結婚と料理
中瀬はポケットからスマホを取り出した。
「そろそろ晩飯だな。腹が減ってきた。君たちも食べるだろう?」
「話はもういいのか?」
「ああ、ひとまずはな」
スマホの画面をタップして耳にあてる。
「飯にするぞ。私と稲田もデイルームに行く」
それだけ言い放ち、スマホをポケットに仕舞った。
「賀来にかけたのか?」
「そうだ。行くぞ、ついてきてくれ。あの子も来る」
「栗生かっ」
慌てて立ち上がり、中瀬のあとに続く。
デイルームという部屋は、中瀬の部屋のすぐ隣にあった。一見すると食堂のようで、テーブルと椅子がいくつも並べられている。
そのうちの一つに、中瀬がドカッと座った。どうやら栗生と賀来はまだ来ていないようだ。
「そう、そわそわするな。すぐに来るよ」
そうは言われても、落ち着かずに立ち尽くす稲田。
すると、背後から扉が開く音が聞こえた。
「ほら。噂をすればなんとやらだ」
「あ……」
そこには栗生がいた。
麻酔銃で襲撃されて以来、会うことができなかった彼女が。
目が合った途端、栗生は泣きそうな顔になり、駆け寄ってきた。
「稲田っ!」
「栗生!」
「稲田大丈夫だった? ちゃんとご飯食べてた? ちゃんと寝れた?」
「大丈夫だよ。お母さんか、お前は」
稲田はフッと笑った。
「だって、心配だったから」
「お前の方こそ大丈夫かよ」
「うん、別に乱暴とかされてないよ」
中瀬は二人の様子を眺めながらほくそ笑んでいる。
賀来を手招きして呼び寄せ、こっそりと耳打ちした。
「ククク、感動の再会だ。動画を撮っておけ。交尾をおっぱじめるかもしれないぞ」
「おそらくですが……おっぱじめないと思います」
「なんだ、つまらん」
稲田が中瀬の方に向き直る。
「なーに、こそこそ話してるんだ? そろそろ俺たちに何してほしいのか説明してくれよ」
「まったく、君はせっかちな男だな。まずは飯だ。賀来」
「はい」
よく見ると賀来はまたトートバッグを持っており、その中身をテーブルの上に並べ始めた。
「夕食もこれかよ……まあいいけど」
メニューはコンビニで買ったと思われる弁当、パスタ、サラダ、冷凍食品などであった。
「あっ、賀来さん。私も手伝うっ」
栗生がいきなり賀来に駆け寄り、紙コップにお茶を入れ始めた。その楽しげな様子は、まるで友達とパーティーの準備をしているかのように見える。賀来は相変わらず無表情ではあるが。
「って栗生!」
たまらずにツッコむ稲田。
「何?」
「なんで賀来と仲良くしてんだよ! そいつら誘拐犯だぞ、暴行犯だぞ」
「うーん、それはそうなんだけど。久しぶりに女の人に会えたからテンション上がっちゃって。あと賀来さん、お人形みたいに可愛いし……」
「お前の頭は世界平和かっ」
「でも、この人たちがいなかったら女の領土に入れなかったかもしれないじゃない? ご飯と寝床も用意してくれてるし。そこは一応感謝しなくちゃなって」
賀来と中瀬は、うんうんという風に頷いた。
「栗生さんは心の優しい素敵な方ですね」
「そうだな。稲田は栗生の爪の垢を煎じて、油でサッと炒めてろ」
「え、なに? もしかして俺の方がおかしいみたいな空気になってる?」
見兼ねた栗生が割って入る。
「あーもう、いいから座ってて!」
それから電子レンジが必要なものは一品ずつ温め、先に食べられるものから順番に食べ始めた。
「中瀬と賀来ってさ、いつもこんなのばっか食べてるの?」
「別にずっとここに住んでるわけじゃなくて、自宅もあるが……まあ、食べるものは大して変わらんな」
「えっと、お料理はしないんですか?」と栗生。
「しないな」
「しないですね」
二人して声を揃えて言う。
「え、なんでですか?」
「なんでって、面倒じゃないか」
「最近はコンビニ弁当や冷凍食品も美味しくなっていますし」
呆気に取られた栗生が隣の席の稲田に訊いた。
「なに、この世界の女の人って、料理しない人が多いの? 結婚相手に料理を求める男がいないから?」
「別に結婚しなくても自分のために料理する人も多いと思うけど…………この二人だけで判断するのはやめよう。統計を取るには適切なサンプル数が必要だ」
そこはかとなくバカにされている気配を感じ取り、中瀬がムッとした。
「賀来、あいつらは何を言っている。ケッコンってどこかで聞いた覚えがあるな」
「結婚……男女の関係が社会的に承認されるという、大昔の制度ですね。なんでも、一緒に盃を飲み合うだとか聞いたことがあります」
「なにぃ。そんな制度のために女が料理をしなくちゃいけないのか? クソみたいな世界だな」
しばらくの間、中瀬のせいで押し問答が続いた。
そして、夕食を食べ終わる頃にようやく本題に入ることができた。
「あー、既に若干疲れてしまったが、異孤の検証方法を説明する」
中瀬は喋りすぎてグッタリとしていた。
「検証と言っても、難しいことはない。稲田、君には明日から外に出て、なるべく多くの女性に接近し、異孤が起こらないか確認してもらう」
無理難題をふっかけられ、稲田は反論する。
