私のお母さん

 賀来はトートバッグからスマホを取り出した。


「稲田さんに一台貸します。これで指示を出しますので、持っておいてください」


「あ、ああ……」


 稲田はとりあえずそのスマホを受け取った。


「さあ、検証開始です。お二人とも行ってください」


「あー、それなんだが……」


 躊躇している稲田に、賀来は無表情のまま首を傾げた。


「どうしました? お二人は親しいようですし、特に問題はないと思っていたのですが」


「行こっ、稲田!」


 突然栗生が稲田の腕を掴み、早足で歩き出した。

 稲田はわけも分からず、彼女に引っ張られていく。

 賀来の頭上には疑問符が浮かんだままだが、そのままミッションがスタートした。


 しばらく歩くと栗生が手を放し、振り向いた。


「アンタのことだから、また何かややこしく考えてたんでしょ。気楽にいこうよ」


 栗生がどこまで稲田の胸中を読んでいるのかは分からない。

 だが、とりあえず今は彼女の言う通りにすることにした。


「……了解」


「こうして稲田と普通にお店の中を歩くのって初めてだね。今まではコソコソしたり、ずっとバイクに乗ってたりしてたから。まあ、それはそれで楽しかったけど」


 そう言って、いつも通りに微笑んでみせた…………と思ったが、稲田は違和感を覚えた。その笑顔がいつもより可愛らしくなっているような気がしたのだ。源五郎の店で買ったペンダントもちゃんと着けている。


「そういえば、お前も昨日までとなんか雰囲気違うな」


「そ、そりゃあ、もう女の領土だから私だってメイクしているわけで……。ていうか、気付くの遅すぎ!」


「ああ、すまん」


「で……どうかな?」


「……どうって?」


「だから、昨日の私と比べて」


 稲田は迷った。

 ここで可愛いとか言ってしまったら、あらぬ方向へ進んでしまうかもしれない。稲田は別に栗生とそういう関係になりたくてここまで来たわけではない。ただ彼女を助けたいだけなのだ。


「まあ、いいんじゃないか?」


「ふーん」


 何かを推し量るかのように稲田を見る栗生。稲田の返事は素っ気ないものだったが、気を悪くしているわけではなさそうだ。


「ねえ、まずは服を見に行こうよ」


 先ほどまでの話はもう終わったらしく、あっけらかんとした調子で言った。


「いいけど」


 稲田はなんとなく目を逸らした。

 そんな彼を見て、栗生はふふっと息を漏らす。

 それから二人は並んで歩き出し、エスカレーターに乗った。


 三階に着くと、様々な店舗が並ぶ通りを歩き、その中から適当なアパレルショップを選んで入ってみた。


「わぁ、すごーい」


 どこにでもある普通の店にしか見えないが、栗生は稲田のことを気にせずに服を物色しはじめた。


 稲田もせっかく女装をしているし、女性用の服を堂々と見る機会など滅多にないので、店内を周ってみることにした。


 並んでいる商品をじっくり観察してみたところ、男女が分かれて住んでいることは、ファッションにも影響を与えているように思えた。

 ワンピースだとか、フレアスカートだとか、ぴったりニットの服だとか、「彼ウケするコーデ特集」に載ってそうな服だとかはそこまで多くなく、代わりにジャケットだとか、ライダースだとか、ワイドパンツだとかの種類が意外と豊富な気がする。

