エピローグ

alternative world

 遠くから、声が聞こえる。

 恐れ、驚愕、悲しみ、戸惑い。そんな負のオーラを纏った声の群れが、暗闇を駆ける魔物のように近づいてきて、まだ眠っている耳を乱暴に掴んだ。


 目が覚めると、電車の座席に座っていた。

 どこかの駅で停止していて、周りの乗客はホームの向かい側を見ながら騒然としている。


 なんだか頭が痛い。

 稲田は一瞬、電車で居眠りでもしていたのだろうかと考えた。

 とても長い夢を見ていたような気がする。


 ポケットからスマホを取り出し、時刻を確認する。

 三月二十五日、午後六時三十七分。

 日時が過去に戻っている。


 その時刻を目にした瞬間、心臓が強く跳ねた。


 稲田は全てを思い出した。自分がさっきまでパラレルワールドのような世界にいたということ。栗生が目の前で毒薬を飲んで死に、その姿が消滅してしまったこと。


 慌てて周囲を見回してみる。

 車内には様々な乗客がいた。サラリーマン、女子高生、お爺さん、お母さんと小さな男の子――。そう、男と女が一緒にいるのだ。

 彼らは一様に困惑した表情を浮かべている。



 元の世界に帰って来れたのか!?



 中瀬が言っていた通りだ。栗生が痴漢に遭い、自分が突然眠ってしまったあとの時間へと戻って来ている。


 そして、同時に気が付く。

 ここはであるということを。


「栗生ううっ!」


 稲田は思わず立ち上がり、全速力で電車から飛び出した。

 怪訝そうな目で見てくる人々を避けながら、事故現場へと向かう。


 ホームの反対側では、確かに電車が中途半端な位置で停止していた。扉はまだ開かれていない。


 電車の前方に目をやると、見るも無残な死体が一つ、線路の上に転がっていた。


 ホームの上からおそるおそる覗き込む。

 だが、中年の男だ。栗生ではない。きっと痴漢の犯人だろう。



 栗生はどこだ!?



 犯人の死体の周囲に目を凝らす。

 が、見つからない。


 迷わずホームから線路へ飛び下り、電車の側面の方へ行ってみる。


 すると、数メートル先にもう一人誰かが倒れているのが見えた。


「栗生!」


 もう一つの遺体のもとへ駈け寄る。


 近づいてみると、それはやはり栗生であった。

 茶髪のショートヘアーに黒いキャップ、マウンテンパーカー、ショートパンツに黒いタイツ、大きめのリュックサック。


 そしてその顔は――瞳を閉じて安らかに微笑んでいた。

 まるでお昼寝をしながら良い夢を見ているときのような、あるいはイタズラがバレてはにかんでいる子供のような、そんな表情だ。


「栗生っ、起きろよ!」


 必死に呼びかけながら体を揺さぶるが、反応はない。


 それから、栗生の遺体が妙に綺麗だということに気が付いた。

 正直にいえば腕が一本なくなっているくらいのことは覚悟していたが、目立った外傷らしきものは見当たらない。



 もしかしたらがっつり轢かれたんじゃなくて、電車の角にちょっと当たっただけで済んだんじゃないのか!?



 一縷の望みをかけ、手首の脈拍を確認してみた。しかし、脈はない。

 口に指を添えて、呼吸を確認する。だが、息をしていない。

 心臓の位置に手を当て、鼓動を確かめる。動いていない。

 栗生が生きているという印はどこにもなかった。



 これが、――。



 そう思いかけたが、頭を振って自らを奮い立たせた。



 いや、諦めるな!

 ショックで心臓や呼吸が止まって「死の状態」になったケースだとしたら、すぐに処置をすれば蘇生させられるかもしれない!

 こいつは死ぬ直前、俺に助けを求めていたんだぞ!?

 だから俺は、あっちの世界まで連れて来られたんだ!

 そこでも助けることはできなかったけど、最後のチャンスが来たんだ!

 助けられるのは今しかないんだ!



