生きる意味と死ぬ意味と⑧
結局小さい沙夜に、人の命を奪うことなどできるはずがなかった。 嫌がらせに一人耐え、押し黙る毎日を送るしかない。 ひたすら憎しみを募らせることになったが、それは仕方がなかったことだろう。
樹亜の両親は、夏休みの最終日に樹亜を引き取るためにやってきた。 全身日焼けをし、とても仕事を理由に子供を預けていたとは思えない。
現に持っているカバンの紐にタグが付いていたのだから、海外に行っていたのは間違いないだろう。 二人の仕事は、海外とは全くの無関係である。
『ありがとう、それじゃあね』
言ったのは、それだけだった。 もっとも仕事をしていた体でいるのだから、土産を持ってくることはできないのは分かるが。
呆然とする母親だったが、それでも最終的には笑顔で見送り、その後トイレで一人泣いていたことを沙夜は知っている。 だから言えなかった。
樹亜が最後に嫌がらせで壊した髪飾りが、証拠として残っていたことも母親の心を傷付ける。 だが父親が帰って来ると、流石に事態は一転した。
樹亜のことも、その両親のことも、聞けば許せるはずがない。 壊れた髪飾りも、その怒りを倍増させるために買った。 それがよくなかったのかもしれない。
二人は文句を言うため車で飛び出すように家から出ていき、そのまま事故を起こし帰らぬ人となってしまった。
兄と沙夜の二人だけを、置いて。
『本当にごめんなさい。 今日から、私たちが貴方たちの面倒を見るから』
沙夜にとって不幸だったのは、樹亜の両親が意外にまともだったということだろう。 二人はこれまでのことを、本当に悪気なくやっていたのだ。
沙夜の両親が自分たちに対して怒って出ていったことを知り、心から悲しんでいた。 行き場のなくなった怒りは、彼女の中で霧散する。
だからといって、それを忘れて生きることなどできはしない。 心の奥底に、抑え込んでしまったのだ。 それに子供が二人、保護者もなしに生きていくことは難しい。
幸い、残された遺産で経済的な問題はなかったが、それでもやはり引き取ってくれるという事実は大きかった。
だが、樹亜は違う。
彼女は悪気のない、愚かな両親に育てられた本物のモンスターだ。 一緒の家で暮らす苦痛は、言葉で表すことができない程。 それは表立って、何かをやってこないとしてもだ。
そんなある日、出かけ先で兄が冷たく言い放った。
『俺、お前のことが死ぬ程嫌いなんだよ』
正直、誠二の口から出た言葉の意味を理解することができなかった。 酷く冷たい目。 長年一緒に育ってきたが、そんな顔を見たのは初めてだった。 それが、一応の姉である樹亜に向けられている。
(え、二人は仲よしだったんじゃなかったの・・・?)
遊びに行こうと山へ出かけ、その時何があったのかはハッキリと憶えていない。 ただ兄が樹亜と握る手を切るように離し、言い放ったのだ。 沙夜と握る手だけは、ギュッと握ったまま。
『ふぅん。 理由を聞かせてくれる?』
『お前が沙夜をいじめているのを知ったから。 それなのに、よく理由を聞かせろだなんて言えるな!』
『・・・なるほど。 その女が原因ね』
沙夜は震えていた。 樹亜の目が、おぞましい程に冷え切っていたからだ。 ただ同時に、誠二がようやく自分の元へ戻ってきてくれたことも嬉しかった。
それに意外なことに、樹亜はそれであっさりと引き下がる。 これまでのことを知る沙夜はそれが逆に不気味だったが、誠二が自分に泣いて謝ってきたためそれどころではなかった。
『ごめん、気付かなくて。 俺が守ってやらないといけなかったのに』
『ううん、いいの。 私、お兄ちゃんのことを誤解して、何も言えなかったから』
竜真の心は、確実に変化していた。 歩く沙夜の横に並び、手を握る。 先程までできていたことにすら、躊躇いがあった。
―――俺は、手を繋いでていいのか・・・?
