運命の楔
源五郎の店を出発してから約二時間後、県境を越えて愛知県に入った。
午後二時となり店も空きはじめる頃合いなので、国道沿いにある定食屋へ行く。
庶民的な趣きのこじんまりとした店で、稲田は味噌煮込みうどん、栗生は味噌カツ定食を注文した。
「やっぱり男女の境界線は、壁を越えて入るしかないのかな」
食事中に栗生が小声で言った。
「そうだな。愛知には伊勢湾があるけど、俺たちには船がないからな」
「貸しボートなんて、あるわけないしねぇ」
「でも子供の出産が女の領土で行われている以上、男の赤ん坊は絶対に境界線を越えなきゃならない。何かしら方法があるはずなんだけどな。そのへんはネットでもぼかされてた」
「飛行機とかヘリとかかなぁ」
「分からん」
「まあいいか。味噌カツ美味しいし」
よく分からないロジックだ。栗生はそれほど深刻に考えているわけではなさそうだ。
愛知のソウルフードで英気を養い、定食屋をあとにした。
バイクのある駐車場へ戻ると、ヘルメットを被った栗生がひとりごとのように呟いた。
「昼間なのにまだまだ寒いなぁ。まあ、私は後ろに乗ってるからまだマシだけど」
稲田はとりあえず聞き流してバイクに跨った。
「では失礼して……」
そう言って栗生もバイクに乗り、稲田の背中にくっついた。
「あったかあい」
「なんだお前。俺の背中を堪能してたのか?」
「変な言い方するな」
「……じゃあ行くぞ」
三重を目指して再び発進する。
まだ呑気な栗生とは逆に、稲田は少し緊張しはじめていた。境界線へと少しずつ近づいている。上手くいけば今夜、栗生に壁を越えさせることになる。ここが正念場だ、と。
北西に向かって国道を二時間ほど走ったところで、愛知の中心地である名古屋市に入った。
とはいっても、さすがに山間部や海沿いの町よりは店も多く活気があるが、まだ名古屋駅周辺からは離れているので、栄えているというほどでもない。
そのまま名古屋の南側の道をしばらく走っていると、稲田はバイクの走行感に違和感を覚えた。
まさかと思い、コンビニの駐車場に停めてタイヤを見てみる。
「やっぱりパンクしてるじゃねーか」
後輪に釘が一本刺さっていた。
「栗生、近くにバイク屋がないか検索してくれ」
「じゃあスマホ貸してよ。私のスマホまだ固まってるし、なぜかバッテリーも全く減らんし」
「え? はいはい」
稲田は栗生にスマホを渡した。それから、タイヤを蹴って張りを確認した。
「稲田、まっすぐ五百メートル行った先にバイク屋があるよ」
「マジか、超ラッキー! そこまでなら走れるぞ」
二人は再びバイクに乗り、スピードを抑えながら走り出した。
すぐに小さなバイク屋が見つかり、稲田は店内にいる店主に声をかけた。
「すいませーん」
「はいはーい」
その店主は三十代後半くらいに見える痩せた男で、顔つきは優しいが如何せん髭が伸び放題で清潔感に欠けている。丸眼鏡をかけていて、服装はジャンパーにジーンズという修理がしやすい出で立ちではあるが、稲田は「そんなんじゃモテねえぞ」という失礼な感想を抱いた。
でもよく考えたら、この東日本には女がいないので関係がなかった。稲田も、モテたいと思わなくなったらこうなるのかもしれない。
「リアがパンクしちゃったんで修理してほしいんですけど」
「ああ、ちょっと見せてくれる?」
店の外に出て、後輪の釘が刺さっている部分を指差した。
店主はしゃがんでタイヤをじっくり観察した。
「これなら三十分もあれば直せるよ。三千円だけどいい?」
「あっ、はい」
「じゃあさっそく始めるか……」
そう言いながら、店主はなぜか顔を上げて栗生のことをじっと見た。
稲田は少し焦った。もしかしたら怪しまれているのかもしれない。ここで三十分待つのは得策じゃないと思った。
「あの、俺たちちょっとその辺でぶらついてていいっすか? あとで戻って来るんで」
「ああ、ごめん。じゃあ連絡先書いてもらえる?」
稲田は店内のカウンターで、名前と電話番号を用紙に記入した。
「ありがとう。といっても、この辺は何もないけど。この先に河川敷ならあるよ」
「分かりました。じゃあ、また来ます」
二人はバイク屋をあとにした。
「馴れ馴れしい親父だったな」
「あはは……まあ、良い人そうだったけどね」
店を出るなり稲田は悪態をつき、栗生は苦笑いした。
歩道を少し歩くと、店主の言う通り大きな川とそれを跨ぐ橋が見えた。河川敷は広い原っぱのようになっていて、休憩場所としてちょうど良さそうだ。
橋の手前で左折し、河川敷の草地へ下りてみた。
「ここで休憩してるか」
「分かった」
二人で川の近くまで歩き、腰を下ろした。
