5.最強さん、溺れる。

 ぷつぷつ、と水の中に大量の泡が生じ。

 浮かんで弾けては消えていくのを見る。

 水滴の付いた冷えたコップの外側から。

 彼は生まれては消えていく泡を眺める。


『先輩?』


 顔を上げると彼女がこちらを見ている。


『そんなに珍しいです? ソーダ水?』


 と、ポニーテールを揺らし彼女は言う。


 彼女の前には先程運ばれてきた飲み物。

 氷入り。魔術設備を入れている喫茶店。

 ぱっと見、ただの透明な水のようだが。

 しゅわしゅわ、と泡が生じ消えている。


『別に。初めてみたってわけでもねえし』


 と言って彼は自分が頼んだお茶を飲む。


『先輩も一口飲みます? 甘いですよ?』


『いや……要らない』


『あ、もしや間接キスを気にしてます?』


『苦手なんだよ。その……しゅわしゅわ』


『えー』


『何だよ悪いかよ。しょうがねえだろう』


『これが良いんじゃないですかー。もー』


 こくり、と彼女が一口飲み喉を鳴らす。

 きらり、と射し込む光が氷を煌めかせ。

 からん、と氷が鳴る音が涼しげに響き。

 とんっ、とそして彼女がコップを置く。


『どうしました? 私のことじっと見て』


『別に何でもねえよ』


『あ、もしや好きになっちゃいました?』


『アホ』


『先輩は可愛いですねえ』


 と言って彼女は頬杖を突いて彼を見る。


『ねえ先輩、今度遊びに行きましょうよ』


『唐突だな。どこに連れて行くつもりだ』


 それはですね、と無駄に溜めて彼女は。


『山です』


『何で?』


 と思わず彼は素で尋ねた。脈絡がない。


『いやー。最近、暑いじゃないですかー』


『まあこの辺はな』


『私、暑いの苦手なんで。涼みたいです』


『だったら竜の要塞にでも行って来いよ』


『寒いのも苦手なんです。なので山です』


『言いたいことはわからんでもないけど』


『っていうか、私、山育ちなんですよー』


『へえ。そうなのか。そいつは初耳だな』


『なのでたまに下界から山に戻らないと』


『お前その言い方はたぶんカドが立つぞ』


『山の頂から見る下界のちっぽけなこと』


『やめろ。山育ちの人が偏見持たれるぞ』


 それとですねえ、と彼女は話を続ける。


『泳げる川あるんで一緒に泳ぎましょう』


 妙なポーズを取り似合わない投げキス。


『先輩に私の水着姿を披露してやります』


 その話に対し彼は言う。超速の即答で。


『嫌だ』


『はい?』


 その即答に彼女は小首を傾げてみせた。


『嫌だ。山の方はともかく俺は泳がない』


『ええっと……。んー……?』


 彼女の傾げた首の角度がさらに傾いて。

 そのまま限界まで傾き切ったところで。


『あのですね、その……先輩』


『何だ』


『違ってたらごめんですけど』


『ああ』


『先輩、泳げないんですか?』


『…………』


 彼は、冷たいお茶を一気に飲み干した。

 微妙に震えている手でコップを置いて。


『お前アホか。そんなわけがないだろう』


『先輩。誤魔化せるわけないですよそれ』


『お前は本当にアホだな。証拠あんのか』


『今の先輩の態度が最大の証拠です……』


 だらだらと冷や汗を流す彼を見て彼女。

 片手で顔を覆って天を仰いで、告げる。


『うわあ……ええー、まじかよ。こいつ』


『おい。今お前、こいつって言ったか?』


『先輩本当に最強のスキル持ちですか?』


『黙れ。別に泳ぐ必要がなかっただけだ』


『子どもの頃に、川で遊んだりとか……』


『ねえな』


 彼は昔を思い出し視線を少し伏せかけ、


『俺は他の馬鹿なガキとは違ったからな』


 すぐさま視線を元に戻してこう言った。


『勉強したり本読んだり忙しかったんだ』


『あのー……それって言い訳ですよね?』


 と、彼女は容赦なく彼に対して言った


『ただ友達いなかっただけでしょ。先輩』


 ぴしり、と人差し指を突きつけられた。


『俺は』


 彼は時間稼ぎのためコップを手に取り。


