壁越え

 稲田は動揺した。やはりこんな時間に田舎の神社へ行くのは不自然すぎたか、と。

 だが、壁を越えようとしていることを知られるわけにはいかない。


「いや、違いますけど……」


「隠さなくてもいいんですけどね。実は私もウォーリストなんですよ」


「ウォーリスト?」


「ご存じないですか。まあ、お客さんのような若い方には馴染みがないかもしれません」


 バックミラー越しに稲田を一瞥する。


「簡単に言えば、壁の近くまで行き、その向こうにいる女性という存在に想いを馳せる人たちですよ」


「……知り合いでもいるんですか?」


「まさか。女性を見たこともないのに、知り合いなどいるわけがありません」


「ふぅん。じゃあ、壁の向こうに声でもかけてみたらどうですか? 想いを馳せるだけじゃなくて。もしかしたら返事がくるかもしれませんよ」


「それは野暮というものです。姿形が分からず、声や話し方も知らない。でも、確かにそこに存在している。我々はそういうところに神性のようなものを感じ取ろうとしているのです」


 目が点になった。世界が変わると、そこに生じる文化も変わっていくのだと再認識した。

 稲田は無言になったが、運転手は話を続けた。


「でも、理由はそれだけではありません。昔は壁の向こうに声をかける人がたまにいたらしいです……が、いつしか誰もやらなくなりました」


「どうして?」


「そういう人たちがなぜか、に遭って死んでいったからです」


「なっ……」


 まさか暗殺部隊でもいるのだろうかと稲田は思った。このディストピアを維持するための。


「そういう経緯があり、地元の人たちは誰も壁に近づきません」


 そう言って、ひと呼吸置いた。

 タクシーが国道から右折して路地に入る。

 それから稲田に尋ねた。


「ところで、あなたは今でも異孤が起こると信じていますか?」


 稲田は迷った。



 なんだ、この質問は?

 どう答えるのが正解なんだ?



「信じますけど」


「じゃあ、怖くないのですか? 壁の近くまで行くのが。壁のすぐ裏に女性がいたら、異孤が起こるかもしれませんよ?」


 言われてみればそうだ。回答を誤ったかもしれない。


「無理して嘘を言わなくても大丈夫ですよ。お客さんのような若い世代では、異孤を信じていない人も多い。異孤について正式に発表されていることは、『男女が接近すると、怒りや憎悪のような精神異常が起こる』この一点のみです……情報が少なすぎですよね」


「まあ、確かに」


「でも、だからこそ不気味なんです。大抵の人は『それだけじゃないはずだ』と思います。近づかなくても声を聞いただけ起こるかもしれない、一度異孤になったら元に戻らないかもしれない、とかね。こういう疑心暗鬼も、人々が壁に近づかない理由となっています。中には、異孤とは人類が単性生殖に進化する過程であると唱える人もいるんですよ」


 彼の推測通り、異孤には隠されている事実があった。

 恋愛感情の対象となる異性に接近しなければ発動しないということ。

 だが、それはこの管理社会を維持するためには不都合な情報であるようだ。


 やがてタクシーが、民家に囲まれた狭い坂道を上り始めた。

 運転手はこの世界の奇妙な事情を、ラジオのように一人で話し続けている。


「例えば神、幽霊、宇宙人……これらは二十一世紀になった今でも、いるだのいないだのと考え方が分かれている。でも、私はそれでいいと思うんです。我々人間には、そういったが必要なんです。そして、異孤もその一つなのだと思います」


 稲田は黙ったまま、不思議な気持ちでその話を聞いていた。


「ですがやはり、ごく一部には『異孤はもう起こらない。男女の分住は必要ない』という声を発する者がいます。異孤の存在はともかく、男女の分住をやめろというのは私には理解できませんね」


「どうしてです?」


「だって、生まれてから一度も会ったことがない未知の存在と、さあ今日から一緒に暮らしましょうなんて怖くないですか? 体の構造も違うし、何を考えているのかも分からない。。もう、昔に後戻りなんてできないんですよ」


