10.竜の要塞最前線異常なし①

「で」


 かちん、と。

 駒の一つを進めてから――ついでにその一手で彼が長考の末に繰り出した会心の一手を叩き潰しながら、少女が言う。


「何の話をしてたんでしたっけ?」


「……他の探索者の話だよ。スキル持ちの」


 長い長い長い長い思索の末に閃いた一手が、ほぼノータイムで差された一手に粉砕され、完全に打つ手が無くなった探索者の男は全てを諦めることにした。

 たかがゲーム。

 必死になって足掻いてもしょうがない。

 と、その「たかがゲーム」でちょっと泣きそうになっている自分の心から必死で目を逸らしつつ、思考を放棄して適当に駒を進める。


「『墓穴』って呼ばれてる、最強のスキル持ちの話だ」


「ほほう」


 と頷きながら、少女は駒を即座に進める。適当に進めた駒の隙間から、少女の駒がこちらの陣地に潜り込み、彼の指揮官の命運を的確に絶ってきた。容赦がない。

 かたん、と。

 彼は自分の指揮官の駒を倒して負けを認めつつ、話を続ける。


「何でも、一言つぶやくだけで竜でも殺せるらしいぜ」


「へー、それはすごいですねー」


 何やら棒読みっぽい少女の口調がちょっと気になったが、それよりも視界がぼやけて目頭が熱くなっていることの方が問題だった。

 やばい。泣きそう。

 目頭を手のひらで覆い、鼻声になりそうなのを必死でこらえつつ、彼は言った。


「ああ、絶対関わりたくねーよ」


 探索不可と認定されたダンジョン「竜の要塞」の最前線監視基地内部。

 その深夜。

 ランプの灯りが、彼と、少女と、机と椅子と、二人の間に置かれたボードゲームを照らしている。


 地下に建設されているこの基地から、そのまま塹壕を伝っていけば、例の監視位置に辿り着く。今晩も別の連中が寒さに凍えながら深夜の監視任務に就いている。

 が、それとは別に、当然、基地の方でも夜中に対応できる人間が必要だ。何かが起こったとして、全員寝ていて何もできないまま全滅した、では話にならない。起きていても何もできないまま全滅する気がするが、それについては考えないことにしている。


 そんなわけで今日の当番は彼だ。これは特に問題ない。ごく普通に順番が回ってきただけである。


 問題は、目の間の前の少女だ。

 竜じいの持っている例の旅行鞄からひょっこり出てきた。

 しかも、今晩に限ったことではない。

 彼が当番の日には毎度現れる――あの竜たちの鳴き声を聞いた日から。毎回だ。


「どういうつもりだ?」


 と、恐る恐る尋ねた彼に、少女は言った。


「暇なんですよ」


 おい、大丈夫か。

 と思う彼に対し、少女は超可愛い笑顔で小首を傾げて言った。


「――ひみつにして下さいね?」


 結果、言われるがままに秘密にしているわけだが、それには理由が二つある。


 一つ、笑顔の裏に口を割ったらタダじゃおかねえぞ、という意志が透けて見えた。


 そしてもう一つは――正直、こちらの方が大きいことは認めざるを得ない――単純に、彼女がすげー可愛かったから。


 何たってこの前線基地は――良い意味でも悪い意味でも性別で区別しない気風のある探索業界としては珍しく――女っ気のない野郎ばかりの場所なのだ。


 知り合いの助言に従って、ちょっとアレな雑誌を数冊持ち込んだが、まあ焼け石に水だった。彼のタイプは年上のグラマーな女性(ちなみに、例の協会員の女性がまさにそれだった。どストライクだった。騙されないわけがなかった)で、目の前の相手はそれとは完全に真逆だったが、それでもぶっちゃけ目の保養になった。何かの拍子にちらりと見える白い肌にどきりとして、おいガキかよ、と自分で自分に呆れるはめになった。


 もっとも、そうなると今度は逆にというか、当然というか別の問題が発生する――というか、発生しかねないわけで、自分が聖人君子でないことを知っている彼は恐る恐るその問題について指摘した。


「その場合は」


 と、微塵も揺るがない笑顔で少女は言った。


「すぐさま首根っこ引っ掴んで、『連中』迎撃距離内に放り込んで差し上げますので、ご安心を」


 連中、こと竜の要塞を守る竜たちは基本的には不動だが、例の監視地点から少しばかり先に立てられた旗の先、それを超えた一定の距離に入るとすぐさま迎撃してくる。つまりはまあだいたい死ぬ。


 全然安心できない。


 が、仮にそういうことになった場合、確かに死んだ方がマシな気もしたので、よろしく頼む、とお願いしたところ「変な人ですねえ」とくすくす笑われた。お前ほどじゃねえよ、という言葉は飲み込んだ。


