青春ディストピア

 まずはスマホの電波を確認した。

 男の領土で製造されたスマホは女のスマホに電話できず、電波も入らないと聞いていたが、まだ電波のマークは一本立っている。


 稲田の旅路は、ここまでは難易度が低いだろうと予想はしていた。

 だが難しいのはここからだ。


 廃病院に辿り着くまでの作戦。それは、賀来と電話で交渉し車で迎えに来てもらう、ただそれだけであった。なにしろ稲田は、廃病院がどこにあるのかもよく分かっていないのだ。


 賀来の電話番号は、京都に行ったときに借りたスマホから何度か電話していて、割と覚えやすい番号であったから記憶している。


 試しに自分のスマホからその番号に電話してみると、「おかけになった電話番号は現在使われていません」というメッセージが流れた。やはり男のスマホからは電話できないようだ。

 まずはどこかの駅に行って、電話を見つけることにした。


 畑や空き地が広がる田舎道を一人で歩く。辺りには平屋がぽつぽつと建っている。夜空を見上げれば、星がプラネタリウムのように瞬いている。こんな景色を、栗生と一緒に眺めることができたらいいなと思った。


 女の領土の地図は事前にネットで閲覧できなかったので、遠くから聞こえる電車の音を目指して進んだ。

 道中で鞠のように恰幅のいい三十代くらいの女性とすれ違い、明らかに余所者を見る目つきで凝視された。が、話しかけるなと念じていたら、声をかけられることもなく通り過ぎることができた。