『別に』


 それが空になっていることに気づいて。


『一人で』


 舌打ちをしてから空のコップを置いて。


『構わなかっただけだ――今でも同じだ』


 そして刺すような視線を彼女に戻した。


『でしょうねえ』


 混ぜっ返すか説教されるかと思ったが。


『だって馬鹿みたいに強いですし。先輩』


 拍子抜けするほどあっさりと言われた。


『でも、先輩。私はそんな強くないので』


 くるり、とコップを手に取り軽く回す。


『ですから、一緒に来てくれませんか?』


 からん、とソーダの中の氷が音を立て。


『……ああ、わかったよ』


 と、観念したようにそう呟く彼に対し。


『そりゃ、よかったです』


 にっ、と瞳を細めて笑ってそう言った。

 ぷつぷつ、と揺らしたソーダが泡立つ。


『ついでに、泳ぎ方も教えてあげますよ』


『要らねーよ』


『まあそう言わず私が手取り足取り――』


 コップの外側から彼は泡を眺めていて、


      □□□


 直後に、それが内側にひっくり返った。

 少し濁ってる、ソーダの泡の群れの中。

 コップの内側で、彼は必死でもがいた。

 ソーダの癖に何故かやたらと塩っ辛い。


 違う。


 ぱちんっ、と脳みそが機能を回復した。


 今は探索中で、自分は海に逃げ込んだ。

 ここは、その飛び込んだ海の中であり。

 消える泡は自分の口から洩れ出た空気。

 つまるところ、自分は溺れかけている。


 とっさに手足を動かし沈むまいとして。

 そもそもどっちが上か下か分からない。

 脳は復活したが、未だに混乱したまま。

 運が良く、一瞬だけ顔が水面から出た。


 とはいえ、それだって長くは続かない。

 一呼吸分の空気を吸えるか吸えないか。

 その程度の時間でまたすぐ身体が沈む。

 あっという間にコップの内側へ逆戻り。


 が、そのほんの直前に、声が聞こえた。


「――先輩っ!」


 ほんの一瞬幻聴を疑ったけれど違った。

 「彼女」の声でない。メトの声だった。


『いいですか、先輩。まずは落ち着いて』


 でも、その言葉に引っ叩かれたように。


『人間は水に浮くようにできてるんです』


 前に言われたことを脳みそが思い出し。

 無茶苦茶に動かす手足の動きを止めて。

 貴重な酸素を吐き出し続ける口を閉じ。


『ですから、まずは、身体の力を抜けば』


 そして、彼はそっと身体の力を抜いた。


 沈んだ。


 ――あれ? 話違くね?


 そう思った。一応冷静にはなった頭で。

 その答えはすぐに出た。探索用の装備。

 確かに人間の身体は水に浮くのだろう。

 ただし衣服や荷物が付いてるとまた別。


 あるいは浮いたり浮かなかったりする。

 今回は浮かなかった。誠に残念ながら。

 肺に残る最後の酸素が口から泡になり。

 沈む彼の代わりに浮くのを片目で見て。


 直後。


 横からやってきた何かが、彼を捕えた。

 サメかな、と思ったが別に痛みはない。

 確認するより先にそのまま海面に浮上。


「ちょっと先輩! 何沈んでるんです!?」


 海水を吐き酸素を必死で吸い込みつつ。

 確認するとサメじゃなくてメトだった。

 装備はほぼ同じ。が、普通に泳いでる。


「……どうして、お前は浮いてるんだ?」


 思わずそんな言葉が口を突いて出たが、


「はぁ!? すいません聞こえねーです!」


 と怒鳴り返され彼はそのまま黙り込む。


 もちろん、その理由は明白だったから。

 メトは泳げる。

 彼は泳げない。

 ただ単にそれだけの理由。明白過ぎる。


「岸はすぐそこです! 行きましょう!」


 怒鳴られながら彼はメトに曳航された。

 人工物で作られている埠頭に辿り着く。

 岸によじ登ったときには虫の息だった。


「……何でお前、こんなに泳げるんだ?」


「あー、私、海辺の町の出身らしいんで」


 ヘルメットに溜まった海水を捨てつつ。

 返ってきたメトの答えに微妙な違和感。


 ――らしい?