 ともあれ、結果として、夜の当番のときに彼女は鞄から抜け出してきて、基地に大量に持ち込まれ放置されていった暇つぶし用のゲームで彼と遊んでいる。

 ちなみに、ほぼ彼の全敗である。酷い。


 彼は時計の針を見た。まだ、夜は長い。


 魔術者たちが設置して、整備点検を行っている暖房設備は適切に作動しているらしく、監視基地の内部を人間が死なない程度の温度に保っている。


 つまりは、まだ結構寒い。


 寝ている連中は分厚い防寒装備を着たまま固いベッドの上で寝ているし、彼も同じく防寒装備に身を包んでいる。

 対して、目の前の少女は見慣れない服の上からコートを一枚羽織っているだけだ。

 何でそれだけで平気なんだよ、と彼はちょっと思うが、鞄の中に入っているこの少女の生体については、彼はあまり深く考えないようにしている。

 ついでに、襟元から微妙に覗く白い首元だとか、コートの下のスカートの下からちらちら見えるちょっと赤みが差した膝だとか、そういうあれこれを根性でねじ切って思考の外に追い出していると、


「それにしても」


 彼女は彼を再び完膚なきまで叩き潰すべく、駒を並べ直しながら言う。


「どこでも、その手の話は語り草になるものなのですね」


「そりゃあ、それくらい強い奴がいるなら噂にもなるだろうよ。それこそ、そいつならこの『竜の要塞』だって攻略できるんじゃねえか?」


「かもしれませんねえ」


 かちん、と。

 駒を並べ終えて、少女が言う。


「では、もう一度お願いします」


「……なあ、こんなことを言うのはみっともないことは重々承知しているんだが、一ついいか?」


「なんでしょう」


「手加減とか……」


「してますよ」


「これでか……」


「完全解使ってないですから」


「何だそれ」


「必勝法です――では、貴方の先行でどうぞ」


      □□□


 懐かしい夢を見た。


 懐かしいことだけを覚えていて、中身は思い出せない。そんな夢だ。最近、よく見るようになった。そろそろだな、と「竜じい」と他の探索者から呼ばれている老人は冷静に思う。


 乾いた眼球を開いた。

 視界は真っ暗なまま。

 先に視力が逝ったか。


 一瞬そう思ったが、単に真夜中なだけらしかった。この齢になると、めちゃくちゃな時間に目覚めることもおかしくない。


 あるいは、と傍らを見る。

 彼の旅行鞄が開いていた。


 今晩の夜勤の担当者が、例の青年であることを思い出し、やれやれまたか、と老人は思う。


 理由はわからなくもない。


 ここに派遣されている彼女が彼女になったのは第四次攻略戦後のことであり、それ以来、老人は彼女のことを文字通り箱入りにしたまま放置していた。

 悪いことをした、とは思う。

 彼女たちは、特殊なデータリンクで分体間の情報を共有し同期しているが、それでも、長い時間を過ごせば微妙なズレが生じる。言い方を変えれば個性が生まれ、別個の意思を持った存在になる。人間とは違ってそれが可能な精神構造を持っているからと言って、箱に入れられっぱなしでうんざりしていないわけがない。


 分かってはいたが、無理だった。


 昔の若い頃の自分なら、、甘っちょろいことは考えもせず、彼女を利用しようとしただろうに。



 老人は緩く目を閉じて、数秒掛けて、脳神経に埋め込まれたチップを起動させる。昔なら、瞬時にできた技術で、瞬時にできなければならなかった技術。それがここまで遅くなったのは、チップが劣化したか、脳が劣化しているのか――たぶん両方。


 それでも使えるだけマシではある。ただ意識するだけで電子機器を操作できる、と謳われたこの技術は、極めて特殊かつ高度な訓練と、何より適性が必要とされる。大抵の人間は三本目の腕を動かすことをイメージすらできない。それと同じことだ。


 脳内に呼び出したアプリケーションの群れから、聴覚系のアプリを起動。耳の中に埋め込まれている集音装置を作動させる――要するに盗み聞きをする。


 もしあえぎ声とか聞こえたそっとしといてやろう、と思いつつ、会話に耳を傾けると、特に色っぽいことはなく、ボードゲームをやっているだけのようだった。


 ――何だつまらん。


 そう思いつつも、まあそうだろうな、と老人は思う。彼女もだいたいそんな感じで――そこで彼は思考を打ち切った。特に問題のあるあれやこれやをしているわけでもなさそうだし、さっさと眠ってしまおう。


『私のかつて戦っていた場所でも、やっぱりそういう噂話は広まってましたね。「当たらずの轟」とか「熊使い」とか「動く殲滅」とか――』


 どれもこれも懐かしい名前だと思った。


『あとは、「幽霊」なんて呼ばれて恐れられていた最後まで正体不明の兵器も――』


 それも随分と懐かしい名前だ。

 なんせかつての部下の異名だった。

 そう思いながら、老人は盗み聞きをやめ、もう一度眠るべく目を閉じた。

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