稲田の女装

 この世界に来てから五日目の朝が来た。


 少し硬いベッドの上で目が覚め、そのまま伸びをする。

 ベッドの脇に目をやると、さも当然のように賀来が椅子に座っていて、稲田のことをじっと見ていた。

 今日は白衣ではなく、黒いジャケットを着ている。


「おはようございます」


「おはよう」


「あまり驚かないんですね」


「このパターンは二日連続だから、さすがにな」


 視線を時計の方へ移す。

 八時五分。約束の時間を少し過ぎていた。


「起こしてくれても良かったのに」


「ええ。あと五分起きなかったら、引き金を引くところでした」


「寝てる人に向かって麻酔銃撃たないでくれるかな……」


「逆に目を覚ますかもしれませんよ? マイナス掛けるマイナスはプラスみたいな感じで」


「……もしかして今のは、お前なりの冗談なのか?」


「はい。朝の気怠い空気を潤す、ウェットなジョークです」


「そうか。それなら、もっと楽しそうな顔で言った方がいいと思うぞ」


 賀来は例のごとく稲田の指摘をスルーし、ボストンバッグから昨日と同じコッペパンとペットボトルの水を取り出した。


「早めに準備をしてください。これから稲田さんを女にしなければなりませんので」


 妙に引っ掛かる言い回しだが、稲田は気にせずに朝の準備を始めた。いつも通りに顔を洗い、朝食を食べ、歯を磨き、用を足す。


 それらの行程を終えると椅子に座らせられ、さっそく賀来によるメイクが始まった。


「今回のコンセプトは新卒の春休みです。四月から社会人として働くために、田舎から都市部へ越してきたばかりの子ということにします」


「設定が細かいな……」


 賀来はボストンバッグから様々な化粧品を取り出し、テーブルの上に並べた。

 稲田に馴染みのない液体やらクリームやらを黙々と彼の顔に塗りたくり、パウダーをのせていく。

 それから眉をカットしたり、ペンのようなもので何かを描いたり、筆のようなもので何かを描いたり、リップを塗ったりもした。


 メイクには二十分ほど掛かり、その間稲田は何も言わず成すがままにされていた。


「最後にこれを付けます」


 そう言って、賀来はウェーブのかかったセミロングのウィッグを頭に付けた。


「終わりました。あとはこの服を着てください。昨晩買ってきました」


 綺麗に折り畳まれた服を一式、大きいビニール袋から出して稲田に渡す。

 だが、その一番上にどうしても気になるものがあった。


「これも着けるのか?」


 稲田が指差した先には、可愛らしいピンク色のブラジャーがあった。


「安心してください。稲田さんを麻酔で眠らせた夜に、体のサイズは全て測ってあります」


「そういうことじゃねーよ! てか、そんなこともしてたのかよ!」


「リアリティのためです。諦めてください。それとも捕まりたいのですか?」


「くっ……」


 稲田は渋々と服を洗面所へ持って行き、着替え始めた。さすがに人前でブラジャーを着ける気にはなれない。


 与えられた服を一通り身に纏い、おそるおそる鏡を見てみる。

 そして、稲田は衝撃を受けた。



 ふ、普通に女に見える……!



