第19話 暴風と薫風
ライカは怒っていた。
クレアが、この試合が制限なしになったそもそもの由来を説明しなかったことに対して、だ。
ライカからすれば、盛大に恥をかくつもりでいた。それもイルミナの前でならば後でお小言のひとつでももらえるだろうとすら見積もっていた。
それを邪魔された。それがまずひとつ。
自分でも子供の駄々みたいな怒りだと思う。
けれど、公表すればミューナにも、当然イルミナにも恥をかかせることになる。
ああそうかよ。
結局ミューナや神殿のことが大事か。
きっとそのうち中央神殿へ行くあいつの経歴とかそういうモノに、あたしみたいな野良犬あがりのツバなんか付けたくないんだろうし、神殿長やあんたのメンツを優先するんだろ。
ならいい。
試合を盛り上げろっていう約束も破る。
ディルマュラの体ががどうなったって構うものか。
「いくぞ」
その初動はクレアでさえ捉え損なった。
場に居る全員の視界から消えたライカは、ディルマュラの正面に現れて右拳を振り抜く。
「はいはいちょっと待った!」
受け止めたのはクレア。片手でライカの右手首を掴み、ねじり上げる。
「んだよ! 邪魔するな!」
粗野ではあるが決して下品ではない、というのがクレアによるライカの人物評価だ。そのライカが牙も殺意もむき出しでわめく姿は観客の大半は野獣を思い浮かべたが、クレアからすれば小型犬が吠えているようにしか感じない。
「やりすぎよ。こんな拳で殴ったらあたしのマュラが死んじゃうでしょうが」
「知るかよ! あんたが全力でやれって言ったんだろうが!」
もー、と駄々っ子に困り果てた母親のような声をあげて、
「言ったけどさ、ちょっとは加減とかしなさいよ」
「うるさい、離せ!」
はぁっ、とため息をついてクレアはライカのからだを高く振り上げ、腰からリングに叩き付けた。
リングが派手に砕け凹み、破片がクレアの顔の辺りまで飛んだ。
「がっ!」
ライカの様子など気にかけず、クレアはマイクを切って懐にしまって、ライカの両手首をひとまとめに掴んでからだを引き上げ、顔を自分の真正面に寄せる。
「あんたが何に怒ってるのか知ったこっちゃないけど、そんな状況じゃせっかく集まってくれた精霊たち怖がってさ、もう半分ぐらいが逃げちゃったじゃない」
クレアの言うように、あれだけ熱狂していた精霊たちはすっかり落ち着きを取り戻している。ライカに集まっていた精霊たちも同様だ。
なのにライカから怒気は一切消えない。
「うるせぇ。さっさと試合させろ」
「だめだってば。いくらなんでもエイヌとエイヌ王家に損害が出るのを見過ごせないわ」
「神殿にひとの世の理は関係ないんじゃなかったのかよ!」
「あんなの建前に決まってるでしょうが」
せめてそういう建前がなければ、王族と平民が同じ目的のために修練や仕事に従事することなどできない。
それは引き換えれば、どんな出自であっても他者に対して敬意を払うべきという当たり前の行為の規範でもある。
「んだよ、それ!」
「大体、起きそうになってる事故を未然に防ぐのは当然でしょうが」
「知るか、離せ!」
吊るされながらじたばたともがくが、クレアの拘束はまるで緩まない。
「ったく。なんでこういう意固地なところばっかり似るのかしらね」
言ってライカを吊り下げたまま振り返る。
「あのさマュラ、ライカこんな状況だからさ、ちょっと時間置いて……」
中断を持ちかけようとしたクレアの視線の先には、おもちゃをもらった子供のようにはしゃぐディルマュラの姿があった。
「やっと解った!」
「は?」
「精霊と歌うってそうやればいいんだ!」
目をらんらんと輝かせたディルマュラが熱っぽく叫ぶ。
「あのね、ディル」
「ずっとそれだけが解らなかった! でもやっと解った! いままでがんばってきたことは無駄じゃなかったんだ!」
ここで強引に試合の中断を宣言することは容易い。
けれど、自分はディルマュラの師匠だ。
いままさに才能を開花させようとしている教え子を妨害するわけにはいかない。
ライカを吊るしたまま、師匠として言う。
「ん。じゃあやってみなさい。間違ってたら訂正するから」
「はい!」
そっと右手を胸元に添えて、大きく息を吸いこむ。
解き放たれた歌声は、軽やかで繊細。
ライカの歌が荒れ狂う竜巻だとしたら、ディルマュラの歌は草原を渡る薫風。
試合の熱気にうかされ、ライカの歌で興奮しきっていた精霊たちが落ち着きを取り戻し、ディルマュラの元へ集まっていく。
「できたできたできた! これでいいんですね、クレア先生!」
ただのクレアと呼ばれたことに一瞬だけ驚き、そして力強く頷く。
「そうよ。あとは自分のまわりに精霊を定着させる術へ昇華させれば完成。術の名前は、」
「──
修練生を指導するようになって十年あまり。
クレアが歌い方を教えたことは一度もない。個人レッスンだってそうだ。
歌える者は入殿前から歌えるし、そうでない者は見よう見まねで勝手に覚える。
ディルマュラが初めてだ。個人レッスンをやることも含めて。
──なによもう。かっこよくなっちゃって。
最初に求婚された時は、子犬がじゃれついてくるだけにしか感じなかったのに。
「さあ、これで条件は同じ! ライカ、今度こそ全力でやろう!」
ま、これでもまだまだ全然足りないんだけどね──クレアの想いをよそに、ディルマュラは喜色満面で叫ぶ。
「……クレア先生」
いまのいままでクレアに吊り下げられたままのライカが、憮然と言う。
「なにかしら。ライカ」
「無礼なクチをきいてすいませんでした」
「ん。あたしもあんたに面倒くさい怒らせ方させたのは事実なんだし」
「だから、ディルマュラと試合をさせてください」
そう言ったライカの瞳に、怒りの色はほとんど見えなかった。
「ん。いちおう言っておくけど、この試合が制限なしになった理由なんてひと言で説明なんてできないし、そんなこといま来たばっかりのお客さんにはどうでもいいことなの。あたしがやったのは試合盛り上げるために端折った説明。わかるわね」
「……はい」
「ならよし、あたしもごめん。これで手打ち。いいわね」
「…………はい」
「ん。でもね、そういう大人への反抗心、忘れるんじゃないわよ」
「え?」
ふふ、と意味深に微笑んで、掴んでいたライカの両手をぱっと離す。浮かんだ驚きの表情はクレアの言動に対してだ。
マイクを懐から取り出すと客席に向けて叫ぶ。
『さて、会場にお集まりのみなさん! いまこうしてわたくしのかわいい弟子が歌を覚えました! 対するライカも落ち着きを取り戻し、ちゃんとした試合をやれる精神状態に戻りました!』
客席へ向けて大仰な手振りを付けて説明すると、それまで固唾を呑んで見守ってきた観客たちが一斉に沸き立つ。
『では、試合再開とします! 両者向かい合って!』
ディルマュラはそのままライカへ、ライカは一度客席へ向けて深くお辞儀をしてからディルマュラへと向き直る。
『それでは、はじめ!』
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