最終話 ふたつの光

 ライカが遭難したという報せはすぐさま神殿長イルミナに届けられ、直後に捜索隊も編成、出発した。

 修練生の実習に限らず、宇宙での作業はこういった事故が常に付きまとう。故にマニュアルも存在し、それはイルミナのわずかばかりの支えとなっていた。


 ライカ発見の報告があがったのはそれから一時間後。

 なぜか多少の抵抗はあったものの、無事回収され、一同は胸をなで下ろした。


「……とりあえず、もう一度言葉を交わせる幸運を喜びたいと思います」

「お、おう」


 ひと通りの事情聴取とお説教をもらってライカは、イルミナの私室に呼びつけられた。

 きっとお説教だろうと身構えて入るのとほぼ同時に投げかけられた言葉に、ライカは思わずたじろいだ。


「お説教はクレアがたっぷりしてくれたでしょうから、わたしはしません」

「じゃあ、なんで呼んだんだよ」

「心配、したんです。これでも。胸が張り裂けそうなぐらいに」


 そんなことを言われても困る。


「それを伝えることぐらい、許してください」


 そんなことを言われても困る。


「ライカはもう立派な大人ですが、わたしにとっては出会った当初から何も変わっていない、大切な存在です。それが、宇宙に放り出されたなんて、信じたくありませんでした」


 言葉に込められている静かな熱に、ようやくライカはこの人を苦しめたのだと自覚した。


「……その、あの、さ」

「まだわたしが話してる途中です!」


 怒りや叱責とは違う、子供の駄々に似た怒声に、ライカは小さく笑う。


「な、なにがおかしいのですか!」

「いや、あんたのそういうところ、変わってなくてうれしいんだ」

「い、い、いまは関係ないことでしょう! そういうのは!」


 顔を真っ赤にして叫ぶ姿が妙にかわいい。


「あああもう! ライカがよけいなことを言うものだから何を言おうとしてたのか忘れてしまったじゃないですか!」

「知るかよ。どうせお説教なんだろ」

「ち、ちがいます! わたしは、もっとライカに!」


 もういいよ、とライカは右手を挙げて振り返る。


「待ってください! わたしの話はまだ!」

「その顔でなにを言っても締まらねぇよ。とりあえず部屋で寝たいんだ」

「……、それは、わたしだって同じです。ライカが行方不明になってから、ろくに寝付けていませんから」


 足を止め、ノブにかけられていた手を戻し、少しだけ振り返って。


「迷惑かけた。心配かけた。……悪かった」

「なんで、いま、そんなことを言うんですか……っ」


 泣いているような声音だったが、ライカはそれ以上振り返らず、ノブを回して部屋をあとにした。


    *     *     *


「おかえり。甘えてきた?」

「あほ。謝ってきただけだよ」


 ふぅん、と意味ありげに頷いて、オリヴィアは電書本を開いた。二日分の休暇で読み切れなかった本がまだ大量に残っているらしく、当分は退屈しなくていい、となぜか悲しげにつぶやいていた。

 さて、と自分のベッドを見やると、おずおずとミューナが声をかけてきた。


「お、おかえり」

「ああ。おまえにも、迷惑かけたな」

「い、いいよ。そんなの。だいじょぶ、だから」

  

 そっか、と頭をぽんとたたいてライカは自分のベッドに倒れ込む。


「ちょっと寝る。晩飯は適当に食うから用意しなくていいからな」

「今日の晩ご飯当番あんたなんだけど」

「わたしが、変わるから。ライカは寝て」

「えーなにそれ。ちょっと甘やかしすぎてない?」

「いいの。ライカ、疲れてるんだから」


 そんなふたりのやりとりを聞きながら、ライカは自然と眠りの闇へ落ちていった。


    *     *     *


『あー、しまったな……』


 通信などものの数秒で圏外になった。

 秒速七キロメートルという地上ではまず経験できない速度で遠ざかっていくブリズエール号と乗員たちの姿は、置いて行かれる恐怖を通り越して笑いすら覚えたほど。

 

