは恐怖だ。 それを何も感じず、何も考えないように、これまで過ごしてきた。 だが今の状況を考え、それ以上におぞましい何かを感じる。

兄が死んだ原因も、もしかしたら――――と、考える程に。


―――証拠もなければ、憶測でしかない。


それでもやはり一度沸き上がった疑念を、消し去ることはできなかった。



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