トイレマーク

 神奈川と静岡の県境を越え、辺鄙な道路をしばらく走り続けていると、交差点にファミリーレストランがあるのを見つけた。


 時刻は午後一時半頃。コインランドリーを出発してから二時間ほど経っていて、疲れも溜まってきたし、腹の虫も鳴っている。

 一見すると他の客も少なそうなので、ここで昼食をとることにした。


 駐車場にバイクを停め、栗生に声をかける。


「飯にするぞ」


「ロードダイナー、こっちにもあるんだ」


 栗生は店の看板を見上げた。


 ロードダイナーは、稲田たちがいた日本でも有名なレストランチェーンだ。大通りにあるダイナーという意味を込めてつけられた名前らしいが、大抵の大衆向けレストランは大通り沿いにあるのであまり意味をなさない。


「レストランなんか入って大丈夫かなぁ」


「ガラガラだから大丈夫だと思う。この辺、コンビニとかも全然ないし」


「了解」


 店内に入ると、特に怪しまれることもなくテーブル席に案内された。

 ようやく柔らかい椅子でくつろぐことができ、ホッと息をつく。


「お疲れさま」


 そう言って、栗生がメニュー表を手渡してくれた。


「サンキュ」


 パラパラとページをめくってみる。


「やっぱりメニューも、俺らの世界と結構変わってんな」


「一目でよく分かるね」


「ローダイのメニューは全種類食ってるからな。レディース向けのやつも含めて」


「どんだけ好きなの」


「店員にも顔覚えられたよ。『いつもありがとうございます』つって」


 それを聞いた栗生は数秒間、ぼーっと黙った。冷たい水を少し飲み、また口を開く。


「でもそういうことってあるよね。私も大学行くとき、毎朝同じイケメンと同じ車両になって目の保養にしてたし」


「へぇ。そのローダイの店員は、美人ってほどでもなかったなぁ」


「あらそう」


 それから稲田はオムドリア、栗生はカレー風ハンバーグセットを注文した。

 元の世界ではなかったメニューを味わいながら、二人はまた話し始めた。


「バイク乗ってるとき保育園見かけたけど、やっぱり男しかいなかったよ」


「そりゃそうだろ。男しか住んじゃいけねーんだから」


「じゃあ、女の領土では全部女の人だけで成立させてるんだよね? 力仕事とかどうしてるんだろ」


「……例えば俺と女子プロレスラー、どっちの方が力あると思う?」


「そりゃ女子プロレスラーだけど……」


「じゃあ、そういう人たちをたくさん育てればいい。対価を吊り上げてな」


「そんな都合良くいくかなぁ」


「いや正直、物理的には不可能ではないっていう程度の話だが……」


「まあ、誰かしらがやらなくちゃいけないってことだよね」


「ああ。絶対男じゃなきゃできない、女じゃなきゃできない、なんて仕事はないからな」


「そっかぁ」


 厳密にいえば、男でなければできない仕事、女でなければできない仕事というのは存在する。だがそれは、ここで栗生に言うべきことではないと思った。


 注文した料理を食べ終えると、栗生がぽつりと呟いた。


「当たり前だけど、ここも男子トイレしかないんだよね……」


「高速のサービスエリアで男子トイレに入るおばちゃんがいるだろ? あれになりきれ。『今だけ男子』だ」


「私はこの世界に来てからずっと『今だけ男子』だけどね……」


「ははっ、上手いな。座布団一枚!」


「うぜぇ……」


 稲田は店内をキョロキョロと見回した。


「俺もトイレ行きたいんだけど、どこだ?」


「もしかして、あれなんじゃないかな」


 栗生がフロアの片隅にあるマークを指差した。それは便器のマークであった。


「トイレマークのデザインが変わってる……?」


「私がこの世界に来たときに駅で見たトイレも、このマークだったよ。なんで変わってんだろ」


「いや、そもそも俺たちの世界のトイレマークはなんで人型だったんだ?」


「そりゃあ、男子トイレと女子トイレがあるから……あっ」


「男女に分ける必要がないから、マークのデザインも違うということか……?」


「ふぅん。ま、マークなんて何でもいいけど」


 栗生が立ち上がり、先にトイレへ向かった。普通に男のトイレに入っていくなんてアイツもなかなかタフだなと、稲田は彼女のことを少し見直す。

 でも、さすがに栗生と一緒にトイレに行く気にはなれず、戻ってくるまで待つことにした。


