第6話 浴場にて

 結局ライカとミューナのケンカは、食堂で夕食が始まる直前に終わった。

 結果は、ほんの一呼吸だけ長く立っていたライカの勝利、ということになった。


「ったく、なんであたしが立ち会わなきゃいけないのよ!」


 ふたりに治癒の術をかけながら、オリヴィアは叫んだ。

 同じ班なんだから、と単位と引き替えにクレアに押しつけられるように修練場に残されていたのだ。


「あ、終わった? お疲れ様。ありがとうね、オリヴィア」

「いいえ。タダ働きならとっくに帰ってましたから」

「あなたのそういうところ、好きよ」

「そういうのは、あのオヒメサマに言ってあげてください」

「言ってるわよ。毎晩毎晩」


 別段驚きもせず、ただ軽蔑するような視線をクレアにやる。


「冗談よ」

「そうは聞こえませんでしたし、本当だったとしてもちゃんと仕事してくれればあたしはそれでいいですから」


 淡々と話すオリヴィアに小さくため息をついて、クレアはうつ伏せに倒れるふたりへ歩み寄り、右手をミューナへ、左手をライカに添える。


「──リョウ


 ふわ、と柔らかな風がふたりを包み、瞬く間にふたりは目を覚ます。


「あー……? ……んだよ。せっかく寝てたのに」

「……お母さん……?」


 はい、お母さんですよ、と答えてクレアは立ち上がり、もう一度オリヴィアに視線を合わせる。


「いい『療』だし、あなたが神楽宮かぐらぐうを志望してることも知ってるわ。でも、修練も組み手もちゃんとこなすこと。残念だけど、それ以外で成績付ける方法が無いこと、分かって」

「……はい」

「だいじょうぶよ。これでも教官やって長いんだから」


 何について話しているのか分からないライカは一度大きく伸びをして、どかりとあぐらをかいて深く頭を下げる。


「ありがとうな、オリヴィア。あたしたちのケンカに付き合わせて」

「だから、お礼を言うなって言ってんの!」


 怒ったように叫び、オリヴィアはずんずんと出口へと歩いて行く。


「お、おい?」

「ご飯に行くだけよ! 一緒のテーブルに来たらぶん殴るからね!」


 んだよもう、と呆れつつライカも自分の腹具合を確かめて立ち上がる。


「お前もメシにするか? ミューナ」

「い、いい。ひとりで、食べるから」

「……そっか。じゃあな」


 少しは解り合えたと思ったのに。

 けれど睨まなくなったのは、彼女なりの歩み寄りだと思うことにしてライカも食堂へ歩き出す。


 その後ろで手を伸ばしかけてやめたミューナの気配に気付くこともなく。



  *      *      *



 修練生やら神殿職員やらで賑わう食堂の片隅で、いつも通りのひとり食事を終えたライカは、なんとなく寮に戻る気になれず、風呂場へ向かった。


「やあライカ。今日は凄かったね」

「あ? ……なんだっけ、マュラ、だっけか」

「覚えていてくれて光栄だよ」

「なんの用だよ。あたしはさっさと風呂入って寝たいんだ」

「すまない。礼を言いたくてね」

「あ?」

「キミのおかげでひとつ指針ができた。愛しのクレア先生の心を射止めるためにはどうすればいいのか、はっきりと分かったよ」


 ああそうかよ、と頭をかいて、満腹から来る眠気もあってこんなことを口走ってしまった。


「あのひとたちはあたしたちの千倍は強いからな。たかが二年で半歩動かすなんて、」

「うん。それも含めて分かったんだ」

「……諦めるのか」

「まさか。愛しのクレア先生の目に留まり続けるためには、まずキミたちに追いつかなければいけない。だから覚悟しておいてくれ。秋分のお祭りで行われる組み手大会。ぼくはキミに勝利する、と」


