終着点

 稲田と栗生は賀来と合流し、駅ビルから出た。


 それから京都駅周辺の街中や地下商店街で、これまでと同じような検証をした。

 試しに小さな子供や老人など様々な年齢層の女に接近してみたが、やはり異孤は起こらなかった。彼女たちはすぐ近くに男がいるということに気付くこともなく、往来を歩いたりお喋りを続けたりした。稲田の方にも、何も変化は訪れなかった。


 三人で豆腐料理屋へ行き夕食をとったあと、賀来が言った。


「では、今日はもうホテルに行って休みましょう」


「なあ、わざわざ泊まらなくてもいいんじゃないか? これ以上続けたって意味ねえよ。俺は早く中瀬から元の世界に帰る方法を聞きたいんだ」


「でも予約してありますし」


「キャンセルできないの?」


「できなくはないのですが、もう一つ残念なお知らせが」


「なんだ?」


「私、お昼にあのラーメン屋でうっかり酒粕ラーメンを頂いてしまいました。なので、今日はもう運転できません」


「あぁ!?」


 稲田は口をあんぐりさせた。


「いや、酒粕って飲酒になるのか? ていうか、拉致とか不法侵入とか平気でする奴が飲酒運転でビビんなよ」


「人権は無視しても、交通ルールは守る。それがドライバーというものです」


「はぁ……」


 これ以上食い下がるのも疲れるので、諦めることにした。

 栗生がガッカリしている稲田をなだめようとする。


「まあまあ、焦んなくても一日くらいいいじゃん。今日は色々あってみんな疲れただろうし」


 駅ビルでは落ち込んでいたが、今ではもう平気そうだ。


「やはり栗生さんは、稲田さんと違って心の優しい方ですね」


「……そうっすね」と稲田。


 ようやく話がまとまり、三人は駅ビル内にあるホテルへ向かった。




 賀来がホテルのロビーでチェックインを済ませ、二人に告げた。


「部屋は六階で、三人一緒です。では、行きましょう」


 稲田も女性陣と同じ部屋。

 だが、稲田はこの展開を予想していた。二人を人質として扱う賀来が、わざわざ稲田だけ別の部屋にするわけがない。射程圏内に置いておきたいはずだ。


 栗生も稲田と二人でホテルに泊まったことがあるので、今更文句は言わなかった。


 エレベーターで六階まで行って宿泊部屋に入ると、栗生は目を輝かせた。


「きれーっ! こっちに来て初めてまともな寝床~」


 その部屋は、ベッドが三台あるという点を除けばごく普通の洋室だ。

 しかし、今まで泊まってきたのが稲田のアパート、宇宙船のような部屋、廃病院の地下であったので、栗生にはスイートルームのように思えるのかもしれない。


 三人はそれぞれの荷物を置き、ホッと息をついた。


「稲田さん、これは預かっておきます」


 賀来は稲田のウィッグを外した。

 それから、メイク落としシートを稲田の手の上に置く。


「メイクも落としてください。脱走できないように」


「へいへい」


 言われた通りに、洗面所でメイクを落とした。ついでに邪魔なブラジャーも外す。

 服だけはまだ女のままだが、気分的にはかなりスッキリして部屋へ戻った。


「これで一安心です」


 そう言って賀来はジャケットをハンガーに掛ける。

 そして、おもむろにシャツのボタンをはずそうとした。


「ちょまーっ」


 栗生が慌てて賀来と稲田の間に立った。

 とりあえずシャツのボタンを付けさせる。


「なんでいきなり服脱ごうとしてるの!」


「ちょっと部屋着に着替えようとしただけですよ。さすがにここで下着は替えません」


 それを聞いて、稲田も思わずツッコミを入れる。


「そうじゃねえよ! 男の俺がいるのに恥ずかしくねえのかよ」


「どうして男性の前で着替えることが恥ずかしいのですか? 論理的に説明してください」


 稲田と栗生は言葉を失い、「マジかよ」と言わんばかりに目を合わせた。


「ああ、それはだな。アダムとイヴが禁断の果実を食って以来、人間は裸を恥ずかしがるようになってだな」


「なるほど、宗教上の理由でしたか。それは失礼いたしました」


「じゃなくて、賀来さん! 稲田の目を見て! この期待と希望に満ち溢れた目を! なんかこう、すごく屈辱的じゃない!?」


「なっ……」



 そんな目してねえよ! たぶん!