『んーと、まあ、ここで待ってればそのうち助けも来るだろ』


 遭難したときの基本。その場を動かないこと。

 レーダーを一瞬だけ起動させてみたが、周囲にデブリはなく、バッテリーも生命維持だけに回せば二日分、しかし酸素は一日分しかない。水は三百ミリリットル程度。


『ん、大丈夫だな。低電力モードで救難信号出してればこっちの座標ぐらいすぐ割り出せるだろ』


 事前のクレアからの説明によれば、毎年一度はこういう事故が起きているので捜索もマニュアル化が進んでいるらしい。今頃はイルミナにも連絡が、


『また、心配かけちまうな……』


 星の、カイセスの方向を見るとイルミナの怒りと哀しみの入り交じった心配顔が浮かんでしまう。戻れたらきっとこっぴどく叱られるのだろう。

 でもいまは、背を向け、星々へ目を体を向ける。

 

『昼の側で助かったな』


 これで夜の側だったら、本当に自分がどこにいるのかが分からなくなっていた。

 実際に宇宙に出る前に軌道エレベーターを使って無重力がどういう状況なのか、の訓練は受けたが、それもクレアのいる安全が保証された場所でのもの。

 完全にひとりの状況での訓練なんてやっているはずもなく。


『えっと、遭難したときはヒザを抱えて星を見てろ、だったっけか』


 惑星の方を見ていると、高度三万キロメートルという位置にいるのに、まるで手が届きそうな大地や海に心が引っ張られ、からだが落ちていくのだという。

 最初に聞いたときは半信半疑だったが、実際自分がそうなってしまうと納得するしかない。

 ヒザを抱え、姿勢制御用のエアを放出して星の側へ向けて姿勢を維持する。

 あとは与圧服の機能を生命維持最優先に切り替え、ほぼ正面にある太陽に目をやられないようにフェイスシールドの透過率を最低に、救難信号をオートで出し続ければ、ライカにやれることはなくなる。

 ただじっと、星を見つめていればいい。

 感じるのは、自身の呼吸と心音。背中からのカイセスの光。

 そして、惑星で生まれ育った者を拒む圧倒的な静寂。


『命ひとつ、ってこういうことなのかな』


 ふいに、腕輪をもらった時のクレアの言葉がよぎる。


 この広すぎる世界に、いまはじぶんひとり。

 すぐ隣には死。


『あいつの命は、どんな感じなんだろうな』

 