 は、と笑ったのは決して侮蔑ではない。


「ああ、待ってるよ。あたしもミューナ以外に組み手やる相手が増えるのは嬉しいからな」

「そこで質問なんだが」


 まずい、とライカは本能的に察した。

 これは朝まで質問攻めされるやつだ。


「あ、あたしなんかに聞くより、クレアさまに聞いた方が早いんじゃねぇか?」

「いや、キミとミューナは十年間手ほどきを受けているそうじゃないか。それも愛しのクレア先生やイルミナさまから直接」

「あ、いや、まあそうだけどよ」

「だからキミにだって十分教えるだけの、」

 

 ごんっ、と重い音が響いた。

 頭を抑えてうずくまるディルマュラの後ろには、黒髪艶めくシーナの姿があった。


「マュラ、いい加減にしなさい」

「痛いじゃないか、シーナ」

「強くなりたいのはみんな同じ。自分だけ抜け駆けしようだなんて、エイヌ王族の恥」

「それを持ち出されると辛いな。すまないライカ。困らせてしまった」

「あ、いやいいんだけどよ。あたしも人に教えられるほど頭良くないから、どっちにしても役には立てないと思うぞ」


 ディルマュラは意外そうに目を丸くする。


「キミは、キミ自身が思っている以上に惣明だよ。でなければそんな美しい瞳であるはずがない」

 

 す、と顔を寄せられ、耳元で囁かれて。ライカの顔がその深紅の髪以上に赤くなっていく。


「な、なにばかやってんだ! お前は、クレアさまが!」

「クレアは后にしたい。でもキミと一夜の、」


 またも鈍い音がディルマュラの頭から鳴り響く。


「すまないライカ。この尻軽にはあとできつく言っておくから」

「お、お、おう。な、なんつーか、その」

「いい。ムリしなくても」


 曖昧に返事をするライカに、ディルマュラは微笑みかけながら言う。


「ともあれいまは風呂に入ろう。特にキミはいままでミューナと闘っていて疲れているのだろう?」

 

 オリヴィアとクレアの術と、腹一杯の食事である程度は回復したが、からだの芯にはまだ疲労が残っている。

 

「だから、浴槽で眠ってしまわないよう、ぼくたちが見張ってあげるよ」


 なにやらイヤな予感はするが、確かに眠気もある。

 風呂場で溺れたなんてあの人が知ったらどう思うか、と考えたら答えはひとつだった。


「や、やらしいことするなよ」

「心配しなくても、公衆の面前で変なことはしないよ。約束する」

「この尻軽の監視は私がやるから、安心していい」


 そうか、と安心はしたが、別の疑問も浮かぶ。


「なんで、あたしなんかの面倒見るんだ?」

「キミは、ライカとミューナはぼくに素晴らしいものを見せてくれた。その礼だと思ってくれていい」

「あたしは、ただケンカしてただけだよ。あんたたちに何かしてやれたとは思えない」

 

 ふふ、とディルマュラは微笑みかけ、


「そう思うのは、キミだけさ」


 ぽん、とライカの肩を叩いて浴室へと向かった。

 その姿が昨日のオリヴィアの姿となぜか重なって。


「……んだよ、どいつもこいつも。あたしが子供みたいじゃねぇか」


  *       *       *


 ディルマュラたちととりとめの無い話をしながらゆっくりと風呂に入り、心地よさと疲労で数度寝入りそうになりながらもふたりのお陰で溺れることなく三人はそれぞれの部屋へ戻っていった。