他に人影は見当たらない。もう夕方になっていて、どこかでカラスが鳴いているのが聞こえる。
対岸は遠く、ジオラマのような小さな街並の中に大きな工場が一棟建っているのが見える。
「お疲れ。これ飲んでいいよ」
栗生がペットボトルのスポーツドリンクを手渡してくれた。
「サンキュ」
遠慮せずにゴクゴクと喉に流し込む。
しっかり冷えているというわけではないが、それでも生き返るような気分になった。
「修理終わったら、境界線の壁まではあと三十分ってところだな」
「うん」
「無理矢理壁を越えるなら、目立たない夜の方がいい。ちょっとハードになるけど」
「うん」
「まあ、無理そうだったら今日は諦めて別の策を考えりゃいいさ」
「うん……」
「なんか元気ないけど、どうした? 心配ごとか?」
「ううん、この旅もあとちょっとで終わっちゃうんだなって」
「……そうだな」
「短い間だったけど、すっごく楽しかった。本当にありがとう、稲田」
「うん。俺も……楽しかったと思う」
「私が女の領土に入ったら、もう会えなくなるのかな?」
稲田はどう答えるべきか迷った。
だが、正直に答えることにした。
「この世界に数日いて実感したけど……やっぱり連絡を取るのは難しいかもしれない。元の世界に戻る方法が分かったら、なんとかして伝えてやりたいけど」
「そっか」
「でも栗生が実家に戻れれば、少なくとも生活できなくなるということにはならない。この世界で生きていくことはできる。最悪はそれで妥協するしかない」
「……分かった」
そう言って、栗生は儚げな微笑みを浮かべた。
「ねえ、稲田。それなら、今のうちに話しておきたいことがあるの」
「なんだ?」
「私……」
栗生はそこまで言うと、俯いてしまった。
柔らかな夕陽が、彼女の頬を朱く染める。
「実は……」
意味ありげに口ごもり、その先を言おうとしない。
稲田はまさかと思い、心臓が強く鼓動した。
これはアレか? もしかしてアレなのか?
やがて栗生は意を決したかのように稲田の方を向き、彼の目をまっすぐに見つめた。
彼女の瞳は、朝露の雫のように潤んでいる。
栗色の髪が、春の風にふわりとなびく。
「私、私ね……」
「お、おう……」
稲田の胸の高鳴りも最高潮に達する。
しかし、その次の瞬間であった。
栗生がいきなり瞼を閉じてよろけたかと思うと、そのまま地面に倒れてしまった。
「栗生……?」
ぐったりしていて、動く様子が全くない。意識が失われているようだ。
どうしたんだ……?
あまりにも突然の出来事に、稲田はパニックに陥った。
何が起きたのか分からないがひとまず起こそうと思い、倒れている栗生に手を伸ばす。
だが彼女に触れる前に、背後に誰かがいる気配を感じ取り、素早く振り向いた。
それを目の当たりにしたとき、稲田は戦慄した。
その人物は背が低く、釣り人のような格好をしていた。長い髪を後ろで縛り、その上にキャップ帽を被っている。ライフジャケットを着ていて、右手には釣り竿……ではなく、ハンドガンを握り締めていた。
なんだ、こいつ……?
稲田は震えた。
銃口はもちろん彼に向けられている。
もしかして警察か?
栗生が女であることがバレたのか?
バイク屋の親父が通報?
でもバレても無期懲役だろ?
いきなり撃たれるなんて話聞いてねえぞ!
もう一度栗生に目をやる。
出血や外傷は見当たらない。そういえば銃声も聞こえなかった。どうなっているんだ?
振り返ると、ハンドガンの人物は左手にトランシーバーを持っていて、誰かと話し始めていた。
「片方撃ちました。今のところ異常はありません。周囲には誰も来ていませんか?」
その声を聞いて、稲田はハッとした。妙に高い声だと思った。
もしかして、こいつ女か!?
よく見てみると、男にしては可愛いらしい顔つきをしていると思った。
心なしか、胸も膨らんでいるように見える。
なんで女がいる!?
ここはまだ男の領土だぞ!?
稲田の動悸が激しくなり、脂汗が流れた。
どうにかしなくてはならないのに、体が動かない。完全に平静さを失っている。
くそっ、あともう少しでゴールだったのに!
こんなところでしくじるなんて!
そんな稲田の気も知らずに、ハンドガンの女は冷徹な視線を彼に向け続ける。
「はい……はい……では……」
通話の相手に事務的な口調で返事をしている。
だがそう思ったのも束の間、女はあっさりとハンドガンのトリガーを引いた。
抵抗する間もなく、稲田の首筋に何かが刺さった。
そして、彼の意識は急速に失われた。
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