 そう叫びたかったが、賀来に凝視され口をつぐむ。


「なるほど……」


 唇に手をあて、考え込む賀来。


「確かに、物凄い説得力ですね」


「納得するなよ!」


 怒るというより、むしろ悲しくなった。


「それでは稲田さんの好奇の目に晒されないよう、脱衣所で着替えてきます」


 そう言ってボストンバッグを持ち、脱衣所へ入っていった。


「はぁ……」


「ははは、ごめん。ちょっと言いすぎたかも」


 栗生が苦笑いして、頬をかく。


「いや、お前は悪くないよ……」


 それから三人は寝るまでの間、部屋で適当にくつろいだり、交代で風呂に入ったりした。

 なぜか賀来がトランプを持ってきていたので、ババ抜きやポーカーもやった。賀来は常日頃からポーカーフェイスということもあり、圧倒的な強さで稲田と栗生を蹂躙してしまう。

 修学旅行のような夜になったが、日付が変わる頃には三人とも大人しく眠りについた。




 翌朝稲田が目覚めると、賀来が彼のベッドに腰掛けていた。

 物言わぬ瞳で、寝起きの顔を観察している。


「おはようございます」


「……おはよう」


「全然驚かないんですね」


「二度あることは三度あるからな」


「どうしたら驚くのでしょうか?」


「起きたとき、アンタが布団の中にいたら驚くかもしれん」


「分かりました」


「明日が楽しみだ」


 ウェットなモーニングトークもそこそこに、稲田は体を起こした。

 朝の支度をしているうちに栗生ももぞもぞと動き出し、大きなあくびをした。

 賀来はテキパキと動き、最初に身支度を終えた。


 今日の稲田のメイクはなぜか栗生が担当した。

 初めのうちは笑いながら稲田の顔をいじっていたが、いつしか真剣になり、賀来とあれこれ意見を交わしていた。

 稲田は内心、何でもいいから早く終わらせてくれと思っていた。


 チェックアウトしたあと三人は駅ビルの地下駐車場に戻り、赤いミニバンに乗り込んだ。


「せっかくなので、検証がてら近くの公園で桜でも見てから帰りましょうか」


 出発前に賀来が抑揚のない声で提案する。

 それを聞いて、栗生はガッツポーズをした。


「やったぁ!」


「稲田さんもそれでいいですか?」


「ああ、いいよ」


 賀来は無言で車を発進させ、地下駐車場から出た。

 碁盤の目のような道路の上を、棋士の指先のように淀みなく走っていく。


 女の街を眺めながら、稲田は考えていた。



 男女が接近すると精神が異常化するという現象、異孤。

 それは結局、どれだけ接近しても一度も起こらなかった。

 異孤とは一体何なのだろうか。



 答えが出ないまま車は目的地に着いた。

 駐車場に車を停め、三人は外に出た。


「では昨日と同じように、お二人で人の近くを歩いたり座ったりしてみてください。私は遠くから周りを観察します。何も起こらなかったら適当に切り上げましょう」


「分かった」


 稲田と栗生は頷き、公園に向かって歩き出した。


 そこは、駅の近くにある割にはかなり大きい公園であった。

 芝生の広場やちょっとしたアスレチック遊具、河原の遊び場があり、小さな女の子たちが楽しそうに走り回っている。


 二人はそんな光景を眺めながら、平らな石畳の道を歩いた。

 気持ちのいい小春日和となり、いたるところで無垢な桜が咲きこぼれている。


 歩いている間、会話はあまりなかった。

 気まずいというわけではなく、美しくも長閑な風景に心が洗われ、言葉が出なくなっていた。

 稲田はそれを、優しい沈黙だと思った。


 公園の中心部を見て回ったあとは、外周に沿った遊歩道を歩いた。

 この道にも綺麗な桜並木があり、ベンチが等間隔に並んでいる。



 ここを歩いたら、そろそろ帰る頃合いだな。



 稲田はそう思い、栗生にぽつりと話しかけた。


「これでミッション達成だよな」


「……うん」


 栗生は控えめな声で返事をした。


「なんか結局、遊んでるだけだったな」


「うん」


「これで元の世界に帰れるんだよな」


「うん……そうだね」


「東京から京都、男の首都から女の首都へ。長い道のりだった」


「でも、あっという間だったよ」


「まー、中瀬が言ってた帰る方法が上手くいく分かんないけどな」


「きっと、大丈夫」


 そう言ったあと、また会話が途切れた。

 栗生は先ほどから、心ここに在らずという様子だ。


 そのまま数メートル歩くと、今度は栗生の方から口を開いた。


「ねぇ、稲田」


「なんだ?」


「名古屋の川で賀来さんに襲われる前、私何か言おうとしてたじゃん?」


「……覚えてるよ」


「その話の続き、今してもいい?」


 栗生の顔を見てみると、彼女も稲田のことを見つめていた。

 今にも想いが溢れそうな目をしている。


「うん、いいよ」


 あのときとは違い、稲田の心は風のない水面のように落ち着いていた。

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