午後一時過ぎに自宅へ到着し、さっそく準備を始めることにした。

 今回は栗生と一緒に行ったときとは違い、時間が限られている。失敗しないようにきちんと計画を立てなければならない。


 まずは大きめのリュックサックに、懐中電灯や今用意できる細々としたものを入れた。足りないものは自宅を出発したあとに買えばいい。


 次に、侵入ルートを考える。

 バイクだと時間がかかるので、電車と新幹線で行くことにした。

 山中にある境界の壁に一番近い駅を調べたら、岐阜県にある美濃松山駅というところであった。ここから南下して山中の壁を越えるのが一番簡単そうだ。


 自宅でできる準備が整うと、すぐに自転車で出発した。


 最初は近場にあるアウトドアショップへ。

 ここでは登山用のフックとロープを購入した。忍者が壁をよじ登るときに使う鉤縄のような道具で、爪が傘のように開く。今回は一人しかいないから絶対に必要になるものだ。

 他には念のため方位磁針を買っておき、アウトドアショップをあとにした。


 そのあとようやく最寄り駅へ行き、全車両が男性専用車両のむさ苦しい電車に乗った。

 車内にはどことなく「漢」の匂いが漂っているような気がした。


 電車を乗り継ぎ、新横浜駅に着くと、今度は新幹線に乗り換えだ。

 これで一気に名古屋まで行きたいところだが、そこではなく静岡の掛川駅へ向かうことにした。

 どっちにしろ夜の壁越えまでは時間があるし、ネットで調べたらは掛川駅から寄れる距離であったからだ。


 到着後、駅前のロータリーでタクシーを捕まえ、その店の名前を告げた。

 運転手は「へえ、あそこですか」と物珍しげに返事をして、タクシーを発進させた。


 目的の場所には数分で着き、店の前で降ろしてもらった。

 

 看板を見上げると、五日しか経っていないのにどこか懐かしい店名が書かれていた。


『Clover』


 それを目にするだけで、あの頃を思い出し胸がいっぱいになる。


 すると、横から誰かが声をかけてきた。


「うそ……もしかして、真介さん?」


「久しぶりだな、源五郎」


 目の前に、源五郎が立っていた。

 女性の服をデザインするのが好きな、性同一性障害の男の子。


 今日はトレーナーに長ズボンという男の子らしい服を着ている。学校帰りらしく、黒いランドセルを背負っている。


 彼は稲田を見て驚いていた。


「どうしたの!? こんなに早く会えると思ってなかったよ」


「この店に来たんだ。女の服を買いに来たに決まってるだろ?」


 稲田はニヤリと笑ってみせた。


「どういうこと? そういえば健太さんは一緒じゃないの?」


「あいつはいない。急で悪いが、俺の身長に合う服を見繕ってくれないか? できれば下はロングスカート……女がよく穿くヒラヒラしたやつな。上は体のラインが出ないやつがいい」


