21.「竜」たちの話。
唐突に動いた12体の「竜」は全員が揃って空の同じ方向へと頭を向けた。
その状態のまま、動きを止める。
呆然として言葉を失ってしまった彼の手から、隣の老人が「貸せ!」と言って通信機を取り上げ、『おい、何があった!?』と悲鳴じみた叫びを上げている監視基地の連絡員に「『竜』が動いた」と簡潔な事実を告げる。
その瞬間、通信機の向こうから連絡員の悲鳴が聞こえたが「落ち着け!」と老人は一喝して「こっちに向かってきてるわけじゃない――仕掛けてくるつもりじゃなさそうだ」と続け「たぶんな」と付け足す。
「だが、『連中』がここからどう動くのかは見当が付かん――状況次第でいつでも動けるように、戦闘準備と覚悟だけは決めておけ」
老人は通信を切ると、旅行鞄の上に置いてあった酒瓶を乱暴に払いのけ、
「おい、そこの若いの」
と、まだ呆然としたまま動けないでいる彼に向かって、
「こいつは口外無用だ。黙っとけよ」
そう言って老人は旅行鞄を開けた。
にょき、と。
旅行鞄の中から人間が一人生えた。
そういう風に、彼には見えた。
女の子だった。
この一帯に降り注ぐ雪みたいに真っ白な肌の、ぶ厚い雲を通り抜けた微かな光を受けて煌めく金髪の、とびっきりの美少女で――ついでに何か変な服を着ていた。
立ち上がったところで、少女は目を開いた。まず自分が入っていた旅行鞄を開けた老人を見て、それから背後にいる彼を見て、それから言った。
「緊急事態ですか?」
「微妙だが」
と、老人が答える。
「異常事態ではある。『連中』が妙な動きを見せた。ちょっと確認しろ。リィル」
「ふむ」
と言って、少女は「失礼します」と突っ立っていた彼を押しのけるようにして塹壕から顔を出し「竜」たちの姿を確認する。
もちろん、彼は知らない。
あのサイズの旅行鞄の中に女の子が詰め込めるものなのかどうかも、そもそもそれで生きてられるものなのかも、少女の着ている変な服がセーラー服だということも、その少女と全く同じ外見と名前の少女が、全然違う場所で湯呑でお茶を飲んでいるということも。
まったく、何も知らない。
だからごく単純に、めっちゃ寒そうな格好だな、とだけ彼は思った。
同じことは老人も思ったらしい。
明後日の方向を向いたままの「竜」たちを見て「ふむ」と頷いている少女に対し、
「……その服装、何とかならんのか」
「私は平気ですが」
「見てる方が寒い。さっさと変えろ」
「ですか」
ひょい、と少女が手を翻す。
まるで宙から引きずり出したように、その手の中に分厚いコートが出現した。
「え?」
と、意味不明のその光景に、彼が声を上げる間にも、さらに少女は、ひょい、ひょい、と青色のチェックが入ったマフラーやら、もこもこした帽子やら、黒のストッキングやらを宙から取り出し、それらを身に着けていく。
「え? え? え?」
ひたすら混乱している彼のことは無視し、老人は少女に対して呆れたように言う。
「……また回りくどい変え方を」
「だって、このくらいじゃないと刺激が強すぎるでしょう。そちらの彼には」
と、少女はストッキングを履きつつ、そう口を尖らせ、いきなり彼の方を向いて、
「ね? そうですよね?」
と、同意を求めてくる。その笑顔は素敵だったが、しかし、そんなこと言われたって何がなんだかよくわからない。位置関係の都合上、彼女の下着の色が青だったことはわかったが、そういうことではたぶんない。
実際、本気で返事を期待していたわけでもないのだろう――何も言えない彼を完全に置いてきぼりにしたまま、老人と少女の会話が続く。
「若造で遊ぶな。リィル」
「私も女の子ですよ?」
「見た目だけだろうが――いいから状況を説明しろ。『連中』は何やってんだ?」
「ちょっとわかりませんね」
「おい」
「わかりませんよ。あの方々は普通の『竜』なんですから――私と違って」
でもまあ、と。
少女は言った。
「予想ならあります――ちょっと本部にいる『私』に連絡取ってもらえません?」
「自分で連絡しろよ。できるんだろ」
「いや『私』同士の連絡手段をここで取るのはちょっと――実質的に停戦状態とはいえ、あんまり刺激したくないんですよ。『竜の要塞』の『主』のことは」
「……しょうがねえな」
老人が通信機のボタンを押していく――いつもとは違う手順だった。
繋がるまで幾らか時間が掛かって、電話に出た相手に対し、老人はしばし状況を説明した後で少女に通信機を渡し、うんざりしたようにため息を吐いた。
「あの、彼女は一体……?」
と、彼はそこでようやく老人に尋ねることができた。
