第10話 カツカレーとストロベリーサンデー

 結局その日、ミューナは寝室からは出てこなかった。

 食事を終えて戻ってきたライカも、なんだかんだぐずぐず零しながら寮から出て行った。あの様子では自宅にも戻らずに安宿にでも泊まるつもりだろう。

 というわけでオリヴィアが食堂へ向かったのは夜の十時を回った頃だった。


「はい、カツカレー大盛り。カツ大きいのにしといたから。あとサラダはおまけね。野菜もちゃんと食べるんだよ。スープはそっちに寸胴があるからそっちもちゃんと飲むんだよ」

「あ、は、はい」

「ん。遅くまでご苦労様ね」

「あ、ありがと」


 おばちゃんにカウンター越しに早口でまくし立てられながら、オリヴィアは美味しそうな湯気を立てる楕円の皿と、半ば押しつけられたサラダと自分でよそった、ベーコンの細切れの入ったオニオンスープを、一緒に渡されたスープカップに注いでトレーに乗せ、窓際の隅っこの席へ移動する。

 こんな時間にこんなハイカロリーなものを、と思うだろうが、毎日体力の限界まで体を動かしている修練生にすればこれでも足りないぐらいだ。

 移動しながらなんとなしに座席を見渡せば、こんな時間でも客はまばらにいる。酒を飲んでいる者もちらほら。薄くBGMもかかっているので、一人で食べるにはちょうど良い雰囲気だ。

 やがて狙っていた席に到着し、よいしょと座ってぱん、と手を合わせる。


「いただきます」


 誰も見ていないが、こういうクセみたいなものはやめられない。

 少しの気恥ずかしさを最初のひと匙と一緒に口の中へ押し込む。

 うまい。

 ご飯の固さ、カレーの辛さ、口の中でほろりと崩れるじゃがいもやにんじん。どれをとっても完璧だ。たっぷりと堪能してごくんと飲み込む。

 口の中に残った香辛料と、ルゥに溶け込んだ野菜や肉の香りも楽しみつつスプーンを皿に突っ込む。


「ここ、いいですか?」


 いきなり投げかけられた柔らかな声に、反射的に眉がぴくりと動く。

 食事を邪魔されたくない思いから無視しようかと過ぎった瞬間、その声の主を思い出して顔をあげる。


「し、神殿長……」


 ライカの育ての親にして風の神殿の最高責任者、イルミナ・フォーゼンレイムがそこに居た。


「だめですか?」


 困ったように問われ、仕方なくどうぞ、と促し、イルミナはありがとう、とこたえて正面に座る。

 

「席なら他にも空いてますが、ライカがお世話になってるオリヴィアを見て、ここにしました。私が喋りたいだけですから、聞き流してくれてもいいですよ」


 こういう姑息さはライカは持っていないな、と思いつつオリヴィアは苦笑する。


「じゃあ、そうさせてもらいます」


 食事を邪魔されたことへの苛立ちを少し乗せたが、これはジャブみたいなもの。

 マウントを取りたいわけではないが、年下だからと舐められるのも癪に障る。


「そうは言いましたけど、正直、なにを話せばいいか分かりません。……困りました」


 さすがに吹き出しそうになった。


「……ライカもよく、ノープランで突っ込んでいきます。いまはまだいいですけど」

「クレアもそのことをよく零しています。わたしが教えたことは精霊と歌うことだけです。そのぐらいなら、カンのいい子ならすぐに会得しますから」

「でも、あいつの歌は、」


 そこで何かに気づき、オリヴィアは口を噤む。


「ありがとう。オリヴィアに褒めてもらえるなら、あの子の歌はちゃんとしてるってことですから」

「あ、あたしべつに、褒めてなんか」

「多分、オリヴィアが一番ライカを俯瞰で見ていると思いますから」

「……」


 恥ずかしさと同時に、疑問も沸いてくる。

 このひとは神殿長だ。


「あの、あたしのこと知ってるのって、やっぱりライカが」

「違います。修練生全員、いいえ。この神殿に籍を置く方々、携わって下さる方々のことはできる限り把握するように努めています」

「全員、ですか」


 この風の神殿に務めるのは約一万人。さらにそこに関わる者の数など、オリヴィアには想像もつかない。


「はい。全員です」


 ウソでは無い。その松葉色の瞳に宿る光には、一点の曇りもない。

 少し腹が立つ。

 この年齢でこんな目ができるなんて。


「わたしは、責任者ですから」

「……そう、ですか」


 だからライカもあんな風に、と嫉妬と羨望の混じった感情が湧いてくる。でもそれを表に出すようなことはせず、オリヴィアは食事を再開した。


「今日のこと、聞きました」


 今度こそむせた。


「ああ、ごめんなさい。悪い意味ではありませんから」


 いいながら備え付けのウォーターポッドからオリヴィアのコップに水を注ぎ、差し出す。

 素直に受け取ってごくごくと飲み、はあぁ、と大きく息を吐く。


「だったらどういう意味ですか」

「大人は、少なくても私は、ですけど」

「……はい」

「いちいち言葉に裏を込めたりはしません。私はそんなことができるほど器用じゃないですし、仮に出来たとして、そんな面倒なことをしていちいちお腹の底を探ったりしても、良い関係は生まれませんから」

