二人だけの世界
翌朝、稲田はけたたましい声によって目を覚ました。
部屋のテレビがつけっぱなしになっていて、どうやらそこから声が聞こえてくるようだ。
「稲田ー! 起きろー!」
テレビ画面の中で、寝間着姿の栗生が騒いでいる。
主人公の部屋まで起こしに来る幼馴染というのはゲームや漫画でよく見るが、リモート通信で起こしてくる女は初めて見た。
そこでようやく、昨日の出来事を思い出した。テレビ通信を繋ぎっぱなしで寝たということを。
欠伸をしながら部屋の照明を点け、ベッドに座る。
「もう起きたぞ」
「おはよう」
「おはようさん」
「うん。じゃあ、満足したからもう通信切るね」
「えっ」
栗生はあっさり通信を切り、画面が真っ暗になった。
結局、俺を起こしたかっただけなのか……?
そして、今日は賀来が部屋まで起こしに来ていないことに気が付いた。もしかしたら気を遣ってくれたのかもしれない。
寝起きの回らない頭で考えながら、稲田は朝の身支度を始めた。
しばらくの間ベッドに座って待っていると、中瀬と賀来が部屋までやってきた。二人とも私服の上に白衣を着ている。
「おはよう。稲田」
「おはようございます」
いつも通りに挨拶する二人とは反対に、稲田は少し緊張した。これから栗生が死に、自分は元の世界へ帰還することになるのだから。
「二人とも、お揃いで」
「昨日はよく眠れたか?」
「おかげさまで。で、もう始めるのか?」
「君さえよければだが」
「今まであえて訊かなかったが、栗生はどうやって死ぬんだ?」
そう尋ねると、賀来が話に加わった。
「こちらで作った薬を飲んで頂きます。味も見た目も水と同じですが、とある成分がマシマシで苦しまずに絶命します」
「よく分からんが……そんなの作って法的に大丈夫なのか?」
「おそらくですが……ダメだと思います」
「まあ、栗生が苦しまないならいいけど……」
稲田の浮かない顔を見て、中瀬が諭すように言った。
「どうか我々を恨まないでほしい。これは栗生の意志であり、君とこの世界の稲田のためであることはもちろんだが、戸籍のないドッペルゲンガーを我々の手でずっと匿うのは現実的にも難しいんだ」
「大丈夫だよ、分かってるから……」
室内に重い空気が漂う。
すると、賀来がそんな雰囲気をものともせずに言った。
「それでは、私は栗生さんの部屋に行って通信を繋ぎます」
そう言って部屋から出ていった。稲田は中瀬の顔を見上げる。
「今日はアンタが俺のギャラリーか」
「君には一応世話になったからな。所長である私が直々に見送ってやる」
中瀬はベッドの上――稲田の隣に腰掛けた。
彼女と二人で話すのも久しぶりだ。
せっかくなので、稲田はずっと気になっていたことを訊くことにした。
「結局、アンタの目的って何なんだ? 異孤を解明して、それからどうしたいんだ?」
「私の目的? そんなの一つしかないさ」
中瀬は遠い目をして言った。
「男と女が一緒に生きられるようにすることだよ。バカみたいだろう? こんな世界で……」
「全然。俺は嫌いじゃねえぜ、そういうの」
「……君たちの世界でもいつか異孤が起こるかもしれん。その兆候のようなものは今のところないか?」
どうだろうと稲田は考えてみた。自分たちの世界の男女のいさかいは、異孤の前兆なのだろうかと。
まさかなと思い、フッと笑う。
「ねーよ。俺たちは
「そうか、それは何よりだ」
中瀬も小さく笑った。
だが、いつものニヤニヤとした嫌らしい笑い方ではなく、夢に焦がれる少女のような微笑みであった。
二人はそれっきり黙り込み、何も映っていないテレビ画面をぼうっと眺めていた。
稲田はふと思いついたことがあり、また口を開いた。
「なあ、ひょっとしたらアンタも――」
「画面がついたぞ」
稲田の言葉を遮るかのようにテレビ通信が繋がった。
昨日と同じように手前側に栗生が座っていて、その後ろに賀来が立っている。
さっそく中瀬が声をかけた。
「栗生、気分はどうだ?」
「うん、大丈夫」
今から死ぬというのに、栗生の表情は落ち着いている。
「いつでも始められるが、どうする? 少し話でもするか?」
「うーん。中瀬さん、一つ変なこと訊いてもいい?」
「どうした?」
「私が消えたら、この世界も消えてしまう……なんてことはないよね?」
それを聞いて、稲田は首を傾げた。
栗生、急にどうしたんだ?