 でもこれが、本当に男がいない影響なのかどうかは分からない。先入観があるからそういう風に見えるだけなのかもしれない。


 そんなことを考えていると、前方から誰かが近づいてきた。


「何かお探しですか~」


 店員がアパレルショップ特有の、ヘリウムガスを吸ったような声で話しかけてきた。



 うぜぇ……そして、まずい……。



 稲田は焦った。

 見た目は女に化けているが、声は男のままだ。普通に話したら怪しまれるかもしれない。


 物凄く気が進まないが、裏声で答えることにした。


「大丈夫ですぅ」


「分かりましたぁ。何かあれば何でも言ってくださいね~」


 店員はあっさりと去っていった。

 二人して甲高い声を出していたので、もしかしたら「店員のマネをするウザい客」だと思われたのかもしれない。


 だがそれも仕方あるまいと稲田は自分に言い聞かせた。そもそもアンタが話しかけてこなけりゃこんなことはせずに済んだのだ、と。


 それはともかく、男であることがバレずに済んで安堵していると、今度は背後から声が聞こえた。


「ぷっ、くく……」


 振り向くと、いつの間にか栗生がいた。


「おのれは私の腹筋を殺す気か……ふくく……」


 必死に笑いを堪えている。

 稲田はこめかみをピクピクさせながら小声で訊いた。


「今の、聞いてたのか?」


「ごめん、ごめん。盗み聞きするつもりじゃなかったんだけど」


 栗生は深呼吸をし、ようやく落ち着きを取り戻した。


「私もういいけど、稲田は何か買ってくの?」


「買うわけねえだろ」


「稲田の新しいブラ、私が選んであげようか? ぶふーっ!」


 とうとう堪えきれなくなり、盛大に噴き出した。自分で言って、自分でツボにハマったようだ。


「ひぃー、窒息死するー」


 腹を抱えて笑っている。

 稲田は何も言い返せず、ただ見下ろしていた。



 この女、あとで絶対泣かす……!



 既に笑い泣きしている栗生を引っ張り、アパレルショップをあとにした。


 次はどこへ行こうか考えていると、賀来から借りたスマホに着信がきた。


「そろそろ昼食にしましょう」


 前置きもなく、そう告げられた。

 辺りを見回しても賀来がどこにいるのか分からない。まるでスパイだ。


「アンタも一緒に食うのか?」


「私は離れた席で大丈夫です。とりあえずカウンター席がある店にしてください」


「なんで?」


「同じ人物と長時間接近するというケースも試してほしいと言われています。私たち以外の人物で」



 テーブル席だと周りの客が入れ替わる可能性があるが、カウンターの中の店員はほとんど入れ替わらないということか。



 稲田は勝手にそう納得した。


「分かった。探してみる」


「よろしくお願いします」


 そう言って、賀来は通話を切った。

 栗生が稲田の顔を覗き込む。


「賀来さん、なんて?」


「昼飯はカウンター席のある店にしてって」


「ふーん。じゃあラーメン食べたい」


「ラーメン? まあ、いいけど」


 二人は飲食店の並ぶフロアへ行き、ラーメン屋へ入った。

 店内はカウンター席のみで、七割ほどは既に埋まっている。和風の内装で、女しかいないという点を除けば、ここもごく普通の店のようだ。


 メニューを見てみると、京都ラーメン(濃厚)、京風ラーメン(薄味)、酒粕ラーメンの三種類であった。


「ふーん。味が薄いのが京都ラーメンだと思ってた」


「私、京都ラーメンにする」


「じゃあ俺は京風ラーメン」


 注文したラーメンが運ばれてくると、なるべく時間をかけて食べることにした。

 稲田は、和風出汁のあっさりとしたスープと上品な細麺をゆっくりと味わった。

 ここでも異孤は起こらないまま食事を終え、二人は店を出た。




 そのあとも適当に駅ビル内の店を回った。

 目ぼしいところを大体見終わり、さてどうしようかと思ったところで、栗生がいきなり稲田の後ろに隠れた。


 何事かと思っていると、二人組の女性が稲田の目の前を通り過ぎようとしていた。

 そして彼女たちの顔が視界に入ったとき、稲田は目を見張った。


 二人組の片方が、栗生と全く同じ顔なのだ。着ている服は違うが、身長も同じで同一人物にしか見えない。



 まさか、か……!



 稲田はすぐにそう気付き、緊張が走った。


 もう一人の女性は見た目が四十代くらいで、おそらく栗生の母親だろう。

 二人はこちらに目もくれず、楽しそうに話しながらどこかへ去っていった。


「ふう……」


 額の汗を指で拭う。

 背後にいる栗生を見られていたら一大事になるところだった。


「栗生、大丈夫か?」


 後ろを振り向くと、栗生が沈んだ顔で俯いていた。


「うん……」


「いやー、マジビビったぜ。春休みだから遊びに来ていたのかな」


「稲田……」


「どうした?」


「私、お母さんに会いたいよ」


 栗生は涙ぐみ、消え入りそうな声で言った。


「この世界じゃなくて、に会いたいよ……」


 栗生の悲しい顔を見るのは初めてだ。

 稲田は胸が痛くなった。


「大丈夫、大丈夫だよ」


 無理矢理明るい声で励まし、栗生の肩をポンポンと叩く。

 それから、すぐ賀来に電話をかけた。


「どうしました?」


「この世界の栗生がいた。こっちは気付かれなかったけど」


「そうですか」


「ここから離れた方が良くないか?」


「出くわしても、そっくりさんということで押し通せそうな気もしますが、ここにも飽きてきたのでそうしますか。今そちらへ合流します」


 通話が終了すると、稲田はもう一度栗生を励ました。


「俺がお前を元の世界に帰して、会わせてやるから。な? だから泣くな」


 栗生は何も言わずに、コクリと頷いた。

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