生きる意味と死ぬ意味と⑦




小橋沙夜は、元々はごくごく普通の少女だった。 といっても、生まれ自体は平凡ではないのかもしれない。 両親はインターネットで名前を検索すれば、トップに表示されるくらいに売れっ子の漫画家。

その印税は天文学的数字、とはいかないが、一家が裕福に暮らせるくらいには収入が多かっただろう。 二歳離れた兄によく懐き、両親と幸せに暮らしていく。 ――――はずだった。


『初めまして。 私、樹亜っていうの』


歯車が狂い始めたのがどこなのか、それは沙夜自身も未だによく分かっていない。 おそらく初めての夏休み直前、従妹の樹亜を連れて叔母の一家がやってきた時だと考えている。


『私たち仕事が忙しいから、しばらく樹亜ちゃんを預かって欲しいの』

『ずっと家で気楽に仕事をしている貴女なら、それくらいお手の物でしょ?』

『何? 聞けないっていうの・・・? 妹なんだから、姉の“お願い”を聞くのが普通じゃない』

『それじゃあ、よろしくねー!』


沙夜はその時、母親が困った顔をしていたのをよく憶えている。 家で仕事をしているといっても、売れっ子の漫画家が気楽なわけがない。 締め切りに追われ、寝れない日が多いことも知っていた。 

それでも預かってしまったのは、お人好しのためだろうか。 そういう風に育った、姉妹関係のせいだろうか。 手がかからない子供ならまだいい。 だが樹亜は、遠慮というものを知らなかった。

才能に恵まれ、周りから可愛がられて育った彼女は、自分を中心に世界は回っていると考えていたのだ。


『へぇー! お兄さんの名前、誠ニっていうんだ? カッコ良いね!』


樹亜はやたらと沙夜の兄に関心を示した。 というより、他には何の関心も示さなかったという方が正しい。 沙夜が自己紹介をしようとした時は、途中で遮り名前を憶えようともしなかったくらいだ。


『それ、私もほしいなぁ!』


沙夜が持っているものを、樹亜も何故か欲しがった。 アクセサリーでもぬいぐるみでも、全く同じものを。 もし小橋家が裕福ではなかったら、樹亜に同じものを買い与えることはなかっただろう。

だがお金に余裕があったため母親は、面倒な少女の機嫌を取るために買い与えてしまったのだ。 それがよくなかった。


(どうして、そんなことをするの?)


樹亜は、その手に入れたものを壊し捨てていた。 沙夜にだけ分かるように、証拠を残さないように。 大切にしているのと同じものを、無残にバラバラに蹂躙し廃棄する。 それが嫌でたまらなかった。

もっとも樹亜自身、沙夜に対する嫌がらせとしてやっているのは分かっている。 “そんな生活も夏休みの間だけ” 沙夜はそう考え、耐え忍んでいた。


『ねぇ、お兄ちゃんがいないよ』


父親に連れられてやってきた、夏祭りの日。 兄と樹亜の二人が、いつの間にかはぐれてしまう。 

沙夜は父親の手を握って(本当は兄と手を繋ぎたかった)いたため、人ごみに紛れた二人に気付かなかったのだ。 当然、夏祭りどころではなくなり二人を探し回った。 そして、見てしまうのだ。


樹亜と大好きな兄が、キスしているところを。


(何を、しているの・・・?)


その最中、樹亜が沙夜のことをジッと見つめ、意味深に笑ったのをハッキリと憶えている。 小さかった沙夜でさえも、何となく分かってしまった。

もう大好きな兄は、自分のもとへ戻ってくることはないのだと。


(お兄ちゃんが、壊されて捨てられるかもしれない)


それでも沙夜は大切な兄のことを案じ、守らなければならないと思った。 たとえ樹亜の命を、奪ってでも。






竜真は沙夜と共に、ある場所へと向かっている。 時間的に制服姿の生徒も増え二人の姿も目立つことはなくなるはずなのだが、場所が場所だけに非常に目立っていた。

ネオンこそ煌めいてはいないが、明らかな歓楽街。 それは肌露出の多い広告からも、ハッキリと伝わってくる。


―――流石に不安、かな・・・?