「待て。ここは女の領土なんだろ? 俺が捕まるじゃねーか」
「そんなもの、女の恰好をすればバレないさ。栗生だってそうしてたんだろう?」
「いや、栗生は別にこのままでもバレなかっゴフッ」
いきなり腹を殴られた。
「それは言わないで、悲しくなるから……」
「じゃあ、問題ないじゃないか」と中瀬。
「え、マジで女装するの?」
それを聞いて、栗生がクスクス笑い始めた。
「稲田、華奢だから意外と似合うんじゃないの~?」
「……それは前向きに検討するとして、具体的にはどこに行けばいいんだ?」
中瀬が腕を組んで唸る。
「なるべく人の多いところ……ここからだと京都が近くていいだろう。賀来が車を出すから三人で一泊くらいしてこい」
「マジかよ……アンタは来ないのか?」
「私は論文を書くので忙しいんだ」
「論文ねぇ……」
何が書かれているのか全く想像できない。
それについては気にしないことにして、稲田は続けた。
「で、万が一異孤が発生したらどうするんだよ」
今度は賀来が口を挟む。
「まずは撤退です。私が稲田さんと対象を引き離し、必要があれば制圧します。対象の分析はそのあとで行います」
「そんな上手くいくか?」
「私ならできます」
「その無限大の自信はどこから出てくるんだよ……」
稲田が疑わしげな目で見たが、賀来は無視して続けた。
「それともう一つ忠告があります」
「なんだ?」
「お二人には検証に協力して頂きますが、まだ互いに人質であることは忘れないでください」
「どういう意味だ?」
「外出中にどちらかが逃亡すれば、残った方を殺します。同時に逃げても、どちらかは必ず殺します」
稲田と栗生に戦慄が走った。
さきほどまで食事を共にしていた人間の発言とは思えない。血の通わないAIのようだ。
やっぱり、やべー奴じゃねーか……。
しかし、中瀬が張りつめた空気を解きほぐすように言った。
「君たちが逆らわなければ何もしないよ。賀来は任務に忠実なだけだ。三人で小旅行するくらいの気持ちでいい」
「ったく、脅かすなよ……」
「これは失礼しました。心配しないでください。私もあなたたちを信じていますから」
めちゃくちゃ心配だ、と稲田は思った。
「我々としても検証の不確定要素はなるべく減らしたい。そこでだ。君たちに確実に協力してもらうために、ご褒美を用意してあげよう」
思わせぶりに薄っすらと笑う中瀬。
「ご褒美?」
「君たちが無事、賀来と一緒に帰って来れたら、元の世界に帰る方法を教えてやる」
「なんだって!?」
稲田は思わず立ち上がった。栗生は言葉を失う。
「ドッペルゲンガーだのパラレルワールドだの、私の専門じゃないんだがね。今日一日必死に調べたよ。私なら君たちの今の状態と、元の世界へ帰る方法を説明することができる」
一体何者なんだ、この科学者とやらは。
稲田は中瀬という女がますます分からなくなった。
だが、ここは従うしかない。
「……本当だな、信じるぞ」
「ああ」
「栗生、やったな! 帰れるかもしれないぞ!」
栗生の方を振り返る。
が、喜ぶ稲田とは裏腹に彼女は複雑そうな表情で目を逸らした。
「うん、そうだね……」
「あ……」
稲田はようやく思い出した。
河川敷で中瀬たちに拉致される前、栗生が何かを話そうとしていたことを。
そして、その話の続きはまだしていなかったということを。
何と言うべきか迷っていると、中瀬が先に口を開いた。
「……じゃあ、作戦については分かったな。今日はもうお開きにするぞ。二人とも朝まで自分の部屋で休んでくれ。朝になったら、また賀来が部屋まで行くからな」
賀来が夕食のゴミをテキパキと片付け、室内のゴミ箱に捨てた。
中瀬は隣にある自分の部屋へすぐに戻っていった。
それから三人で廊下に出て、先に稲田の部屋へ寄った。
「それでは、稲田さんはメイクアップがあるので、朝の八時にまた来ます」
「ああ。忘れてたわ、それ……」
賀来の無慈悲な宣告に、稲田はブルーになった。
「ぷぷ、稲田の女装楽しみ~」
稲田の哀れな姿を想像し、栗生もいつもの調子を取り戻したようだ。
「それでは、おやすみなさい。稲田さん」
「お、おう……」
賀来に、普通に挨拶をされると妙な感じがする。
「じゃあ、また明日ね。おやすみ」
「おやすみ、栗生」
扉の向こうで栗生が微かに笑う。でも、彼女の笑顔はどこか儚げに見える。
賀来が扉を閉め、外側から鍵をかけた。
稲田はまず風呂に入り、歯を磨いて、それからようやくベッドに倒れた。
瞼を閉じて、物思いにふけてみる。
不思議な一日だった。
この世界に来てからずっとそうだけど。
俺たちは本当に元の世界に帰れるのだろうか。
今日は栗生と二人で話ができていない。
明日ならチャンスはあるのだろうか。
分からない。
でも今はミッションを達成するしかない。
大丈夫、きっと無事に帰って来れる。
取りとめもなくそんなことを考えながら、この世界での四日目の日が終わりを迎えた。
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