旅立ちの朝
稲田は栗生の返事を聞いて、二カッと笑った。
「かしこまらなくていいって。俺も久しぶりにバイクで遠出したかったんだ」
「うん……それじゃあ、出発は明日でいい? 今日はどこかに泊まって準備しておくから」
「え、泊まるってどこに?」
「ホテル」
「このへん、ホテルなんてねーぞ。それに女だってバレたら、また追いかけられるんじゃねーか?」
「じゃあどうしたら……」
「いや、うちに泊まっていいって」
「えぇっ!?」
栗生は驚きのあまり、後ろに倒れそうになった。
「狭いけどベッドはアンタが使っていいよ。俺は床で寝れるから」
「そういう問題じゃないんだけど」
「他に手があるか?」
今日出会ったばかりの若い女性をいきなり自宅に泊めるのはいかがなものかと自分でも少しは思ったが、やむを得ない。彼女は今捕まったら問答無用で無期懲役なのだ。
「…………ない」
栗生はガックリと肩を落とした。どうやら腹を括ったようだ。
「そうと決まりゃあ、明日の準備するか」
稲田は立ち上がり、クローゼットの中を調べた。
「おっ、ちゃんと予備のヘルメットもある。男同士の交友関係は変わってねーみてーだ。あ、二ケツ用のヘルメットの話な」
「はぁ」
「そういえば栗生さん、結構デカいリュックだよな。どっか行ってたのか?」
「友達と旅行に行った帰りだった」
「じゃあラッキーだったな。こっちじゃ女に必要なもんなんて売ってないはずだ」
「ああ、そのへんは自分で考えてなんとかするから心配しなくていいよ。気持ち悪いし」
「ひでっ」
「とりあえず明日は最初にコインランドリー寄ってもらえれば大丈夫」
「……りょーかい」
ここで洗濯するのは嫌なのだろう。稲田でもそれくらいのことは察することができた。
それから、とりあえず夕食をとることにした。
炊いておいた米と、先ほどスーパーで買った総菜を二人で分けた。
特に美味しくもないおかずを食べながら、栗生が訊いた。
「助かるけど、お米以外は自炊しないの?」
「まあ炊飯器とレンジはあるけど、ガスコンロがないしな」
「ないの!?」
「そんなもの、買うわけない」
「そこで開き直らないでよ……」
食事を終えたあと、稲田は風呂に入った。湯船にお湯は溜めず、髪と体を洗うだけで済ませる。
部屋に戻ると、あっけらかんとした調子で栗生に声をかけた。
「栗生さんも入っていいぞ」
栗生は怪しむような目で稲田を見た。
「稲田さんってもしかして、結構女慣れしてる感じ? まあ、顔はいいと思うけど……」
「いや、そんなことはないと思うが」
「別にいいけど……それじゃあ、入らせて頂きます」
そう言ってリュックを持ち、そろそろと脱衣所に入っていった。
栗生が風呂に入っている間、稲田はスマホを見ながら時間を潰した。
海外はどうなっているのか調べてみたら、他の先進国も概ね日本と同じような状況である旨が書かれていた。試しに海外のサイトを見てみようと思ったが、アクセスできなくなっていた。
しばらくすると、風呂から出た彼女が部屋に戻ってきた。
「メイク落としたから……」
「ん? ああ」
栗生はどことなくそわそわしながら、座椅子に座った。
なぜそんなことを報告したのか稲田には理解できなかったが、スマホをいじりながら彼女に話しかけた。
「そうだ、明日からは化粧しなくていいんじゃないか? 男のふりしなきゃいけないんだから」
「デリカシーゼロ男め」
「でもその方が楽だろ?」
「全面的には否定できない自分が悲しい……」
「ていうか、別にすっぴんでもいい感じだと思うけど」
「いや、やっぱり可愛くなるために毎日わざわざメイクしてるんだから、そんなこと言われても嬉しくない」
「へいへい」
栗生はぷくぅっと膨れながら稲田を睨んだが、視線が合うとすぐに目を逸らした。
「……眉毛だけ書いてもいい?」
「お好きにどうぞ」
旅の準備が一通り済むと、明日に備えて眠ることにした。
稲田は床にマットを敷き、栗生はベッドで横になった。
部屋の照明を消したあと、栗生がひとりごとのように呟いた。
「ねぇ、稲田さん」
「なんだ?」
「明日の朝目が覚めて、全て元通りになってたらどうする? 男も女もいる普通の世界に戻っていたら」
「せっかくだから、アンタをバイクで家まで送ってやるよ。それで全部おしまいだ」
「……そうなってるといいね」
「ああ」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
それ以上は何も話さず、やがて栗生は静かに寝息を立てた。彼女の呼吸は心地良い夜風の音のようにも聞こえた。
稲田はすぐには眠れなかった。もし今日の出来事がただの悪夢だったら。そんなことを考えていた。
もしこれがただの悪夢だったら。
明日の朝栗生はいなくなっていて、ベッドで目覚めるのは俺だ…………いや、目覚めるのはベッドではなく電車の中だろうか。もしそうだったら、栗生はまだそこにいるのだろうか。それともいなくなっているのだろうか。
そういえば俺は、電車で眠る前に「男と女は別々に暮らせばいい」というようなことを考えていた。それが実現してしまったということなのだろうか?