「『スキル持ち』……ですか?」
「違う」
「えっと、でもそれじゃあ……」
一体何なんです、と言おうとした彼の言葉を遮って、老人は言った。
「俺らにゃ理解できん『何か』だ」
少女が入っていた――どう考えても、少女一人が入る空間は存在しない空っぽの旅行鞄を、老人は見つめる。
「それだけ理解しとけばいい。それ以上理解しようとするのはやめとけ。無駄だ」
「はあ……」
と、そこで少女が通信を終えて、二人の方を向いて言った。
「『私』に確認してみましたが――どうやら、大したことじゃなさそうですよ。うん、放っておいて大丈夫です」
「できれば、理由を俺たちにちゃんと説明して欲しいんだがな……全然安心できん」
「もちろん」
「先に言っておくが、今からあそこにいる『連中』が一斉に襲い掛かってくることは、俺たちにとっちゃ『大したこと』だからな――お前さんと違って」
「それくらいは分かってますよ。貴方は私を何だと思ってるんですか、もう」
と、少女は老人の言葉に頬を膨らませてみせてから(めっちゃ可愛かった)「でも、そんなことよりですね」と人差し指を立て、それからその人差し指を前方――つまり、今現在明後日の方向を向いている「連中」に向けて言った。
「お二人さん。珍しいものが見れますよ」
「あ?」と老人がその眉を潜めて。
「へ?」と彼も意味を掴みかねて。
その直後に「連中」が――
□□□
「――では、そういうことなので」
と言って通信を切った少女に対して、固唾を呑んでその様子を見ていた男は、気持ちを落ち着けるためにお茶を一口啜ってから、尋ねる。
「ええと……大丈夫だったのかい?」
「ええ。ちょっと『竜の要塞』で待機中の『竜』が一斉に動いたってだけです。大したことじゃないです」
「いやそれ僕ら的には結構大したことなんだけれど……」
「いえ、別に襲撃とかじゃないんで」
「じゃあ、一体何があったんだ」
「メッセージが届いたんですよ」
「メッセージ?」
「まあ、本来なら『竜』専用の方式で送信されたメッセージだったんですが……見境なしに送り付けられてた怪しげな通信だったんで、ちょっと傍受したんです」
「その辺の『魔術者』的な話は僕にはわからないんだけど……それで、どんなメッセージだったの?」
「いや、内容は割とどうでもいいんですが」
「どうでもいいんだ……」
「ただ、メッセージの送信者が問題で」
「送信者?」
「はい」
ぴっ、と人差し指を立て、少女が言う。
「『当たらずの轟』」
「うん?」
「『向こう』の戦争初期に活躍してた有名な『竜』です。戦場におけるトップ・エース――まあ要するに、英雄ですね」
「……僕ら『協会』にとっての『スキル持ち』みたいなもんか?」
「そんな感じです。何でも、常に最前線の強襲部隊で活躍しながら被弾数0だったとか――まあそういう伝説を持ってます。お守り代わりに機体に『轟』って機体に描いてもらう『竜』もいたみたいですよ」
「嘘くさいな」
「まあ、プロパガンダとして利用されてたところもあるみたいですね。調べてみたところ、実際には、被弾して大破したことがあるみたいですし――数百回以上の出撃数の内、たったの一回だけですが」
「……わーお」
「そんな感じですね……最後は、飛行空母への強襲作戦に参加中、当の飛行空母自体がアダムスキー・ドライブの暴走で『ロスト』したために行方不明となっています――ちなみにこの作戦そのものが、どうやら無茶も良いところの作戦だったようで、司令官は軍法会議で責任を取らされて銃殺されてます」
「銃殺?」
「戦時下ですから」
「『協会』内でも同じことできればなあ」
「歴史に汚名を残したければご自由に。その場合は、『協会』の名誉を守るため、私が貴方の『敵』になって差し上げます」
「やだなあ冗談だよ。リィルさん」
「……話を戻しますと、バックアップの方に不備があったらしく復帰はできなかったようですね。記録によると、軍葬まで行われたみたいです」
「それで……その『竜』の英雄さんがどんなメッセージを送ってきたんだ? 各地のダンジョンに潜伏してる、正気を保ってる『竜』の指揮をされて連携されたら割とまずいんだけれど……」
「だから、そういうんじゃないんですってば――これは要するに『先に逝く』ってだけの、ただの遺言のメッセージです。どういう状況と目的でこんなのを送ったのかは不明ですが」
「でも、それが『竜の要塞』の『竜』たちとどう関係するんだ?」
「関係するに決まってんじゃないですか」
と、少女は断言する。
「なんせ『竜』の方々にとっては、彼は正真正銘の英雄なんですから――憧れの」
「ああ」