沙夜の調子はといえば、相変わらずだ。 特に視線を動かすこともなく、動じることもなく。 おそらくは、慣れていないはずの場所に興味を示すこともない。


「ちょっと、沙夜に会わせたい人がいてね」

「・・・そう」

「たくさん歩かせてごめん。 普段、保健室にいるなら疲れたでしょ」

「歩くのは好きだから。 それに、今日は竜真の言うことを聞かないといけないみたいだし」


諦めたかのように言う沙夜だが、やはり嫌そうな雰囲気は出していない。 ただそれでも、目的地を見て怪訝な表情を浮かべたのは仕方がないことだろう。


「竜真、もしかしてそういう趣味が・・・?」

「違う違う違う違う!」


連れてきたのは主に女性をターゲットとし、外見のいい男性が接客を行う飲み屋。 いわゆる、ホストクラブであった。 ただ普通と一つ違う点といえば、男女どちらも歓迎しているということ。


「スタッフは全員女性・・・。 どういうこと?」

「見ての通りだよ。 この写真の人たち、全員女の人が男装しているんだ」

「・・・まさかとは思うけど、私をここで働かせようとしている?」

「違う違う違う違う!」


竜真は手をぶんぶんと振った。 当然であるが、まだ中学生である二人はホストクラブで働くことなんてできはしない。

もし無理矢理にでも働かせようとしたら、店のオーナーも竜真も沙夜も、全員仲よくお縄になる。 最初から、そんな気はない。


「久しぶり、りゅうちゃん。 その子がシンデレラガールね?」


店の扉から出てきた女性が、沙夜を見てそう言った。 長い金髪に濃い目の化粧ではあるが、絢爛な衣装も含め絶世を付けても恥じない美女だ。


「お久しぶりです、天音さん。 今日は女性の日なんですね」

「女性の日っていうと、意味深に感じるわね」

「いや、たださっき女の人が男装している店って、説明したばかりだったから」

「そういうことね」


天音というこの女性は、このホストクラブのオーナー兼ホステスだ。 ただ彼女はトランスジェンダーではなく、中身は完全に女性。

単に自分が好きな恰好をしたいという欲求で、日によって男装と女装を決める変わった性癖を持っている。


「ねぇ、シンデレラガールって何・・・?」


その時、沙夜が小声で尋ねかけてきた。


「そのままの意味だよ。 沙夜にはこれから、天音さんのコーディネートを受けてもらおうと思っているんだ」

「・・・やっぱり強引ね」


沙夜はそれだけしか言わなかった。 普通の女子がそのようなことを言われたら、当然躊躇うだろう。 お洒落に意味がないとも言っていた。

だが逆に、だからこそ何をされるのにも抵抗がないのだ。 例え黒雨とまで揶揄される髪を、切ることになったとしても。


「この子、化けるわ。 姿勢と表情を変えるだけでも十分過ぎるくらいに」

「それだけで・・・?」

「りゅうちゃんって、女の子を見る目があるのかないのか分からないわね」


竜真はそう言われ、少しバツが悪かった。 もともと沙夜が気になったのも、変わっていたからに過ぎず容姿に目を付けたわけではない。

よくよく考えてみれば、彼女の顔もまともに見ていなかった。


「笑顔っていうのは、楽しい時や嬉しい時に感情を表現する顔。 でもそんなのは、夜の世界では嘘。 私たちにとって笑顔っていうのは、ただの技術でしかないの」


天音は沙夜の髪に、櫛を入れながら言葉を続ける。


「結局人生っていうのは、技術の集大成なのかもしれないわね。 勉強や運動もそうだし、人付き合いやその他諸々。 性格ですら、ある程度の技術で誤魔化すことができる」


天音が何故、このような話をしたのか分からない。 竜真自身、兄に簡単に伝えただけだったし、沙夜の外見を変えようと思ったのも、それ程深い意味はなかった。

なのに天音はまるで、沙夜のことを竜真よりも理解しているように話す。 沙夜も何も言わずに、その言葉にジッと耳を傾けていた。


「うん、やっぱり素直で可愛い子。 中学生じゃなかったら、ウチで雇いたい程に」

「天音さんところって、男装させるんじゃ・・・」

「普通に可愛い女の子と話したいっていう子も多いのよね、これが。 もちろん、女性でね」

「そうなんですか」

「さて。 ここだとこれ以上は限界だから、行きましょうか」


天音がやっていたことは、髪を軽くいじった程度。 相変わらず無表情だというのに、既に沙夜の印象が変わりかけている。