「……」

「ですから、今日のことも普段と変わらない、ただの修練として受け取りました」

「そう、ですか」


 呆気にとられたように返し、食事を再開する。

 またふたりに沈黙が訪れる。

 用が済んだなら早くどこかへ行って欲しいと思いつつスプーンを動かす。お陰で味があまりしない。勿体ない。

 ふふ、と笑うイルミナ。

 なんですか、と睨むオリヴィア。


「いえ。ミューナの才能は確かに秀でたものですが、いままでの神殿の歴史を振り返れば今日のことぐらいは珍しいものでは無いのです」

「先生も余裕たっぷりで見てましたから、そうなんだろうとは思いましたけど」

「けど?」

「精霊って、本当に安全な存在なんですか?」


 その思いはずっとあった。けれど、それをこの人に、それもほとんど初対面の相手に訊くなんて、どうかしている。

 口にした言葉を取り消せるとかの甘い考えは持っていないので、照れたようにオリヴィアはスプーンを握り直した。

 そのまま暫く沈黙があって。

 口を開いたのはイルミナだった。


「極端なことをいえば、そこにある水でだってヒトを殺めることはできます。要は使い方。けれど精霊たちはちゃんと意志のある生命だということだけは、忘れないでください」

「……はい」

「それに、オリヴィアも知っていると思いますが、精霊たちはこわいことがきらいです。私たちが精霊たちに力を借りるようになって二百年近くの間に、いちども精霊たちを使った騒乱や争いが起こらなかった、と言えば少しは安心してもらえますか?」

「いちども、ですか?」

「ええ。あくまでも記録上ですが、もしあったとしたら精霊たちがいまでも力を貸してくれる理由が見つかりません」


 柔らかく微笑むイルミナに、オリヴィアはこれ以上なにも言うことができなかった。

 そこでようやく、イルミナが注文していた品が届けられた。

 鼻腔を付く甘い香りに誘われて顔を上げたそこには。


「はい、おまたせ。ゆっくり食べるんだよ」


 金魚鉢と見紛う器に、よく崩れないなと感心するほどにうず高く盛り付けられたストロベリーサンデーを抱えた食堂のおばちゃんが居た。

 おばちゃんは金魚鉢を重そうにイルミナの前に置き、その隣に小鉢とスプーンも二組添えて苦笑しながら去って行った。


「なんですか、これ」

「贅沢です」

「全部食べるんですか?」

「もちろんです」


 宝物を前にした冒険者のようにまばゆく微笑むイルミナに、オリヴィアはおばちゃん同様苦笑するしかなかった。

 こちらの質問が無くなったのを待ってイルミナはスプーンを握り、小皿を片手に手早く分け取ってきれいに盛り付けてオリヴィアの前に置いた。


「え」

「私の話に付き合ってもらったお礼です」

「でも、」

「甘いのは、苦手ですか? あなたは乳製品や果物にアレルギーはなかったはずですが」

「い、いえ、そうじゃなくて」


 小首を傾げながら、子供のように問いかけてくるイルミナに根負けし、オリヴィアは皿を受け取った。


「じゃ、じゃああたしのも少しどうぞ」


 なんでこんなことで声が上擦るのか分からない。


「では遠慮無く」


 穏やかに微笑んで、小皿に手早くミニカツカレーを作る。

 静かに手を合わせて、いただきます、とひと言。

 そして花を生けるようにしとやかな動きで食事を始める。

 なのに表情はくるくると、それこそひと噛みごとに変わるので見ていて飽きない。

 そうだ、と思い出したようにオリヴィアも食事を再開する。

 そのまま無言で食事だけが進み、オリヴィアが食べ終え、イルミナが残り三分の一ほどまで食べ進めた頃、


「誰かと採る食事も、いいものです」

 

 ぽつりと、恐らくオリヴィアに聞かせるためでもない音量でつぶやいた。

 なので聞き返すことはせず、ただイルミナが食べ終わるのを座って待ち続けた。

 先に戻っていいですよ、と言われても、話をしてもらったお礼です、と返して。


 部屋に戻ってもまだミューナは寝室に引きこもっていたが、構わず自分のベッドに潜り込んでそのまま眠った。


 ライカが帰ってきたのは、朝。

 修練が始まるギリギリになってからだった。


「……ヘタレ」


 オリヴィアが呟いたのは、当然のことだ。

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