第21話 恋とか愛とか

「入るよ」


 そう言ってノックもせずに無遠慮に控え室のドアを開けた。

 水差しの置かれたテーブルと丸椅子がふたつ。明かり取りの窓にはカーテンが引かれ、天井は蛍光灯が淡く光っている。

 その丸椅子のひとつに座っていたライカは、悪戯が見つかった子供のように目を丸くしてオリヴィアを見つめた。


「お、逃げてないな。えらいぞ」


 むふ、と猫のように笑いながら、オリヴィアは両手に抱えた紙袋を適当なテーブルにどさりと置く。完全に予想外の来訪者にライカは不満そうに睨む。


「んだよ、急に」

「差し入れ。ずっと試合やってたからお腹減ったかなって」

「あたしこれから試合なんだぞ」

「知ってるわよ。ちゃんとミューナにも同じものと量を渡してあるから安心して」


 言いながらやはり無遠慮に、適当な椅子に座る。

 そこでようやくオリヴィアの顔を見る。頬がほんのり赤く、呼気から漂うのはうっすらとした酒のにおい。


「……酔ってるのか? おまえ」


 ふたりとも二十歳にはまだはやいが、書面上は成人している。二十歳以下の飲酒に関してはとくに禁止の条項はないが、とくに修練生たちはそれぐらい弁えているし大人たちも目を光らせている。さすがにこういうお祭りの場での飲酒を咎めるほど野暮ではないが。


「まあね。じゃなかったらこんなことしないわよ」


 むふん、と吐く息はほんのり酒臭い。

 だよな、とどこか安心した様子でライカは包みの一番上にあった焼きそばのパックを手に取る。ほんのり暖かい程度で、麺もソースもやや乾いている。輪ゴムで蓋といっしょに止めてあった割り箸を取って口を使って割る。腹が減っていたの事実なので軽い腹ごなしのつもりで食べることにした。


「言っとくけど、あたしこんなに食えないからな」

「大丈夫よ。残ったらミューナに食べさせるから」


 ああ見えてミューナは大食漢だ。

 普段の食事でも五人前は平気で食べているし、修練後なら十人前は軽く超える。ましてトーナメント戦のあとならこのぐらい軽く平らげてしまうだろう。

 なのにあのスリムな体型は、ライカでさえ少しずるいと思う。


「それより、ちゃんと試合やりなさいよ。ミューナ、すっごい楽しみにしてるんだから」


 いざ麺をたぐろうとしていた矢先に釘を刺され、箸を止めてしまう。


「う、わ、わかってるよ」

「またヘタレなとこ見せても、ミューナに嫌われるのはあんただからいいけどさ」

「お、おう」

「それで班の雰囲気悪くなってあたしの成績が落ちたらどうしてくれるのよ」


 本音はそこかよ、と思いつつも口をへの字にしただけで反論はしなかった。

 けれど言われっぱなしも悔しいのでこう返した。


「そんなに成績大事かよ」

「あったりまえでしょうが。あたしはあんたたちみたいに、ともだちや知り合い殴って殴られてそれでも笑ってられるほど神経太くないの」

「あ、あたしだって殴りたくて殴ってるわけじゃ」

「うそ言うんじゃないわよ。あんた修練やってる時、猛獣みたいな笑顔で殴り合ってるでしょうが」


 確かに修練の時、笑っている自覚はある。けれど、そこまで乱暴な笑顔だとは思っていなかった。


「でもよ、精霊たちと歌ったり踊ったりするのは、やっぱり楽しいんだ、よ」

「知ってるわよ。あんたに言われなくても、そんなことぐらい」


 乱暴に言ってオリヴィアも包みの中からひとつパックを取る。たこ焼きだった。鰹節もすっかりしなびて、ソースも少し乾いているが構わず爪楊枝で刺して口に放り込む。へにゃへにゃの食感にもめげずに咀嚼する。