 星空に浮かぶのは、ミューナの顔。

 ちゃんと全力で相手をしてやれなくて、悪かったな。

 後悔があるとすれば、それぐらいだ。

 ここで死んだら、あの人は哀しんでくれるだろうか。

 そんなことを考えていたら、いつの間にか意識は宇宙の闇に溶けていった。


     *     *     *


 深い深い闇が広がっていた。

 油断すれば自分の存在すら消え去ってしましそうな闇が。


 自分なんていてもいなくてもいい、いたとしてもあいつらにいたぶられるだけだから、それでもべつによかった。


 闇にからだと意識が飲み込まれる寸前、光が見えた。

 暖かくて柔らかくて、いつまでも一緒にいたいと思える光が。

 消え去りそうな自分をかき集めて、ゆらゆらと光のもとへ向かう。


 光に触れる。

 いままであいつらにされてきたこと全部が、悪い夢のように消えていく。

 壊れかけた自分の心がゆっくりと癒やされ、暖かいものが満ちていく。

 決めた。

 この光を侵すものすべてから、自分は盾になる。


 けれど、そのすぐそばに、べつの光が現れる。

 けれどその光に最初の光のような暖かさはなく、ただただ美しく輝くばかり。


 こんなきれいな光を自分みたいな野良犬が見てはいけない。

 だから目を逸らそうとした。

 けれど、美しい光から目を離せない。

 それどころか、向こうから近づいてくる。

 振り払っても、ぶっ叩いてもまだあいつは離れようとしない。


 渋々受け入れて、一緒に暮らして、それでも美しい光を直視することはできないのに、ずっと見つめていたいと思う気持ちが少しずつ、澱のように積み重なって。


 だから、ひとりになろうと思った。

 星の美しさは、あいつの美しさにとてもよく似ていたから。


 あいつみたいな光と、自分の命の音だけの世界で、ゆっくりと考えたかった。


 周りの大人たちに迷惑をかけたけれど、ひとつの答えは出た。


 ──あたしは、あいつのことが。


     *     *     *


 たぶん初めてのふたりきりの食事に、オリヴィアは柄にもなく緊張していた。

でもそれはミューナも同じで、オリヴィアが用意したラジオからの放送がなければずっと無言のままだっただろう。


「うん、おいしかった。ありがとミューナ」

「おいしくできて良かった。残りは冷蔵庫にしまっておくから、食べないでね」

「そんなことしないわよ。あいつじゃあるまいし」

「ライカだってしない」

 

 むぅ、と唇をとがらせる姿がかわいい。


「ごめんごめん。お腹もいっぱいになったし、あたしは銭湯行ってくるけど、一緒に行く?」

「いい。ライカが起きるまで待つから」

「朝まで起きないわよ、たぶん」

「だったら、オリヴィアが帰ってくるまでは、ここにいる」


 そんなにあいつがいいか、と内心嘆息しながら自分の食器を手にして立ち上がる。


「あっそ。じゃあ行ってくるね」


 シンクに食器を置いて水をかけて、オリヴィアはお風呂セットと着替えと電書本をそそくさと用意して、


「きょうは帰らないから、鍵かけていいからね」

「う、うん。いってらっしゃい」


 足早に部屋を出て行った。

 困ったのはミューナだ。


 自分で残ると言っておきながら、いざライカとふたりきりになると、急に鼓動が早くなる。

 だいじょうぶ。ライカは眠ってるんだから。

 そう言い聞かせても、鼓動は落ち着こうとしない。

 カタカタと震える食器を、そぉっとシンクに置いて。できるだけ音をさせないように移動して自分のベッドに腰掛けた。


 しまった。

 お湯を沸かしておけばよかった。

 そうすればライカが起きた時にお茶を出せたのに。


 でも出せなくてもライカは、「いいよ自分で淹れるから」と言うだろう。 

 そういうところがうれしくて、少し悲しくなる。


 ライカはいつも、猫みたいにひとりだから。

 

 そういうところがかっこよくて、大好きなんだけれど。

 

 顔をこちらに向けてうつ伏せで眠るライカは、ほっぺたが少し潰れているけど寝顔自体は安らかで、時々むにゃむにゃと寝言が漏れるが、なにを言っているかまでは分からない。

 そんなことはどうでもいい。

 ただ無防備なライカを眺めているだけで、


 ふいにライカが起き上がった。

 びっくりしすぎて声も出なかった。


 起き上がったライカは、まぶたを重そうにしながらきょろきょろと周囲を見回し、やがてミューナを見つけるとだらしなく笑う。


「ミューナ」

「は、はいっ!」


 名を呼ばれ、思わずベッドに正座してしまう。


「あたし、おまえが好きだ」


 なにを言っているのか分からない。


「わ、わ、わたしも、好き。ライカのことが、いちばん」


 なにを言っているのか分からない。


「そっか。よかった」


 そう言い残すと、ばたんとベッドに倒れ込み、すやすやと寝息をたてはじめた。


 きっと寝言だ。

 そう言い聞かせて言い聞かせて言い聞かせて。

 何度も何度も何度も何度も何度も深呼吸をして。

 まだ収まらない鼓動の早鐘を恨めしく思った。



 

 それからライカは一度も目覚めることなく朝を迎えた。

 目覚めてライカが最初に目を合わせたのはミューナ。

 そのミューナが恥ずかしそうに視線を逸らしたのを見て、ライカは鎖骨まで真っ赤にした。

 その後、秋が深まり冬を迎え、新しい年を迎えて二年目の修練が始まる頃までの間、ミューナはライカがどこへ行くにも彼女の裾の端をつまんでついて回っていた。

 ライカはライカで迷惑がることもせずに受け入れはしたが、それ以上の進展は見られなかった。


 そんなふたりのやりとりを見たオリヴィアは、「五才児かあんたたちは」と嘆息した。

 これからあと一年と少しで卒業試練。

 めんどくさくなりそうだとオリヴィアは痛感した。

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