 上着を脱いで地面に敷き、そこに栗生を横たえる。

 それから、うろ覚えの知識で心臓マッサージと人工呼吸を始めた。


 胸の中心を強く、速く、何度も押す。

 顎を引き上げて気道を確保し、自らの口で栗生の口を覆って、息を吹き込む。

 生き返れ、生き返れと必死に念じながら。


 救命処置を繰り返しているうちに、頭痛が段々と酷くなり、意識が朦朧としてきた。



 ここで倒れちゃダメだ、栗生を助けなきゃ――。



 気力を振り絞り、心臓マッサージを続けようとする。

 しかし、またしても急激な眩暈に襲われる。


 背後から誰かが近づいてくる気配を感じた。

 振り向くと駅員がいて、肩を掴まれた。


「大丈夫ですか!?」


「あ……はい……」


「この人の関係者ですか?」


「いえ……」


 咄嗟にそう答えてしまった。今の自分と栗生の関係を表す適切な言葉が瞬時に思い浮かばなかったから。


 だが彼女を助けるため、肩で息をしながら嘆願するような声で言った。


「でもこの人、息が止まってるんですけど……はぁ……まだ助かるかもしれないから……はぁ、はぁ……」


「あとは任せてこっちに来て!」


 駅員に引っ張られて立ち上がる。

 もう一度栗生の方を見てみると、別の駅員が二人、彼女の様子を確認していた。

 片方が何かを指示され、ホームの方へ小走りで向かった。


「さあ!」


 再度促され、稲田も歩き出した。

 できる限りのことはやった。あとは託すしかない。


 そのあと稲田の体調が明らかに悪そうだったこともあり、駅の事務室へ連れていかれた。

 そこで、休憩がてら稲田の行動の経緯について話を聞かれた。

 勝手に線路へ下りたことについては、既に電車が停止しており、救命のためであったことから厳重注意だけで済ませてもらえた。


 事務室から解放されたあとホームへ戻ってみると、電車はまだ止まっていた。


 ホームにいる初老の駅員に、事故にあった二人のうち女性の方はどうなったかを尋ねた。

 すると、救急隊員によって運ばれていったと言われた。栗生の安否など、詳しいことは彼にも分からないらしい。


 犯人の死体も線路から片付けられていた。

 稲田はしばらくホームをうろうろしながら様子を見ていたが、これ以上いても仕方がないと思い、その場から立ち去った。


 栗生の実家の電話番号は聞いてある。落ち着いた頃に電話してみるしかないだろう。どう話せばいいのかは見当もつかないけれど。




 駅の構内を歩き、改札を抜け、駅前の駐輪場で自転車に乗る。

 このルートを通ると、あちらの世界に迷い込んだ日のことを思い出す。あのときは街中に男しかいなかった。


 だが今は男と女が一緒にいる。ときには助け合い、ときには傷つけ合いながら、共にこの世界を生きている。稲田にはそれが一つの奇跡のように思えた。


 静かな夜の帰り道を自転車で走り、自宅のあるアパートの前に到着する。

 が、稲田は自転車を停める前にふと思った。



 あいつ、あのときは駅から出たあと公園に向かったんだよな……。



 そのことを思い出し、栗生と出会った公園に行ってみることにした。

 なんとなく、あの日の彼女を追いかけたくなったのだ。


 自転車なので公園にはすぐに到着した。

 辺りを見回してみるが、公園の中には誰も見当たらない。

 

 滑り台の上も見てみる。

 あのときは栗生がいたが、今はやはり誰もいなかった。


 稲田は滑り台の上に上り、夜空を見上げた。


 半月が暗闇の中でひっそりと浮かんでいる。

 それを眺めていると、今この瞬間、あちらの世界でも栗生が同じように月を見上げているように思えた。


 もちろん、この世界とあちらの世界では時間軸が一致しないことは理解している。

 でも、今この滑り台の上で栗生が背中合わせに立ちながら、涙を流している気がしてならないのだ。


 稲田はできることなら彼女の頬を濡らす雫を拭ってやりたいと思った。

 仲間として、恋人として、男として――。


 半分の月が、稲田の世界で煌めいている。

 もう半分は、あちらの世界で光り輝いている。

 稲田は分かたれた世界の片側に独りで立ち尽くし、いつまでも栗生のことを想いつづけた。




 この世界に帰還してから、約一ヶ月が経った。

 稲田は大学二年生になり、今日はゴールデンウィーク前の最後の授業日だ。


 天気は良いが、気分は晴れない。

 かったるい体で朝の電車に乗り込み、端の席に座った。


 いつものようにポケットからスマホを取り出し、SNSを眺める。今日は、政府の外交政策に関する話でユーザーの議論が白熱しているようだ。男女問題に関する話題は特になかった。


