異孤バトル

 稲田の精神は異孤によって支配される。微かに自我のようなものも残ってはいるが、自分の体を制御することができなくなった。


「やめろよ!」


 いきなり叫び出し、栗生の体を突き飛ばす。


「きゃあっ」


 栗生は床に倒れたが、すぐに起き上がり稲田を見た。


 彼は鬼のような形相になっている。

 自分から抱きついておいて突き飛ばすなんて支離滅裂だ。


 稲田がおかしい。栗生にも異孤が起こっているが、僅かな意識の中でそのことにすぐ気が付いた。そう、稲田も異孤になっているのだと。


 それはすなわち、稲田は今彼女に恋愛感情を持っているということになる。

 栗生は一瞬感極まり、その瞳に喜びの光が宿った。


 だがそれもすぐ異孤に飲み込まれ、栗生も叫び出した。


「何すんのよ、バカ!」


「なんだと、てめぇ!」


 二人は口汚く罵り合いはじめる。

 そんな中、賀来が中瀬のもとに来て声をかけた。


「お疲れ様です」


「ああ、賀来。ご苦労様だったな」


「私たちも、ついに異孤を目の当たりにしましたね」


「そうだな……」


 中瀬と賀来はオブザーバーのようにその光景を観察した。


 栗生がよろよろと立ち上がる。


「ていうか、アンタ何しに来たのよ! どうせ賀来さんに会いに来たんでしょ!」


「あぁん? わけ分かんねーこと言ってんじゃねーぞ、ボケ!」


 そのやり取りを聞いて、賀来は呆気に取られた。


「なぜここで私が出てくるんでしょうか?」


「さあな」


「異孤と異孤のぶつかり合いと言っていたので、どうなるか心配でしたが……。あまり大したことないといいますか、ただの口喧嘩ですね、これ。発動条件も限られていますし」


「いや、だからこそ人類にとって脅威だったのかもしれない」


 中瀬は真剣な眼差しで二人を見ながら言った。


「と、いいますと?」


「昔はネットのように早く正確な情報を伝える手段がなかった。だから症状がこの程度じゃ、異孤ではない争いも異孤に見えてしまう、そんなこともあったのかもしれない。そうなってしまったらもう、何が異孤で何が異孤じゃないのか分からなくなる」


「それで、男女はとりあえず分けるという動きが広まったと」


「で、徐々に分けてみた結果、統治の面でも有効であったから今でもそれがずっと続いているというわけだ」


 賀来は言い争っている稲田と栗生を眺めた。


「まあ、あんな状態じゃ人工授精するしかありませんね」


 二人の罵り合いは尚も続く。


「だから、うるせえって言ってんだろ! この貧乳!」


「ひどっ! アンタって本当セクハラばっかだよね!」


「俺がいつセクハラしたっていうんだよ!」


「コインランドリー行ったときも洗濯物見ようとしてたし、ラブホに連れ込まれたし!」


「それはしょうがないだろうがよ! アホ!」


「子供作ろうとか言ってたくせに!」


「お前だってバイクで俺にベタベタくっついてただろーが!」


 この状況下においては、愛が深ければ深いほど、それが異孤によって怒りや憎しみに変わっていく。

 二人は傷つけ合うことで、互いの想いを伝え合っていた。

 心の奥底でそれを感じ取っていた。


 それに、この口喧嘩は二人の追憶そのものだ。

 相手を罵倒するためのネタを考えようとする。

 すると、必然的に相手のことや今までの思い出を頭の中で振り返る。

 憎むことと愛することは正反対ではなく、一部分では重なり合っていると言えるのかもしれない。


「源五郎君騙そうとするし、バイクはパンクさせるし!」


「知らねーよ! お前こそ女のくせにガツガツ食いやがって!」


「女装だってキモいし!」


「女に見られない奴よりマシだろ!」


「それ気にしてたのに! ていうかアンタ、京都で私がメイクしてたのになかなか気付かなかったよね!」


「お前だって、俺が店員に話しかけられて必死だったのに嘲笑っただろ!」


 怒りに任せて罵り合っているのに、まるで旅の思い出話をしているようだ。

 これまでの二人の軌跡が、そこにはあった。


 しかし状況が一向に変わらないので、中瀬が痺れを切らした。


「稲田、ここからどうするつもりなんだ?」


「おそらく、ダメそうになったら距離を取って異孤を解除するつもりだったのでしょうが、もう完全に精神が飲み込まれてそうですね」


「麻酔ガンを構えろ。雲行きが怪しくなってきた」


 稲田がまた栗生の肩を突き飛ばした。


「死んで俺を元の世界に帰すとか勝手に決めやがって!」


「そんなの、そうするしかないでしょ! 稲田こそ私の気も知らないで!」


「なんだと! こっちがどれだけ心配したと思ってるんだ!」


 稲田に凄まれ、栗生はとうとう泣き出した。


「何よ! どうせ私が死ねばいいんでしょ! アンタなんか帰りなよ!」


「ああ、そうだよ! お前なんかし――」


 その言葉が最後まで発せられる前に、稲田は突然意識を失った。

 背後へゆらりとよろめき、床の上に豪快に倒れる。

 賀来の麻酔ガンに撃たれたのだ。


 賀来はすぐに稲田のもとへ駆け寄り、体を引きずって栗生から引き離した。

 呆然としている栗生に中瀬がハンカチを手渡し、優しい目で二人を交互に見る。


「まったく、やれやれだな――」




 目が覚めると、かつて稲田が使っていた部屋のベッドで横たわっていた。


「おはようございます」


 例のごとく目の前に賀来がいて、稲田の体を揺り動かしていた。


「おはよう。何度目だ、このパターン?」


「私も忘れてしまいました」


「次起こすときは、アンタが布団の中に潜っているという話だったが?」


「ええ。でも、なんとなく栗生さんの許可が必要な気がしてきてお伺いしたところ、『ぜ、絶対ダメ~』と言われてしまいました」


「訊くなよ、そんなこと……」


 そう呟いて壁に掛かっている時計に目をやると、短針が十時の方向を指していた。午前の十時なのか、午後の十時なのかは分からない。地下だから外の様子を見ることもできない。