稲田には話がよく見えないが、中瀬が優しげな口調で答えた。
「おかしなこと訊くじゃないか、どうしてそう思うんだい?」
「やっぱり、この世界ってなんか変っていうか……存在自体があやふやっていうか……上手く言えないけど……」
「ふうむ。つまり、こういう話か? この世界は君の心象風景のような場所であり、そして今の君が消滅したらこの世界も消えてしまうと」
「うん、そんな感じ……」
「なかなか面白い仮説だな。君は学者向きかもしれんぞ」
「いや……ありあえないだろ、そんなこと」
稲田が割って入る。やっぱり栗生は死ぬのが怖くなったんじゃないかと心配になった。
しかし、中瀬と栗生だけで話が進んでいく。
「もしこの世界が本当は存在しない世界で、我々はノンプレイヤーキャラクターのようなものであったら……この世界で本当に生きているのは栗生と稲田だけで、ここは二人だけの世界ということになるのかな」
「…………」
「可能性としてはまあ……絶対ないとは言い切れない、といった程度だよ」
「そっか……」
「栗生、自分が死んだあとのことなんて誰にも分からないんだ。君自身もそれを観測することはできない。だから、必要以上に心配なんてしなくていい。残された人たちでどうにかやっていくさ」
「……わかった、ありがと」
栗生はいつもの笑顔を見せた。彼女の中で何かが腑に落ちたようだ。
稲田も中瀬に質問してみることにした。
「この世界の俺が目覚めたらどうするんだ?」
「そりゃあ、私の大事なモルモットにする」
「日常生活に戻れるよう、私たちがサポートしますのでご安心を」
賀来が口を挟んだ。
「ま、そういうことだよ」
「やれやれ……」
稲田が呆れた顔をしていると、中瀬が稲田の方を向いて言った。
「もし男女が共に生きられるようになったら、この世界の栗生と会わせてやってもいいぞ。君ら二人は死別しても、別の世界で再び巡り会うということになる」
「……あんたって、結構ロマンチストだよな」
「ロマンがなきゃ、科学者なんぞやってられないさ」
「ちげえねえ」
稲田はニヤリと笑った。
「さて、話はこんなところかな。賀来、例のアレを」
「はい」
賀来が一旦画面から消え、数秒後にまた戻って来た。
「栗生さん、どうぞ」
そう言って、高級感の漂うティーカップを栗生の前に置いた。毒薬をわざわざあんなものに入れるとは。
「稲田、君はこれだ」
中瀬が白衣のポケットから250ミリリットルのペットボトルを取り出し、稲田に渡した。見た目は水っぽいが、ラベルは付いていない。
「なんだ、これは」
「平たく言えば、睡眠薬だ。この世界の稲田がすぐに目覚めたら困るからな」
「なんか俺だけ扱いが雑じゃない!?」
「日頃の行いだ」
だが、そんな風に中瀬と言い合っているうちに、栗生の様子がおかしいことに気付いた。
ティーカップには手をつけず、それを見つめたまま微動だにしない。
飲まないのかとは訊けるはずもなく、皆どうすればいいのか分からなくなってしまった。
本当はまだ終わりたくない、この時間が少しでも長く続いてほしい、この場にいる誰もがそう思っている。
稲田も栗生に何と声をかければいいのか分からなかった。
しかも今日は朝に起こしてもらって以来、まだ直接言葉を交わしていない。
やがて、この状況を見兼ねた中瀬がまた喋りはじめた。
「そういえば、昔は男女の関係が認められる儀式があったとか言っていたな。何て言葉だったか……」
「『結婚』のことですね。確かに一度そんな話をしましたね」
賀来が、部下らしく話に乗っかる。
「ああ、それだ。せっかくだから、君たち今結婚したらどうだ?」
「はぁっ!?」
稲田が思わず声を上げた。
「ダメなのか?」
「いやいや。そういうのは、先に親への挨拶とかをする必要があってだな」
「困りましたね。今までの話をまとめると、稲田さんが栗生さんの親御さんに挨拶するのは、元の世界へ戻ったあとなのに……」と賀来。
「それはそういう話じゃねーよ!」
三人の低レベルな会話を聞いて、栗生が笑いを堪えていた。
「あはははっ」