「おまえも食うのかよ」

「あたしが買ったんだからあたしが食べるのよ」


 オリヴィアのこういう理不尽なまっすぐさが、ライカは気に入り始めている。


「それよりもさ、あんたなんでミューナとやるのそこまで渋ってるのよ。初日はあんなに楽しそうに殴り合ってたじゃない」

「そりゃ、あの時はあいつのことよく知らなかったからな」


 三個目を爪楊枝に刺しながら、オリヴィアは呆れたように返す。


「それ、あたしがさっき言ったことと同じ」

「あ? 全然違うぞ?」


 はああっ、と長いため息をついて、一気にたこ焼きを平らげてオリヴィアは乱暴に立ち上がる。


「じゃあね。気が向いたら客席にいるから」

「お、おう。ありがとうな。来てくれて」

「ばーか。酔っ払いの戯言よ」

「それでも、だよ」


 まっすぐに言われ、一瞬頬の赤みが増した、と思った刹那にはもう心底いやそうな顔に変わって。


「ぶわぁか。あんたなんかミューナにこてんぱんにされればいいのよ」


 そう言い残して、ぬるりと去って行った。

 残されたライカは、結局焼きそばに手を付けることもできなかった。


     *     *     *


「……先生……?」


 オリヴィアがライカの元を去った頃、ディルマュラは医務室のベッドで目を覚ました。ツンと鼻にくる消毒液のにおいは、彼女にもなじみのものだ。


「はい、先生ですよ」


 枕元の丸椅子で電書本を読んでいたクレアは、不思議そうにこちらを見るディルマュラへゆっくりと微笑みかける。

 ディルマュラは上体を起こしてクレアに視線を合わせ、すぐに自分の膝へと視線を移してつぶやく。


「……負け、ました」

「そうね」


 ひとことだけだったが、そこには深い慈しみがあった。

 

「やっと歌えたのに、やっとライカと同じ舞台に上がれたのに、最後の最後でぼくは油断しました。勝てると思い込んでしまいました」

「そうね。ライカは最後まで諦めなかった。相手を見下すことも、過度に恐れることもしなかった」

「……はい」


 そっとディルマュラと手を重ね、クレアは言う。


「確かに試合には負けた。でも、かっこよかったよ」


 師匠としての場当たり的な励ましでも、婚約者もどきとしてのひいき目でもないことは口調と瞳からしっかりと感じられた。


「そ、そんなことは、ないです。歌うことで手一杯で、精霊たちも困っていましたから」

「そう? ならまだ伸びしろがあるってことじゃない」

「……はい」


 これだけ言ってもまだうつむいたままのディルマュラから手を離し、ふぅ、と小さく息を吐いて。


「なによ。落ち込んでるの? 歌えたときはあんなにもはしゃいでたのに」

「いまのぼくでは、ライカに遠く及びません。それなのに、あと一年ほどで先生の足を動かすなんて、とても、」


 らしからぬ落ち込みに、クレアは困惑するやら苦笑するやら。けれどそれはおくびにも出さずに師匠として言う。


「あのね。マュラ」

「……はい」

「修練の初日にも言ったけど、ライカとミューナはもう十年近く精霊と歌って修練を重ねてきたの。あたしはその倍。精霊と歌った時間だけが強さに比例するわけじゃないけど、それでも要因のひとつにはなるわ」

 

 そんなことは、と言いかけた口を、そっと人差し指で塞ぐ。


「あなたは、見よう見まねではあったけど、ちゃんと精霊と歌った。精霊と歌えないひとは一生かかっても歌えない。歴代の神殿長には歌えないまま任期を終えた方も大勢いらっしゃるわ」

「……だから諦めずに修練に励め、と?」

「……ばか。あたしをお嫁さんにするんでしょ?」


 言って、顔をそっと近づけ、甘やかなキスを。

 その愛らしい鼻先に。


「……っ!」

「これは今日までがんばったご褒美。ちゃんとしたのが欲しかったら、あとはあなた次第よ。愛しのディルマュラ」


 すっと立ち上がり、顔を見せないように背を向け、できるだけゆっくりと、でも実際には相当な早足でミューナは医務室を後にした。

 静かに閉じたドアにもたれかかり、クレアは顔を両手で覆った。

 まずい。

 これは、かなりまずい。

 調子に乗りすぎた。

 根は真面目なディルマュラにあんなことをすれば、却って逆効果かもしれないのに。現に個人レッスンに呼んだ初日にあの子はそういうことを期待していたし、説得と称してああいうことまでしてきた。

 けれど、いま謝ったらもっとこじれるのは目に見えている。

 どうしよう。


「あ、クレアさま。そろそろ決勝開始の時間です」

 

 そんな感傷にひたる間もクレアには与えられなかった。

 顔から手をどけたそこには、もう神殿長としての彼女がいた。


「分かった。いまいくから」


 明日、ひょっとしたら今夜。あの子が押し倒してきてらちゃんと受け入れよう。

 それだけは、決意した。

 

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