桜の想い

 二人はどちらからともなく、植木の前にあるベンチに座った。桜を眺めるのにもちょうどいい場所だ。


「桜、綺麗だね」


 栗生が優しく呟いた。


「そうだな」


 稲田は曖昧な相槌を打つ。


 それから数秒間二人は黙ったが、やがて栗生が再び口を開いた。


「じゃあ、そろそろ言っちゃおうかな」


「ああ。言え言え」


「ビックリさせちゃうと思うけど」


「こっち来てから色々あったからな。よほどのことがない限り、驚かねーよ」


 本当に色々あったよな、と稲田は遠い目を空に向けた。


「私、元の世界ではもう死んでるの。だから、戻ることはできないと思う」



 世界が、止まったような気がした。



 全く予想していなかった話に、稲田は頭が真っ白になった。



 え……? もう死んでるって、どういうことだよ……。



 栗生の顔を見てみると、彼女は淡い微笑みを浮かべていた。


「この世界に来たときのことをちょっと思い出してみて。私が電車で痴漢に遭って、駅で降りたときのこと」


 困惑している稲田をよそに、栗生は続けた。


「あの日、逃げた痴漢がホームから落ちて電車に轢かれて、気付いたらこの世界にいたって言ってたけど、実はちょっと違うんだ」


 稲田はただ黙って話を聞くことしかできなかった。

 鼓動だけが徐々に高まっていく。


「私、痴漢がホームから落ちそうになったとき、反射的に手を伸ばしちゃったの。それで痴漢に掴まれて一緒に落ちて、なんとか線路の外側に逃げようとしたんだけど、間に合わなくて轢かれちゃった」


「な、なんだよそれ……!」


「で、なぜか意識を取り戻したと思ったら、この世界でホームの上に立ってたってわけ。バカだよね、痴漢なんか助けようとして自分も死んじゃうなんて」


 栗生の笑みが自虐的な表情に変わった。


「なんで……」


 稲田はなんとか声を絞り出そうとした。それは彼の心と同じように震えていた。


「なんで、そんな大事なこと黙ってたんだよ!」


「ごめん。自分でも受け入れるのに時間がかかって、なかなか言い出せなくて……」


 申し訳なさそうに俯く栗生。

 だが、稲田はこれで違和感を抱いていたことに合点がいくと思った。


「ずっと不思議に思っていたんだ。俺は意識だけがこの世界に飛ばされてきたのに、栗生は元の体ごと全部この世界に飛んできた。この条件の違いは何なのかって」


「うん、きっと私が死んでいることが関係しているんだろうね」


 そう言って、儚げな瞳で桜の木を見上げた。


「稲田と出会って、さてこれからどうしようってなったとき、実家に行きたいって言い出したのも、もう元の世界ではお母さんとお父さんに会えないと思ったからなんだ。だからこの世界で会いたくて……」


 稲田は、京都駅の駅ビルでの出来事を思い出した。


「でも、この世界にも栗生が存在し、母親と一緒に歩いていた……」


「そう。その人を自分のお母さんだと思うことはできなかった。私は結局、この世界に必要な存在ではないんだって思っちゃった」


 栗生の悲しい言葉に、何と言ってやればいいのか分からない。

 だが、適切な答えを探しているうちに栗生が再び話し始めた。


「ごめん、実はあともう一つ、話していなかったことがあるの」



 まだ何かあるのか……?



 稲田は身構えた。


「これはそこまで重要なことじゃないんだけど、聞いてくれる?」


「……聞くよ」


「私ね、痴漢に遭った日よりも前から、稲田のこと知ってたの」


「は……!?」


 耳を疑った。

 どこかで会っただろうかと思い出そうとしたが、心当たりはなかった。


「静岡のファミレスでお昼ご飯食べたときにした話覚えてる? 朝大学行くとき、毎日同じイケメンと同じ車両になって目の保養にしてたってやつ。あれ、実は稲田のことだったんだ」


「えっ」


 今度は二重の意味で戸惑った。

 同じ電車に乗っていたことにも驚いたが、栗生に面と向かってイケメンと言われると妙に小っ恥ずかしくなる。


「別にストーカーとかそういうんじゃないんだよ? ただいつも電車乗ったらアンタが先に乗ってて、『ああ、今日もいるなぁ』って思ってただけ」



 通学中、途中からこいつが乗ってきていたってことか。全然気付かなかった。



「で、痴漢に遭った日、あのときは学校じゃなくて旅行の帰りだったから本当に偶然だったんだけど、私、稲田が同じ車両にいるってこと気付いてた」



 そうだったのか。つくづく、自分のことが情けない。



「痴漢されてたとき、私怒鳴ってたけど、本当は怖くて必死だったんだよ? 触られて気持ち悪いっていうだけじゃなくて、理不尽な悪意に晒されるっていうか、命の危険すら感じた……」