 数分後、栗生はげんなりとした表情で戻ってきた。


「大丈夫だったか?」


「まあ、別に平気だけど……」


「なんかあったのか?」


「小をしながら、片手でスマホいじってる奴がいた……」


「男子トイレあるあるだ、気にすんな」


「自分の中で何かが鍛えられていく感じがするよ……」


 稲田もトイレに行き、そのあと念のため稲田だけで会計を済ませた。

 店の外に出たあと、栗生が自分の分の代金を稲田に渡し、二人はロードダイナーを出発した。




 これまでは山あいの国道を西に向かって走っていたが、今度は御殿場方面に向かって南下した。

 ただの旅行だったら観光できる場所がたくさんあるが、一応栗生の逃避行である手前、小休憩は挟みつつも特に寄り道などはしなかった。


 御殿場を通り過ぎ、海沿いにある沼津市に辿り着くと、次は国道をひたすら西へ進んだ。


 前方に見える陽が傾きはじめる頃、左手側に堤防のある道に差し掛かった。

 堤防の向こう側の景色は見えない。

 だがそのまま走り続けていくと、堤防が傾斜となり徐々に低くなっていくことに気が付いた。


 もしやと思い、栗生は期待に胸を膨らませた。

 そして、堤防の脇を通り過ぎた瞬間、それは現れた。


 目の前に、見渡す限りの海が広がっていた。青春の輝きのようにキラキラと光る海原が。

 そして、海よりももっと大きい空が、青と橙のグラデーションに染まっている。

 潮の香る風が二人のバイクを追い越していく。


 広大な自然の美しさに、栗生は思わず息を吞んだ。


「海だーっ!」


 驚いたのも束の間、彼女は稲田に掴まったままはしゃぎ始めた。


「きれーっ! きもちーっ!」


 バイクに乗りながら海を見るのは初めてで、富士山を見たときよりも更に嬉しそうだ。


「いけー、稲田ー! あの夕陽に向かって走れー!」


「うるせーよ! さっきから!」


「アハハハハ!」


 そのまま海沿いの道路を三十分ほど走った。

 栗生は散々騒いだあと急に大人しくなり、海の道が終わるまでうっとりと景色に見惚れていた。




 そのあとはひたすら市街地の道路を走り、静岡市を抜けて焼津市に入った。

 もう陽が沈みかけ、あたりは薄暗い。ヘッドライトの光で目の前の闇を散らし、事故を起こさないように注意しながら進んだ。


 やがて、二人はここで少し早めの夕食をとることにした。

 焼津は駿河湾に面した漁港の町だ。ならば当然魚を食せねばならぬということで意見が一致し、海鮮丼を食べることになった。これでもかと言わんばかりに暴力的なまでに盛られた海の幸に、二人は舌鼓を打った。


 腹も膨れたところで、今晩泊まる宿を決めることにした。

 適当に西の方角へ向かいながら宿泊施設を探してみる。

 交差点の赤信号で停止したとき、稲田は栗生に声をかけた。


「今のところ旅館しか見かけてないな。旅館は客との距離感が近いから、できれば避けたいんだが」


「中でずっとマスク付けてても変だしねぇ」


「ていうか、風呂も男湯しかねーじゃん。ハハハ」


「ちょ、それ絶対無理!」


 栗生はなんとかホテルを見つけようと、必死にあたりを見回した。


「あ! あそこにホテルあるよ」


 指差した先には、確かにホテルの看板が見える。


「ホントだ。よし、行ってみよう」


 再びアクセルを吹かし、発進した。


 しかしそのホテルの前まで行ってみると、入り口の案内板には休憩三時間五千円だのと、いかがわしい料金体系が表示されていた。


「なんだ、これラブホじゃん」


 バイクから降りて案内板を見た栗生は、特に臆する様子もなく言った。


「あれ、こっちにもラブホがあるってことは……」


「栗生よ、その先は胸の内にしまっておきなさい」


「ラブホッテナニ? ワタシ、ワカンナーイ」


「そうだ、それでいい」


「ここもハズレだったね。次いこ、次」


 踵を返し、再びバイクに乗ろうとする。


「待てよ、ラブホ……そうか、ラブホか!」


「えっ……?」


「でかしたぞ、栗生」


 栗生は血の気が引いていくのを感じた。


「ちょっと、稲田さん? 何を言おうとしてるのかな?」


「今日はこのラブホに泊まるぞ!」


「はぁっ!?」

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