 しばらくすると、道端に電話ボックスがあるのを見つけた。

 駅まで歩く必要がなくなり、この地域の田舎っぷりに感謝しつつ中へ入った。


 スマホの画面を見てみる。時刻は午後八時頃で、電波はもうなくなっている。

 この時間ならまだ大丈夫だろうと思い、賀来に電話することにした。


 公衆電話を使うのは生まれて初めてだが、問題なくコールできた。

 数秒後、受話器から声が聞こえた。


「もしもし」


「夜遅くにすまん、稲田だ」


「こんばんは」


 賀来は特に驚きもせず、夜の挨拶をした。


「急で悪いが、今どこにいる?」


「自宅ですが」


「そうか。一生のお願いなんだけど、今から俺を車でアンタらのアジトまで送ってくれないか?」


「……それは構いませんが、稲田さんはどこにいるんですか?」


「実ははっきりしないんだ。岐阜から三重に入って少し南の電話ボックスなんだけど」


「電話ボックスならどこかに住所が書いてあります。探してください」


 言われた通りにボックス内を見回してみると、ガラスの壁に住所が書かれたシールが貼ってあるのを見つけた。

 その住所を賀来に伝える。


「そこなら行けなくはないですね。三十分ほど待っていて頂けますか?」


「マジか、ありがとう! 恩に着る!」


「では、後ほど」


 そう言って賀来は電話を切った。


 稲田は拍子抜けした。こんなにあっさり成功するとは思っていなかったから。

 文句も言わず、理由も訊かずに、駆けつけようとしてくれている。


「ありがとう、賀来……」


 誰にも届かない受話器に向かって、そう呟いた。




 ちょうど三十分後、お馴染みの赤いミニバンが電話ボックスの前にやって来た。

 稲田は後部座席側から乗り込む。


「賀来、マジサンキューな!」


 賀来はそれには答えず、すぐに発進した。


「なぜ後部座席に? 別にいいですけど」


「着替えるんだよ、女装じゃカッコつかないからな」


「カッコつけに来たんですか?」


「そうだよ」


 稲田はロングスカートからジーンズに穿き替えた。


「私には、目の前で着替えるなって言ってたくせに……」


「男は下着までならいいの」


「それは男女平等じゃないですね。ウィッグは着くまで外さないでくださいよ、窓から見えちゃいますから」


「ああ、アンタから貰った大切なものだからな」


 賀来は少しの間黙ってしまう。

 それから、前を向いたまま後部座席にスマホを投げた。


「所長は今日、アジトにいます。電話して、三十分後に着くと説明してください。私もそれで大体の事情は分かりますから」


「了解」


 さっそく電話してみると、中瀬はすぐに出た。


「どうした、賀来?」


「俺だ、稲田だ」


「なんだ、またこっちに来たのか。もう用はないと言ったんだがな」


「この前とは状況が違う。栗生に会わせてくれ。今度は俺にも異孤が発生する」


「どういう風の吹き回しだ?」


「異孤と異孤のぶつかり合い、見たくないか?」


「……何か考えがあるようだな。いいだろう、やってみろ」


「三十分後に、栗生と一階のロビーに来てくれ」


「分かった。君が来ることは伏せておこうか?」


「そりゃ良いサプライズだ、頼んだぜ。じゃあ、またあとでな」


 稲田は電話を切った。

 すると、賀来がまた喋りはじめた。


「大体の事情は分かりました。なんといいますか……そんなこともあるんですね」


「……なあ」


「なんでしょう」


「あのさ、怒らないから教えてほしいんだけど」


「どうしたんですか、学校の先生のような言い方して」


「アンタってさ、異孤の発生条件に始めから当たりをつけてたんじゃないのか? 恋愛感情を抱いた異性に近づくと起こるってやつ」


「……どうしてそう思うのですか?」


「だって、京都では俺と栗生を二人きりにさせようとしてたし、栗生に異孤が起こったあともすぐに駆けつけたし」


「…………五十点、といったところでしょうか。それは確かに、所長の指示ではなく私の判断です」


 それから、賀来は少しばかり沈黙した。稲田は話の続きを待った。


「稲田さん」


「なんだ」


「たとえ異孤が起こるとしても、恋をするということは良いことだと思いますか?」


「もちろん」


「即答ですか」


「即答だ」


「心底、羨ましいです。私は生まれてから一度も恋愛感情というものを持ったことがありませんので」


「そうか、そうだよな……」


 無理もないと稲田は思った。この日本で恋愛感情を持ち得るのは同性愛者だけなのだから。

 きっと賀来のような人は他にもいるのだろう。ここは多くの人にとって、青春の失われたディストピアなのだ。


「とまあ、今のが残りの五十点です。稲田さん、実を言うと私は、異孤が起こらないか期待をしていたのです」


「えっ……」


「しかし、結果はご覧の通り。私たちに異孤は起こらず、今も平然としています」


 稲田は驚いた。そんなことを考えていたとは、さすがに思いもよらなかった。


「私は感情表現に乏しい人間です。ですが、こんな私に所長は言いました。『恋をしろ、そうすれば君は変われる。それができる世界を作ってやるから、私についてこい』と」


 賀来はいつも通りの落ち着いた声で話している。だが、鉄のような冷たさではなく、小川のせせらぎのような穏やかさが感じられた。


「涙は出ませんでしたが、涙が出るほど嬉しかったです」


 それを聞いて、稲田はフッと微笑んだ。


「そっか。良い上司なんだな、アンタにとっては」


「はい」


「犯罪者だけど」


「相変わらず一言多いですね。あまり失礼なこと言っていると、私の麻酔ガンが火を噴きますよ」


「出るのは麻酔なのか火なのか、はっきりしてくれ」


「麻酔です」


「あっ、そう……」




 やがて車は田舎町から山道へ入り、予定していた時刻に廃病院へ到着した。

 稲田はウィッグを外し、車から出た。

 廃病院の一階は既に照明が点けられている。



 あそこに栗生がいる……。



 じっと見据えていると、隣に賀来が来て言った。


「それでは、稲田さん。私に見せてください。人類は異孤に逆らってでも、恋をするべきなのだということを」


「ああ……!」


 稲田は廃病院の入り口に向かって歩きながら考えた。



 ここまで一人で戻って来るのは長い道のりだった。でも、色んな人と話をしたり助けてもらったりして、今ここにいる。

 かつての俺も、ただお前を助けるためだけに行動していた。電車で助けられなかった責任を感じて。

 男と女も、助け合うために存在するんだと思っていた。それができずに争っているのなら、一緒にいなくていいと思ったこともあった。

 男だけじゃできないことや、女だけじゃできないことを補い合うのも確かに重要だ。

 でも今は、もっと大切なことがあるって思えるんだ。だからここまで戻って来れたんだ。

 それを今、お前に伝えるよ――。



 廃病院の両開きの扉を開け放った。

 稲田の正面、ロビーの奥に栗生がいた。中瀬は少し離れたところで壁にもたれかかっている。

 栗生は稲田の姿を見て、目をパチクリさせた。


「い、稲田!? どうして!?」


 稲田は栗生に向かって、全速力で走りだした。

 普通に近づいたら、異孤によって歩みを止めてしまうから。


「栗生っ! 好きだああっ!」


「えっ、えええっ!?」


 急な展開についていけず、オロオロする栗生。


 稲田はあっという間に彼女の前まで来た。


 栗生が稲田を見上げると、至近距離で目が合った。


「あっ……」


 稲田は栗生のことを抱き締めた。強く、優しく、愛おしく。


 そして次の瞬間、精神が汚染されるような気配を感じた。怒りや憎しみのようなものが心の中に広がっていく。


 薄れゆく意識の中で稲田は不敵に笑った。



 いいぜ、この世界にはびこる呪いよ……俺のもとへ現れろ!

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