 そこには、いわゆる綺麗系と呼ばれる女子大生がいた。

 白いセーターにブラウンのロングスカート。同じくブラウン系のウェーブがかかった髪が胸元まで伸びている。


 稲田は鏡に写る新しい自分をまじまじと見つめる。

 ブラジャーの存在が気になるものの、源五郎の気持ちがほんの少しだけ理解できたような気がした。


 洗面所から出ると、賀来がいつも通り感情のない目で稲田を見た。


「悪くないですね。靴は買ってませんが、稲田さんのは白いスニーカーなのでそこまで目立たないでしょう。バッグは私の物を貸してあげます」


「初めてお前のことを凄いと思った」


「そうですか。凄いところは他にもあるのですが」


「それは披露しなくていい。どうせろくでもないことだし」


「相変わらず失礼な人です」


「知ってる。そんなことより、もう出掛けるのか?」


「ええ。栗生さんを待たせてしまっています」


 稲田と賀来は部屋から出て、栗生の部屋まで歩いた。

 彼女の部屋に行くのは初めてで、それは廊下の一番奥にひっそりと存在していた。


 賀来がコンコンと事務的なノックをする。

 すると、中から「はあい」と間延びした返事が聞こえた。

 扉を開けると、目の前に栗生が立っていた。出掛ける準備は整っているようだ。


 女稲田は少し緊張しながら栗生と顔を合わせた。

 彼女は稲田の姿を見て、ポカンとしている。


 正直、そういうリアクションが一番辛いと思った。大笑いしてくれた方がまだマシだ。


「どうだ、俺の女装は?」


 耐え切れずに自分から訊いてしまう。


「あ、私!?」


「お前以外に誰がいるんだよ」


「うーん」


 栗生は腕を組んで唸った。


「新入社員の春休みって感じ? 社会人になるために、田舎から越してきたみたいな?」


「それ絶対事前に聞いてただろ!」


「バレたか」


 にへへと笑って頭を掻く。


「まーなんか、普通にアリって感じで面白くない! 以上!」


 栗生は無邪気な笑顔でそう言い放った。

 稲田の心がちょっとだけ傷ついた。


 それから三人はしんとした廊下を少し歩き、栗生の部屋とは反対側の奥にある鉄製の扉を開けた。


 その先には薄暗い階段室があった。

 賀来が鉄の扉の鍵を閉め、階段を上ると、そこにはまた鉄の扉があった。

 それより更に上階へ行ける階段はない。どうやらここは地下フロア専用通路のようだ。


 鉄の扉が開かれると、向こう側から眩い光が溢れだした。


「おお……」


 扉の先は、一階の廊下であった。

 壁や床は薄汚れているが、蛍光灯の冷たい光ではなく温かい自然光で満たされている。窓の外には、青い空と緑の木々が見える。


「地上だーっ!」


 二日ぶりに地下から出られた稲田と栗生は喜んだ。

 賀来はここでも鉄の扉の鍵を閉め、二人をじっと見た。


「たかが二日で大袈裟ですね。早く行きますよ」


 どこかお母さんのような調子でそう言うと、廊下をつかつかと歩き出した。


 二人は賀来について行き、廃病院の外へ出た。

 久しぶりに外の空気を吸い、体が浄化されるような気分になる。


 廃病院の周りは林に囲まれている。どうやらここは辺鄙な里山に建てられている施設のようだ。建物自体も、三階建てという中途半端な高さだ。


 駐車場まで歩くと、赤いミニバンが一台、迷子のてんとう虫のようにぽつんと停まっていた。


「助手席に稲田さん、後部座席に栗生さんが座ってください」


「いいけど、なんでだ?」


「何かやらかすとしたら稲田さんの方ですからね。念のため射程圏内に置いておきたいんです」


 相変わらずの物騒な発言だが、稲田と栗生はもう慣れてしまい、苦笑いを浮かべた。


「へいへい」


「まあ、それが賀来さんの役目だって分かってるから……」


「話が早くて助かります」


 稲田と賀来の荷物をトランクに載せ、車に乗り込む。

 賀来は低めの身長をものともせず、慣れた手つきで車を発進させた。


 駐車場から木々に囲まれた道路に入り、十数メートル走る。

 すると、公道へ出られる手前でチェーンが横一直線に掛けられていて、通せんぼをしていた。


「稲田さん。すみませんが、あのチェーンを外してもらえませんか」


「分かった」


 稲田は車から降り、チェーンを外した。

 車が通り過ぎたあとチェーンを元に戻し、再び乗車する。


「ありがとうございます。ここ、一人だと通るの面倒なんですよね」


 振り返ると、道の脇に赤い文字で「私有地」と書かれた看板が立っていた。


「京都まで一時間半ほどです。それでは、張り切って行きましょう」


「おー!」


 賀来の平坦な声に、栗生が元気よく返事する。


「おー」


 稲田も棒読みでのっかってあげた。

 かくして、次の目的地である京都への旅が始まった。

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