 そんな論争にも飽きてしまうと、スマホを仕舞いただぼんやりと時を過ごした。



 そろそろ栗生の実家に電話しないとな。



 ふと、そんなことを思った。


 栗生が事故に遭ってから一ヶ月が経過したが、稲田はまだ安否を確かめていなかった。

 単純に、生死を確かめるのが怖いというのはある。もし栗生が死んでしまったと聞かされたら、今度こそ立ち直れなくなるかもしれない。だから結果を知るのを先延ばしにしてしまっている。


 だがそれともう一つ、最近は頭に別の考えがよぎるようになっていた。


 男と女が分かれて住んでいた日本、あれは本当に存在していた世界なのだろうか、と。全ては電車で眠っている間に見た、夢や空想の類なのではないだろうか。


 始めは栗生の実家が落ち着くまで待っているだけのつもりだったが、日にちが経つにつれてその想いは段々と強くなり、あの世界を旅した記憶は薄れていった。夜寝ている間に見た夢の記憶が、朝目覚めると徐々に霧散してしまうのと同じように。


 栗生の実家の電話番号も妄想で、電話してもどこにも繋がらないのかもしれない。そもそもあの女の子の名前も栗生ではないのかもしれない。そんな可能性を否定できなくなっていた。真実を知ってしまうのが怖くて、その電話番号にかけられずにいた。


 電車が隣の駅に到着し、扉が開いた。

 乗客が何人か降りていく。


 稲田は最後に見た栗生の顔を思い出してみた。

 彼女は瞼を閉じ、穏やかに微笑んでいた。


 もし自分の記憶がただの夢なら、どうして彼女はあんなに優しい笑みを浮かべていたのだろう。痴漢に遭ったあと電車に轢かれるという最悪な状況であったのに。


 本当は信じたい。稲田はそう思った。



 二人でバイクに乗りながら眺めた青い空や広い海、公園に咲いていた美しい桜、俺たちが共に過ごした日々も全部、なんだって――。



 やっぱり今日栗生の実家に電話しようと、稲田はようやく決心した。もし栗生が死んでしまっていても、彼女の想いを伝えるという約束を果たさなければならない。


 新たな乗客が電車に乗り込み、座っている稲田の前のスペースに立った。

 この電車は都心とは逆方向へ向かうので、朝もそれほど混雑はしない。


 稲田は目の前にいる乗客を見て呆然とし、俯いた。

 小さな声で自分に語りかけるかのように呟く。


「こうしていると、あのときのことを思い出す……」


 電車の中で、初めて栗生と出会った。


「痴漢されていたのに助けることができなかった」


 突然眩暈に襲われ、眠ってしまった。まるで何かの狼煙であったかのように。


「あっちの世界でも大したことはできなかった」


 異孤という呪いに翻弄され、離ればなれになってしまった。


「結局は死なせてしまった」


 再会しても、彼女の運命を変えることはできなかった。


 すると、稲田の前に立っている乗客がこう言った。


「でも、最後の最後で助けてくれたじゃん」


 木漏れ日のように柔らかで愛おしい声が、頭上から聞こえる。


「轢かれたあと、稲田がすぐに処置をしてくれたから、私は助かったんだよ」


 彼女はそう言って、照れくさそうにへへっと笑った。

 稲田は顔を上げ、上擦った声で尋ねた。


「どうして、ここに……?」


「朝は同じ電車だって言ったでしょ、私のイケメン君」


 目の前に、栗生が立っていた。

 テレビ画面上の存在ではない、生きて呼吸をしている彼女が。

 直に会って話をするのは、異孤になったとき以来のことだ。


 稲田は再び崩れ落ちるように頭を下げた。


「よかった……よかった……」


 涙を堪えながら、肩を震わせる。

 栗生も泣きそうになりながら、稲田の頭を優しく撫でつづけた。


 次の駅に到着すると、栗生に手を引かれ電車を降り、人気のない階段の裏側まで歩いた。

 稲田は栗生を抱き締め、静かに泣いた。


「ごめん……男の俺がこんなんで……」


 嗚咽を漏らしながら、そう言った。


「男の子だって、泣いてもいいんだよ」


 栗生も稲田の腰に手を回し、穏やかな声で囁いた。


 晴天の下、冷たい風がホームを吹き抜けていく。

 稲田は季節外れの寒さに身震いしながら、腕の中に彼女の体温を感じ取っていた。

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