 俺、お前のこと全然分かってなかったんだな。



「あのとき私、アンタに助けてほしいと思ってた。ごめんね、今更こんなこと言われても困っちゃうよね」



 やっぱりあのとき俺が助けていれば、こんなことにはなっていなかったのか。



「でも、線路に落ちる瞬間も、アンタに助けてほしいって思っちゃった。駆けつけて、手を伸ばして掴んでほしいって願っちゃった……」


 栗生の瞳から涙がぽろぽろと溢れ出す。

 その雫が零れるたびに、稲田の胸中で、ある決意が固まっていった。


「ごめん……ごめん……こんな話っ……」


 栗生は嗚咽し、彼女の小さな手が震えた。


「でも稲田は大丈夫だから。せめて稲田だけでも元の世界に戻って……!」


「……ごめんな」


 そう言って稲田は栗生の手を握った。

 驚いた彼女は、誰にも聞こえないような微かな声を漏らした。


「聞いてくれ、栗生」


「稲田……」


「俺はあのとき、お前を助けることができなかった。この世界に来てから、なんとかここまで連れていくことができたけど、まだお前のことを助けられていない。元の世界に戻る方法も分かっていない。でもな……」


 栗生の顔をまっすぐに見て言った。

 彼女も潤んだ目で稲田のことを見ている。


「俺は、お前を残して一人で帰るようなことだけは絶対にしない。世界がお前を必要としていなくても、お前をこの世界から連れ出すまで、ずっとそばにいてやる」


 稲田は迷うことなく、そう言い放った。

 

 栗生は言葉を失い、頬が真っ赤になった。

 嬉しさと恥ずかしさが入り混じったような表情をしている。


「うぅ……」


 桜の花びらが一つ、ひらひらと二人の間に舞い降りる。


 俺は栗生を助ける、と改めて心に誓った。

 そうしたいと願った。

 それができると信じた。


 そう思った矢先のことだ。


 気が付くと、栗生の様子がおかしくなっていた。

 目を見開き、体が微かに震え、呼吸が荒くなっている。

 瞳孔が開いていて、その瞳は虚空を凝視している。


「栗生……?」


 栗生は稲田の声には反応せずに立ち上がり、よろよろと歩き出した。



 くそっ、今度は何なんだよ!



 稲田も立ち上がり、栗生の肩に手を伸ばそうとした。


「来ないで!」


 栗生がいきなり叫んだ。

 稲田は驚き、思わず足を止める。


 すると、背後から誰かが走ってくる気配を感じた。


「稲田さん、離れて!」


 いきなり賀来が現れ、稲田の横を通り過ぎた。

 そして栗生に近づき、ふらついている彼女の体を支えた。


「そこで待機しててください!」


 賀来が声を張り上げているのを初めて聞いた。

 稲田は何も言えずに固まってしまう。



 何だよ、これ……どうなってるんだよ……。



 賀来は栗生を連れて足早に去り、やがて石畳の道の途中で曲がって、見えなくなった。

 見知らぬ中年女性が歩きながら、何事だろうという目を向けていた。


 稲田は呆然と立ち尽くす。

 彼の周囲は嵐のあとのように静かになっていた。



 これじゃあ、まるで……まるで……。



 崩れるようにベンチに座る。

 そのまましばらくうなだれていると、賀来から電話がかかってきた。


「もしもし!」


 慌てて電話に出る。


「賀来です。そちらは大丈夫ですか?」


「ああ、それより栗生はどうしたんだ!?」


「栗生さんに、異孤と思われる症状が出ました」


 稲田の目の前が真っ暗になった。



 やっぱり、そうだったのか……。



「大丈夫なのか!?」


「ええ、稲田さんから離れたら落ち着いたそうです。今は車の中です」


「病院に連れていくのか?」


「いえ、病院には状況を説明できません。男性と一緒にいたわけですから。これから所長のところに向かいます」


 栗生のことは心配だが、賀来の言うことももっともだ。


「俺はどうしたらいい?」


「すみませんが、電車で帰ってきてください。四日市駅まで来たら車で迎えに行きますから」


「分かった。あと、今は栗生と話せるか?」


「……ちょっと無理みたいです。では、そろそろ出発したいので切りますね」


 そう言って、返事を待たずに通話を切った。

 稲田はため息をつきながらスマホをバッグに仕舞う。


 最後に見た栗生の顔を思い出し、絶望しそうになる。

 そんな心情とは裏腹に、彼の周りでは薄桃色の花が美しく咲き乱れていた。

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