「お帰り。遅かったじゃない」


 軽く片手を上げながら迎えたのはオリヴィア。ベッドに腰掛け、枕元にトレーとその上の木製ボウルに盛り付けたせんべいを頬張りながら軽く手を挙げていた。


「風呂入ってたからな」

「カラスの行水のあんたが珍しいわね」

「ディルマュラたちがしっかり肩まで浸かれってうるさくてな」


 二日前の、伝達から風呂までの一件以来、オリヴィアは自分から話しかけてくるようになった。

 急な態度の変わりように戸惑いはしたが、意地を張る必要も無いと思ってそのままにしている。


「なにそれ、あんたあのオヒメサマと一緒だったの?」

「まあな。寝落ちしそうになってるのを何度か起こして貰った」


 へぇ、とまじまじと見つめられ、ライカは視線を外しつつこう言った。


「……なぁ、あたしって子供かな」

「そういうこと訊く時点で子供よ」

「それもそうか。悪い。変なこときいた」


 そのままどさりと自分のベッドにうつ伏せに倒れる。

 顔だけをオリヴィアに向け、


「ひょっとしてあたしが帰ってくるの、待ってたのか?」

「まぁね。カギ閉められないし」

「悪いな」

「いいわよ。あんたたちほど疲れることしてないし、まだ八時だから寝れないからラジオ聞いてたし」


 せんべいボウルの脇には小型ラジオ。オリヴィアの右耳にはラジオと繋がれた無線イヤホンが付いている。

 寮にテレビは無いがラジオや音楽プレイヤーは持ち込みが許可されているので、こうしてひとりの時間を楽しむ者も多い。


「ラジオはいいわよ。ごちゃごちゃしてないし」


 そうか、と今度はミューナに顔を向ける。

 すやすやと寝息を立てるミューナの顔をじっと見ていると、なぜか胸が高鳴る。

 これは今日のケンカを思い出しての興奮から来るものではない。


 すごく、きれいだ。


 十年前イルミナに拾われてからずっと、自分が強くなることばかりを考え、実行するだけの日々を過ごしていた。

 他人の顔を見る余裕なんて無かったし、化粧もしないから自分の顔だってろくに見ていない。

 だから、とは思えない。

 こんなきれいな顔を、自分は容赦なく殴っていた。

 組み手ではなく、ケンカと定義した状況で。


 それはつまり、自分が、あのクソみたいな大人が自分にやってきたことをやったということ。

 自分の容姿をきれいだとは微塵も思わないが、ミューナは違う。

いまでも、傷跡なんかあの人が消してもらっているのに、あのクソ共に殴られ蹴られした箇所が、なにより心が痛むことがある。

 あのひとに拾われて育てて貰って、大人への見方が少しは好転したのに、自分は。


「……あたしも、結局……」


 そのつぶやきはオリヴィアの耳にも届いた。

 ライカには気取られないよう、小さくため息をついて。


「本人が言ってくれって言ってたから一応言っとくけど、ミューナはね」


 後頭部に投げつけられた名前に、ライカの全身がびくん、と撥ねる。

 振り返る度胸も、ミューナの顔を見続ける根性も失せたライカは、布団に顔を押しつけてしまう。


「な、なんだよ」

「組み手、楽しかったって。全力出してくれて嬉しかったって」

「う、ウソ言うな」

「こんなことでウソつくほど親切じゃないわよ、あたし」

「じゃあなんで」

「頼まれたことを伝えただけよ」


 何か言い返そうと思ったが、結局睡魔の誘惑にはあらがえず、どうにか顔だけをオリヴィアに向け、


「悪い、寝る」

「ん。子守歌ニンナンナ歌ってあげようか?」

「なんだよそりゃ。……別に、お前が歌いたかったら歌えばいいだろ?」


 残った力を振り絞って意地悪く口角を上げてみせるライカ。

 ふぅん、とオリヴィアも挑発に乗り、自信たっぷりに言う。


「じゃあ歌ってあげるわ。愛も感情も欠片だって込めて無いけど、上っ面の技術だけは完璧なヤツをね」

「ほんっと、口の減らねぇやつだな……」


 実は、ミューナとのケンカの後、オリヴィアが施してくれた治癒の術は、クレアのものよりも気持ちが良かった。

 けれどこんなことを言うときっと生涯からかってくるだろうから、ライカは厳重に箱にしまって鍵をかけて心にしまった。

 けれどいま部屋を包むオリヴィアの歌声はそのときよりも心地よかったのだが、この気持ちの処理を決める前にライカの意識は、深い眠りの底へ落ちていった。

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