分からない。何が本当で、何が本当じゃないのか。
思考の檻の中に囚われているうちに、いつしか眠りに落ちていった。
翌朝目が覚めると、自分がいつもと違う場所で寝ていることに気付いた。自分の部屋ではあるが、ベッドではなく床にマットを敷いている。
起き上がると、ベッドには見知らぬ女がいた。
これが酔った勢いで家に連れ込んだ女とかだったら、どれほど幸福であっただろうか。しかし、そうではない。これは栗生だ。中学校の英文の和訳のような言い回しだが、これは栗生だ。
一応テレビをつけてみたが、どの番組にも女の姿は見当たらない。
天気予報では、お天気お兄さんが元気に関東地方の天気を伝えている。
結局現実は変わっていなかった。朝になったら全て元通りになっていたり、電車の中で目覚めたりとかいう都合のいい展開にはならなかった。
いつまでこんな世界にいなくちゃいけないのかと、朝から憂鬱になる。
テレビの音で目が覚めたのか、栗生もゆっくりと起き上がった。
「おはよう!」
寝起きの彼女に向かって、爽やかに挨拶をしてやる。
「…………」
やがて栗生の寝ぼけ眼が稲田の姿を捉えた。
「ひぃっ」
栗生はロングTシャツを着ているのに、なぜか胸を隠すポーズをした。お世辞にも豊かとはいえない、関東平野のような胸を。
「まだ寝ぼけてんのか?」
「…………あ」
小さく声を漏らしたあと、大きなため息をついた。昨日の出来事と今の状況を思い出したようだ。
「……おはよう」
「おはようさん」
身支度を済ませたあと、朝食をとりながら栗生にバイクの二人乗りのやり方を伝授した。発進・停止の合図や意思疎通の方法、旋回するときのポイントなどなど。
だが稲田の努力もむなしく、結局「乗ってみないとよく分からない」という結論で終わった。
全ての準備を終え、二人は玄関の外へ出た。
時刻は午前十時。天気は快晴で、爽やかな朝の空気が肺の中へ満たされていく。
駐輪場に停めていたバイクを見て栗生は目を輝かせた。
「おぉ、結構良いバイクだね」
「だろ?」
ヘルメットを被り、自分のバッグをバイクの中の収納に入れ、バイクをアパート前の道路まで押す。そして、稲田が先にバイクに跨った。
「じゃあ、途中でコインランドリー見つけたら寄るってことでいい?」
「うん」
「一応アンタの家の様子も見に行くか?」
「別にいい。表札とかも付いてないだろうし、わざわざ行っても何も分からないと思う」
そう言って、栗生もヘルメットを被った。
「わかった。乗っていいぞ」
「…………よっと」
「しっかり捕まれよ」
「……こう?」
稲田の体にしがみつき、両手を組んだ。
「オーケー。じゃあ行くか、栗生」
「うん……」
ヘルメットの下で照れくさそうに微笑む。稲田に悟られないように。
「ありがとう、稲田……」
「いいってことよ。さあ、女の国へ出発だ!」
アクセルを軽く吹かせ、二人を乗せたバイクが発進した。
青空とひつじ雲の先にある、未知の世界へ向かって。
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