「っていうか、その、あのですね。先輩」


 そんな彼を冷たい目で見下ろしてメト。


「泳げないんですか?」


 彼は全力で視線を逸らしつつ、言った。


「装備がなければ、浮くことならできる」


「つまりは要するに、泳げないんですね」


「……泳げない」


「おいこら最強」


「言いたいことはよくわかるが落ち着け」


「どこの世界に溺れる最強がいるんです」


「ここに」


「もう黙ってて下さ……リィルさんは?」


 確かに彼の肩に元右手は見当たらない。


「あー、たぶん一緒に海に落ちたんだろ」


「大変じゃないですか! 助けないと!」


「いや、あの人の場合は心配ないと――」


 ぱしゃっ、と。

 近くの海面から何かが飛び出してきた。

 ぴちぴち、と。

 そいつは彼とメトの間に落ちて跳ねた。


 虹色に煌めく鱗をその身に纏っている。

 ただの、小魚。

 ぴちぴち、と。

 コンクリートの上でもう一度跳ねると。


 ぐにゃり、と。

 ただの魚だったものが、その形を失い。

 きらきらと輝く泥のようなものになり。

 瞬きする間に。


『お二人とも』


 手の平サイズのセーラー服の美少女に。


『ご無事だったようですね』


 平然と聞いてくる魚だったはずの相手。


「リィルさんも無事で良かったですよー」


 と、こちらの方も平然とメトが言った。


「ずぶ濡れになっちゃいましたけどねー」


 防護服の高い防水性能にも限度がある。

 まあ普通に、上から下までずぶ濡れだ。

 バックパックの中身は無事だと思うが。

 海水を捨てたヘルメットを頭に被って。

 袋に入れていた銃を取り出しつつメト。


「あと先輩が溺れて死にかけてましたよ」


 余計なことを。


『うえぇっ!?』


 とリィルが驚いたように彼を見上げる。


『グレイくんて泳げなかったんですか!?』


「ええと……泳げないです……はい……」


『前泳げるって言ったじゃないですか!』


 確かに言った。思いっきり嘘を吐いた。


『何でそんな嘘を吐くんですかもおー!』


 そりゃ恥ずかしいからに決まっている。


 ぎゃーぎゃー、と言われる小言を無視。

 後は魚だったことにも触れないでおく。

 元が右手だ。深く考えるべきではない。

 彼は彼女を拾い上げ、肩の上に乗せる。


 濡れた防護服が重い。インナーも同様。

 天候は晴れ。たぶんすぐに乾くだろう。

 が、海水なので恐らくは塩漬けになる。

 微妙に暗い気持ちになりつつも尋ねる。


「で、今から俺はどう動けばいいので?」


「正面突破して下さい。いつも通りです」


「了解。いつも通りに」


「でも、その前に――」


「先輩、」


 リィルが言い終わるより先に、メトが。

 そして彼女が告げるより先に、水の音。

 ばしゃん、と小魚よりは少し大きい音。


 直後に、彼らの頭上を影が通り抜けて。

 とっさに見上げた彼の片目が見たのは。

 その影が振り捨てていった水飛沫だけ。

 影はすでに近くの建物の壁に着地して。


 ぎぎぎ、と錆付いた機体が軋みながら。

 潜水の為に閉じていた排熱機構を解放。

 同様に錆び付いた顎がぎこちなく開き。

 やや動作の怪しい発射機構が展開する。


 それでも、なお、この場の誰より早く。


「竜が、」


 メトが続きの言葉を終えるよりも先に。

 彼の視線がそいつを捉えるよりも先に。

 頭上の水飛沫が落ちてくるよりも早く。

 その連中が誇る、最大の攻撃を放った。


「――」


 瞬間、彼が発した声をかき消すように。


 ブレスの光が、

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る