それから三人は服屋や美容院を巡り、最終的に天音のクラブまで戻り化粧するまでに至った。 驚くべきことに、沙夜は髪を切るといっても一切抵抗しなかったのだ。

全てを諦めていたのか、全てを受け入れていたのか、それは彼女しか分からないのだが。


「どうして、ここまでしてくれるの・・・?」

「そんなのただの趣味よ」


会計の全てを天音が支払っている。 なのに嫌な顔一つせず、本当に楽しそうに沙夜のメイクアップを行っていた。 現在いるのは天音の店のホールだ。

営業していないため、ただの部屋でしかないのだが、それでもクラブに入ったことのない竜真からしてみれば、調度からその他に至るまで物珍しいものに見えて仕方がなかった。


「よし、完成ッ! 予想以上だったわね」

「これが、沙夜・・・?」


竜真が驚くのも無理はない。 特段垢抜けたというわけではないが、同年代の少女と見比べてしまえば“月とスッポン”と形容できる程に、沙夜は変わっていた。


「じゃあ、私はお店の準備があるからこれくらいで」

「あ、はい、すみません。 忙しいところ、ありがとうございました」

「いいのよ。 秋生によろしくね」


秋生(アキオ)というのは、竜真の兄だ。 二人の現在の関係は分からないが、同級生で過去に何かしらあったということだけ竜真は知っている。

天音は笑顔を僅かに緩めると、入口の方を眺めながら沙夜に語りかけた。


「私、昔荒れていてね。 全てを受け入れ、全てを拒否し、目に付く何もかもを傷付けていたような時期があったの」

「・・・?」


沙夜は上目遣いで、天音を見つめていた。 何気ない仕草だが、今の沙夜だとそれだけで絵になっている。


「人生を無価値だと信じ、誰の言葉も信じず、獣のように生きていた。 例え獣だとしても、その一生が無価値なわけないのにね」

「・・・」


竜真も黙って耳を傾ける。 沙夜に、動物みたいだと言ったことがあった。 だがそれは間違っていたのだと、教えられた気がする。


「まぁ、自分一人で気付いたことじゃないんだけどね。 教えてくれた人がいたの。 人は孤独のように思えても、孤独じゃない。 誰か一人でも自分のことを覚えている人がいたら、一人じゃないってね」

「・・・天音さんの、家族は?」


この時初めて、沙夜が自分から天音に尋ねかけた。


「血の繋がった人は、みんな流れ星になっちゃった。 ウチにいる子は、そういう子が多いの」

「・・・そう、なんですか」

「人がいれば繋がれる。 今こうして、私と沙夜ちゃんが繋がったようにね」

「・・・うん」

「お! 何すか! 超可愛い子がいるじゃん!」


その時、入口が開き全身グレーのスーツに身を包む人影が現れた。 髪を銀色に染め上げ凛とした顔立ちではあるが、明らかに女性である。 そんな彼女が、沙夜と竜真を交互に見つめていた。


「店長、もしかして新人っすか?」

「いやいや、二人共中学生よ」

「何だぁ。 どっちもめっちゃ美味そうと思ったんだけどなぁ」


そう言い残し、彼女は店の奥へとツカツカと歩いていく。 “どっちも”という言葉が竜真には気になって仕方なかったが、深く突っ込まないようにした。


「彼女なりの冗談だから気にしないで。 さぁ、そろそろ騒がしくなりそうだから解散しましょうか」

「あ、はい」


竜真が頭を下げたのを見て、天音は沙夜に笑いかける。


「沙夜ちゃん、何かあったらいつでもおいで」

「・・・ありがとうございます」


そのまま彼女は沙夜の耳元で何かを囁くと、店の奥へと消えてしまった。


「ねぇ、竜真」

「え、何・・・」


天音を見届けた後、沙夜はその場に立ち上がると予想外にも手を差し伸べてきたのだ。


「ありがとう」


彼女は満面の笑みを浮かべていた。 学校で出会った時とはまるで違う容姿、まるで違う表情、全身から放つ気配は既に別人かと錯覚してしまう程に輝いている。 だが、それも一瞬のこと。

フッと真顔に戻ると、別人かとも思えた沙夜が元の沙夜へと戻っていた。


「行こう、竜真」

「・・・あ、あぁ」


店を後にしながらも、竜真は胸の鼓動を抑えることができない程に、沙夜に惹かれる自分がいたのをここで感じていた。



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