 それは一理あるかもしれないと稲田は思った。男女が共に生活している世界でさえ、お互いに分かり合うことができないのだから。


「まあでも、これは安寧を求める年寄りじみた考え方なのかもしれません。それはともかく、男女の分住に反対する人たちがどうなるのか分かりますか?」


「まさか……」


「度が過ぎると、やはり不幸な事故に遭っていなくなってしまうのです」


 中瀬たちは大丈夫なのだろうか。ふとそんなことを思った。


「安心してください、これはただの都市伝説ですよ。さあ、もうすぐ着きます。私はお客さんを退屈させないために、このような小話を十九個ストックしているんです。今のはそのうちの一つです。楽しんで頂けましたか?」


 捉えどころのない運転手だ。でも同時に、これはチャンスだと稲田は思った。


「なんだか、壁に興味が湧いてきましたよ」


 緊張しながらそう切り出した。


「この辺りに、なるべく壁が低い場所はありませんか? その方が女性の存在を確かに感じられそうだ」


「ほう……」


 運転手の目つきが一瞬鋭くなったような気がした。


「お目が高いですね。オススメの場所があるのでそこまで案内しますよ」


「じゃあ、お願いします」


 タクシーは斜面の道路をくねくねと走り、やがて雑木林の脇で停車した。


「ここは県境のすぐ近くです。あそこをまっすぐに歩けば、比較的低い壁の前まで行けます」


 運転手が指差した先に、けもの道が見えた。


「分かりました、ありがとうございます」


 稲田はお礼を言って、代金を支払った。


「それでは、帰り道に気を付けてください。神のご加護を」


 帰って来れるかどうかは分からないが、頷いた。

 稲田が外へ出ると、その奇妙なタクシーはどこかへ去っていった。


 懐中電灯を点け、道ともいえない道を歩き出す。

 小枝や落ち葉を踏みながらしばらく進むと、林の中に壁が見えてきた。


 その壁は周囲の木より少し高く、五メートルほどに見えた。

 ちょっと高いなと稲田は思った。ネットでは最低三メートルと書かれていたが、それは本当に山奥の話なのだろう。

 材質はコンクリートで、表面がざらざらとしている。


 とりあえず、周りの気配に注意しながら準備を始めた。

 まず登山用のフックにロープを結びつける。ジーンズからロングスカートに穿き替え、化粧の代わりにマスクを装着。


 最後にリュックサックから茶髪のウィッグを取り出した。賀来が餞別として稲田のバッグに忍ばせていたものだ。

 稲田は彼女のことを思い出した。



 アンタ、もしかしてこうなることを予想していたのか……?



 賀来の真意は分からない。

 だが、稲田は彼女の想いを受け取り、頭にウィッグを付けた。


 リュックサックを背負い、フックを手に持って構える。

 もう一度耳を澄まし、壁の向こうにも人の気配がないことを確認する。


 そして、思いっきり振りかぶり、フックを壁の上に向かって投げた――。


 フックは放物線を描き、壁の反対側にぶら下がる。

 ロープを手繰り寄せると壁の縁に上手く引っ掛かった。



 やった……!



 そのままロープを引っ張りながら、壁を登ってみる。

 すると、腕の筋肉が悲鳴を上げた。



 なんだこれ、めちゃくちゃきついぞ!

 漫画だとスイスイ登ってるのに!



 だが稲田は気力を振り絞り、なんとか壁の上によじ登ることができた。


 厚さ四十センチメートルほどの壁に跨り、素早く眼下を確認する。

 壁の向こう側は林ではなく、斜面に畑が広がっている地帯であった。人の姿は見当たらない。


 稲田は今、男と女の境界線の上にいる。

 女の領土の景色を眺めながら、最後に見た栗生の顔を思い出した。



 悪いな、栗生。やっぱりこのままじゃ終われねえよ。



 男の領土側にフックを掛け直し、ロープを掴みながら壁を下りていく。


 そして、稲田は再び女の領土に降り立った。

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