見た目は変わったが同じ相手だ。 無表情で、あまり喋らないのも変わらない。 なのに、通行人のいくらかは間違いなく振り返る程の変貌振りだった。
竜真も学校では知らない下級生から、突然告白されるくらいには人気があるというのに。 河川敷を何気なく歩き、小さな遊具がいくつか並ぶ公園を前にしたところで沙夜は立ち止まった。
「竜真」
「え? は、はい!?」
突然名前を呼ばれ、竜真は驚いてしまう。 それに沙夜は少し不思議そうな顔をしたが、特に突っ込むことはなかった。
「私、死ぬわけにはいかなかったから生きていた。 ただそれだけだった」
沙夜が自分のことを話すのも初めてだ。 やはり見た目だけでなく、彼女の考え方も少しずつ変わってきているのかもしれない。
「さっきの“姉”と名乗った人、本当の姉じゃないの。 養子先の娘っていうだけで」
「何かおかしいとは思ったけど、そういうことか」
「えぇ。 私に自殺させたいみたいで、色々とされたわ」
「え・・・」
竜真は言葉を失ってしまった。 沙夜があまりにも、あっけらかんと言ったからだ。 だが実際その“色々”には、地獄のような意味が含まれているのが分かる。
「これ、あげる」
沙夜が手渡してきたもの。 それは、小さな封筒だった。 竜真はそれを一目見た瞬間、唖然としてしまう。
「遺言書・・・。 って、沙夜!」
「私が今死ねば、私に残るものが全てあの女に奪われてしまうから」
「・・・死ぬ気は、ないんだよな?」
「今のところはね。 ただもうそれを竜真に渡したから、死ぬ意味はできたけど」
沙夜にただならぬ事情があることは、容易に分かった。 普通に生きていて、あれ程無気力になることもない。 それでも、認めることはできなかった。
「死ぬ意味ってなんだよ! 生きる意味はないのに、死ぬ意味はあるって意味分かんねーよ!」
「私が死ねば、私のお金は竜真に渡る。 そうすればあの人は、初めて自分の手に入れたいと思ったものを、手に入れられなくなるの。 悔しいでしょうね。
何年も何年も私に嫌がらせしてきたのが、無駄になるのだから」
「ふざけんなッ!」
竜真は封筒を思い切り破った。 沙夜はそれを見ながら、一人小さく呟く。
「・・・あーあ。 折角書いたのに」
天音と三人でいる時、一度竜真を除いて二人きりになったことがあった。 どうやらその時に書いていたようだ。
「沙夜の命を、そんなことのために無駄にしていいわけがないだろ。 それに、悔しがったとしてもそれを見ることができないじゃないか。
どうせなら、悔しがっているのを見て笑えるようになってみろよ!」
「・・・」
「沙夜は変わった。 変われるんだ。 彼女では何も奪うことができないくらいに、変わることだってできるはずだ!」
「何も、奪われないくらいに・・・」
河川敷をランニングする年配が、声を荒げた竜真を見てにこやかに笑いながら走り去っていく。 青春。 昨日までの二人とは無縁な言葉が、今この場を支配していた。
周りに誰もいなくなったところで、冷静になった竜真は自分がらしくなく熱くなったことに驚いてしまう。 だが冷静になったつもりが、全く冷静になれていないと次の言葉で分かった。
「沙夜、俺と付き合ってくれないか?」
「・・・え!?」
突然の告白には、流石の沙夜でも驚きを隠せていないようだ。 勢いで言った言葉だが、心にある感情に嘘をついたわけではない。
「俺は今日一日、沙夜の時間をもらった。 意味を探すため。 元々は、本当にそれだけのつもりだった。 だけど、沙夜と一緒にいて考えも変わったんだ。 もっと一緒に居たい。
生きる意味がないのなら、俺が生きる意味になりたいって、そう思うようになったんだ」
「・・・」
「延長、できないかな。 今日一日を、この先ずっとに」
「・・・考えておく」
沙夜はそう言うと、顔を背けた。 無表情ではなく、明らかに動揺し顔が赤らんでいる。 竜真に答えを急がせる気など毛頭ない。
伝えたいことを伝え、沙夜の考えが変わってくれればそれだけで嬉しかったのだ。
二人が沈黙を保ち、どのくらいだっただろうか。 突然川の方から緊迫した声が聞こえ、二人共我に返った。
「ニャァー!」
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