「うーん、あったかな? ちょっと見てみるよ」


 二人は店内に入る。

 すると、年老いた店主がカウンターでにっこり笑った。


「おお、もう来てくれたんですか」


「まあ、ちょっと色々あったんすよ」


「詮索はしません。ゆっくり見ていってくださいな」


 さすが長く生きているだけあって落ち着いている、と稲田は感心した。


 二人で店内をざっと見たあと、源五郎はワインレッドのロングスカートを選び、稲田に渡した。


「これならあるけど……上はないかな。ていうか、上は無理に変えなくてもそんなに変じゃないと思うよ」


 今日は白いシャツの上に黒いカジュアルジャケット、ジーンズという服装だ。

 確かに源五郎の言う通りかもしれない、さすがプロの意見は違う、と稲田は感心した。

 別にオシャレを追求しに来たわけではない。とりあえず女に見えればそれでいいのだ。


「試着する?」


「もちろん」


 試着室でスカートを試着してみた。

 ウエストも裾の長さもちょうど良く、そのまま使えそうだ。


 ジーンズに穿き替え試着室から出ると、脱いだスカートをカウンターに置いた。


「これ買うぞ」


「えっ、もう決めちゃうの?」


「ほっほ、まいどあり~」


 源五郎は戸惑い、店主は嬉しそうに目尻に皺を寄せた。

 稲田は会計を済ませ、そそくさと入り口へ向かった。


「じゃあ、元気でな」


「あ、そこまで送るよ」


 稲田が嵐のように去っていきそうだったので、源五郎は慌てて追いかけた。


 店の前に出ると、源五郎が稲田の顔を見上げて問いかけた。


「本当に何があったの? 真介さんの方がうちの服を買いに来るなんて」


「ああ、女の領土に行くんだよ」


 稲田はあっさりと白状した。


「なにそれ! ダメだよ、そんなの犯罪じゃん!」


「ああ、犯罪だな」


 何でもないことのように言った。


「真介さん、そんな人だったなんて。僕にはあんなに優しくしてくれたのに……」


「なんだ。お前、俺のことを良い奴だと思ってたのか?」


「え?」


「俺が良い奴になるのは、だぞ」


 そう言って稲田はしゃがみ、源五郎の髪を撫でた。


「え、それって……」


 源五郎の頬がほんのりと赤く染まる。


「お前も女の領土に来るか? バレなきゃ女として生きられるぞ」


 稲田の思いがけない提案に、源五郎は目を見開いた。


 そのまましばらく呆然としていたが、やがて震える声で言った。


「……ありがとう。ちょっと想像しちゃった。そんな生き方も……」


 彼の瞳が、微かに潤む。


「でも、僕はここにいるよ。ここにいないと服を作れないし。性別とか関係なく、それが、僕が僕であるということだと思うから……」


「そう言うと思ったよ」


 稲田は立ち上がった。

 そして遠い目をして言った。


「もし心だけが体を行き来できるとしたら、人間の本質は体じゃなくて心の方なのかもしれない。ちょっとそんなことを思っただけだ」


 それを聞いて、目を丸くする源五郎。


「そうかもね……。でも心だけが行き来するなんて、そんなことありえないよ」


「ああ、ありえないよな」


 稲田の言葉に源五郎は少し困惑していた。


「ねえ、真介さん。もしかして健太さんが今いないのって……」


「それはねえよ。あいつは俺の弟だ」


 稲田は切なそうに微笑み、源五郎に手を振った。


「じゃあそろそろ行くわ、今度こそサヨナラだ」


 一瞬キョトンとしたが、彼も優しい笑顔で手を振った。


「うん、さようなら。どうかお元気で……」


 稲田は頷いた。

 それから源五郎に背を向け、振り返らずに歩き出した。




 掛川駅に戻ったあと、再び新幹線に乗り名古屋へ向かった。

 この世界に来てから結構お金を使ったので、この世界での所持金も少なくなってきた。金銭的にもリミットが近づいている。


 新幹線の中では、自宅にあった短編集を読んで過ごした。

 男しか登場しないので、読むのが段々と苦痛になった。

 だが他にやることもなく、眠れそうにもないので、我慢して読み続けた。


 約一時間後、名古屋駅に到着。

 ここからは電車に乗り換え、西を目指していく。


 何度か川の上の橋を通ると、進行方向に山が見えてきた。陽が沈みかけ薄っすらとしか見えないが、山頂に小さな壁らしきものが横一列に建っている。



 あれが男女の境界線か……。



 初めて壁を目撃したが、遠くから眺めるとあまりインパクトは受けなかった。観光地で有名な建造物を見たときに「意外と大したことないな」と思うときと同じような気分だ。


 目的地である美濃松山駅には午後六時半頃に着いた。

 周りはのどかな田舎町で、駅前にロータリーやタクシー乗り場なんてものはない。


 少し歩いて国道まで出てみる。

 そして、道路沿いにあるそば屋でかけそばを注文した。何の変哲もないそばだが、長旅の疲れを癒すのには充分な味と温かさであった。


 腹ごしらえも済んで再び国道に出ると、ちょうどいいタイミングで個人タクシーが通りかかった。稲田は迷わず捕まえた。こんなところで乗れるとは思っていなかったので、神が降臨したかのように思えた。


 タクシーに乗り、予め調べておいた壁の近くにある神社の名前を伝える。

 初老の運転手が頷き、素早く発進した。


 南へ向かってしばらく走っていると、運転手がぼそりと喋った。


「お客さん、もしかして壁に行こうとしていますか?」

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