すぐに堪えきれなくなって大笑いした。
「あー、おかしー。中瀬さん、賀来さん、ありがとう。結婚は今はしなくても大丈夫だよ」
「栗生?」
「稲田、聞いて」
この通信が始まってから、初めて栗生が稲田に話しかけた。
「アンタがもし生涯独身で人生終わっちゃったら、私が天国で結婚してあげるよ」
「お前……」
「でさでさ、子供も産んであげるからさ、報酬月三十万貰おうっ」
そう言って、にししっと笑う。
「あーでも、普通に誰かと結婚してたら今の話は無しでいいから、そんなに気にしなくてもいいよ」
栗生の想いに、稲田は感極まった。
そんなこと言われたら、余計結婚できなくなっちまうじゃねえか――。
言葉を失っている稲田を見て、栗生は慈しむように瞳を細める。
そして、栗生はとうとうティーカップを手に持った。
中瀬が彼女に声をかける。
「もういいのか?」
「うん。これは結婚の盃だけ先に飲むってことで」
「そうか。二人とも、今までありがとう。君たちのおかげで研究の活路が開けたよ」
中瀬が二人の顔を交互に見た。
「助けられたのは私たちの方だよ。元気でね」
「言っておくが、私だって悲しくないわけじゃないんだぞ? 二人がいなくなったあと、こっそり泣かせてもらうよ」
それに続いて、賀来も静かな口調で語りかけた。
「私も、お二人と共に過ごした日々はとても楽しかったです。ありがとうございました」
いつも通り表情を変えずにそう言ったので、すかさず稲田がツッコんだ。
「それなら、こんなときぐらい楽しそうな顔をしたらどうだ?」
「稲田さん。世の中の無愛想な人が皆、ここぞという場面でいい感じに笑ったり泣いたりすると思ったら大間違いですよ」
「へっ、アンタは最後までブレねえな」
稲田の方が思わず笑ってしまった。
賀来が笑顔を見せるのは、彼女が誰かに恋をしたときかもしれない。
それができる世界を、きっと中瀬が実現してくれるだろう。
「賀来さんもありがとう。私たちのこと忘れないでね……。それじゃあ稲田、準備はいい?」
「あ、待って」
稲田はペットボトルの蓋を開けた。震える手をなんとか抑えた。ちょっとだけ泣きそうだ。でも頑張って堪えた。最期は笑顔でお別れしたいから。
二人はそれぞれ毒薬のティーカップと睡眠薬のペットボトルを顔の前に掲げた。
「稲田とは話しすぎると名残惜しくなっちゃうから、最後に一言だけ」
「あ、ああ……」
「夢みたいな楽しい日々はこれで終わり。稲田は本当の現実を生きて」
「え……?」
どういうことだ?
結局はまやかしのようなものなのか?
この世界で栗生が生きていたことも、これから死んでいくということも。
稲田は困惑した。
しかし、もう残された時間はない。
気を強く持ち、彼女の望んでいる言葉を叫ぼうとした。
「俺、ちゃんとお前の両親に伝えるから! お前は最期まで幸せだったって!」
「ありがとう……! 稲田のこと、大好きだよ」
栗生は、自分が伝えたいことだけを口にした。
相手の望みを叶えることだけが愛の形というわけではないから。
「ではでは、私たちの青春に、乾杯っ!」
栗生は笑顔でそう言って、ティーカップの中身をゆっくりと飲んだ。
稲田は慌てて、睡眠薬を一気に喉へ流し込む。
すると、頭がくらくらして意識が朦朧としてきた。
栗生はティーカップを置き、儚げな微笑みを浮かべている。
画面の中の栗生の存在感が希薄になり、その姿が徐々に透けていく。
もう彼女の命はなく、この世界での形が失われようとしている。
栗生、いかないでくれ……。
霞んでいく視界の中、声にならない声で栗生に呼びかける。
だが稲田の願いは届かなかった。
彼女は完全に消滅した。
まるで、その椅子の上には始めから何も存在していなかったかのように。
源五郎のハート型のペンダントだけが消えずに残り、ポトリと下へ落ちた。
次の瞬間、稲田の意識が体から剥がれ、広大な次元空間のどこかに存在する元の世界へ飛ばされていった。
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