「夜の十時ですよ。あれから一時間も経っていません」


 稲田の考えを読んだかのように賀来が言った。


「今回は随分早く起きたんだな」


「私がずっと揺らしていましたから」


「悪かったな。麻酔ガンで撃ってくれたんだろ? 自分でどうにかできると思ってたんだが、制御できなくなっちまった」


「構いませんよ」


 稲田はようやく体を起こした。


「それで稲田さん、これからどうするんですか? 稲田さんが栗生さんに恋愛感情を持ったことは伝えることができましたが」


「そう理路整然と言われると、こっぱずかしいな……」


 寝起きなので目頭を軽く揉み、また口を開いた。


「まだもう一つ、伝えないといけないことがあるんだ。こっちはダメかもしれないけど、改めてちゃんと言っておきたい」


「分かりました。手配します」


 賀来はジャケットのポケットからスマホを取り出した。


「賀来です。稲田さんが栗生さんと通信したいとのことですが…………ええ、分かりました」


 通話はすぐに終わり、スマホをポケットに仕舞う。


「所長が栗生さんの部屋に行って、そこから通信するそうです」


 それからカメラとテレビのリモコンを操作し、テレビ通信するための設定をした。

 相手側がまだ設定されていないので、画面は暗いままだ。


「さすがデキる女、仕事が早い」


「ありがとうございます」


 しばらく待っていると、テレビ画面に栗生の部屋の様子が映った。

 栗生が画面の手前に座っていて、中瀬は後ろで腕組みをして立っている。


「栗生……」


「あっ、稲田」


 栗生は優しく微笑んだ。いつも通りの彼女だ。


「栗生、ごめんな! 異孤になってたとはいえ、お前のこと突き飛ばしたり酷いこと言っちまって!」


 精神が暴走していても、その間に起こったことは今でも記憶に残っている。

 稲田はそれを思い出すだけで後悔の念に駆られた。


 しかし、栗生の方はあっけらかんとしていた。


「はは、別にいいよ。それはお互い様だし、私の方こそごめんね。でも……」


 栗生の顔が赤くなった。


「稲田にも異孤が起こったってことは、私のこと……好きになっちゃったんだよね?」


「うっ」


 稲田は呻いた。

 もう告白したとはいえ、改めて確認されるととてつもなく恥ずかしい。しかも、今は中瀬と賀来も一緒にいるというのに。


「そうだよ……」


「あ、やっぱりそうだよね……ありがと……」


 栗生も恥ずかしそうに俯いてしまった。

 中瀬と賀来は無言だ。稲田はこの空気に耐えられなくなった。


「それも大事なんだけどさ、もう一つ言っておきたいことがあるんだ」


「な、何かな?」


 栗生は何かを期待しているかのような目で言った。


 それに応えられるかどうかは分からない。彼女の意に反することなのかもしれない。

 でも、稲田は自分の想いを言葉にした。


「俺、元の世界へ帰れなくてもいい。だから、死なないでくれ」


「えっ……」


 栗生は言葉を失った。

 唖然としているが、嫌な感情ではなさそうだ。


 しかし、ずっと黙っていた中瀬が口を挟んだ。


「一応言っておくが。この世界に長くいればいるほど元の世界の記憶が薄れ、いざ戻ったときに精神的な異常が起こる可能性が高まるぞ」


「それでいい。俺は一生この世界にいる。男女が分かたれていても、異孤があっても、俺たちはまた会って話をすることができた。だからずっと、この世界で生きていてほしい」


「稲田……」


 栗生は涙ぐみ、声が震えた。


「なにそれ、なんだかプロポーズみたい」


「い、いや。そういうわけじゃ……」


 思わず目を逸らす稲田。

 栗生はそんな彼を見て顔をほころばせる。


「ありがとう、めちゃくちゃ嬉しい……」


「じゃあ……」


 稲田は前のめりになる。

 しかし、栗生は涙を一粒拭い、こう告げた。


「……ごめん、それでも稲田は元の世界に戻ろう?」


「そんな……」


 やはりダメなのかと、稲田は俯いた。これほどまでに栗生の決意が固かったとは。


「ううん、そうじゃないの。この前は辛くて稲田のことを突き放しちゃった。それはホントにごめん。でも、今は違うんだ」


 稲田は顔を上げた。疑問と期待が混ざったような目をした。


「どういうことだ……?」


「私ね、本当は電車に轢かれて終わりだったはずなのに、こうして稲田と出会えて、私のために一生この世界にいるなんて言ってもらえて、すっごく幸せ。もう人生九十九点って感じ」


「……九十九点?」


「そう。一点分だけ悔いがあって、それを稲田にお願いしたいと思ってる」


 稲田は不思議そうな表情で栗生の話を聞いていた。


「元の世界に帰って、やってほしいことがあるの」

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