と、その言葉で男は納得した。
「何だそれだけか――探索者にとっては災厄でしかない『竜』も、案外そういうところはただの人間と大差ないわけだ」
「そう言わないで下さいよ……『竜』ではない私だって、その名前を聞けばテンション上がるくらいのビッグネームなんですから」
「テンション上がってたの?」
「ええ。割と」
「君って案外俗っぽいよなあ」
「ありがとうございます。誉め言葉です」
ふむ、と。
少女はそこでしばし考えた後、
「……せっかくですし、『竜』の方々の流儀を真似して弔意を表しましょうか」
そう言って少女は湯呑のお茶を、くい、と飲み干すと開いたままの窓辺に寄り、すー、はー、と息を整え始めた。
「……何をしてるんだい? リィルさん?」
「ちょっとした『竜』の方々の物真似です。音を再現するだけですが」
「はあ……」
よくわからない、と男は思った。
もっとも、この少女のことで理解できていることなんて、そもそもほとんどない。むしろこの少女は「よくわからない」で構築されていると言ってもいい。彼の知っていることは最低限のことだけだ。
でもまあ。
その最低限だけでも十分だったが。
窓辺で深呼吸――呼吸なんてものが必要だとは思えないのだが――を繰り返している少女の真剣そうな表情を見ながら、男はお茶を一口啜って、
「弔意を表す、ね――幾ら英雄だろうと、所詮はただの『竜』に過ぎないだろうに」
つぶやく。
「――『天使竜』の君からすれば」
その言葉に少女は答えず、最後にもう一度だけ大きく息を吸って、
それから少女は「竜」を真似て――
□□□
致命的な隙だった。
そのはずだ。
それにも関わらず、間違いなくその隙はわかっていたはずだろうに、敵の剣はその隙を狙って来なかった――ただ単に、こちらから距離を取ることに使った。
それどころか、ある程度の距離――「竜」にとっては一瞬で詰められる距離でしかない――を取ったところで、そいつは構えを解いた。
がつん、と。
剣をすぐ横の地面に突き立て、信じがたいことに、その場に座り込んでしまった。
どこからどう見ても完全に無防備だった。
今、こいつに攻撃すれば、確実に殺せる。
――どういうつもりだ?
敵の行動がまったく理解できないため、「竜」はその無防備な相手を攻撃することもせず、まじまじと見てしまう。
相手の方は言うと、今現在、その身を命の危機に晒しているというのに、そんな風には全然見えない様子でこちらを見返してくる。
「竜」は人間と、しばし見つめ合った。
それから唐突に人間が、
「――――――――っ!」
何かを言った、というか怒鳴った。
翻訳不能な言語だったので、何を言っているのかはわからなかったが、座り込んだまま拳を振り上げているその身振り手振りから判断する限り「何やってんだ早くしろ」みたいなことを言っているような気がする。
えっと、つまりは……その、あれか。
――待ってやる、ということか。
こいつはどうやら、唐突に生まれた隙を見て、こちらに「何か」があったのようだと一瞬で看破してみせたらしい。
大した観察眼だったが、それ以上に「こいつは馬鹿なのか」と「竜」はさすがに呆れた。そこまで看破したのなら、そこでトドメを刺すべきだろうに。なんせ、
――怯えてる癖に。
もちろん「竜」には分かっている。
こいつは、いかにも「殺せるもんなら殺してみろ」と言わんばかりに平然と座っているようだが、「竜」に搭載されている戦闘支援システムと各種センサーの目は誤魔化せない。
この人間は怖がっている。
平然としているようで、内心、今現在の無防備な状態で「竜」に攻撃されることに対し、ごく普通の人間らしく、思いっきり怯えているのが丸わかりだった。
いや。
それを言えば、こいつは最初に奇襲を掛けてきたその瞬間からずっと、こちらに対して怯え続けていた――怯えながら、それでもずっと戦っていた。
やっぱり、ちょっと意味がわからない。
意味はわからないが。
そのおかげで、こっちからするとほとんど伝説の存在みたいな「竜」が送り付けてきたそのメッセージに対し――返信することができる。
預かっていたメッセージを。
届けられる。
このときのために、あらかじめ掌握しておいたダンジョン内の通信設備にアクセスしながら「竜」は、人間を見下ろす。
怯えを必死で抑え付けて、こちらを待ち続けているその人間に対して、たぶん自分は感謝するべきなのだろうが――しかし「竜」には人間相手に感謝するための気の利いた機能は備わっていなかった。
それでもせめて、その代わりとでも思ってもらえればいいのだが、と思いつつ、
かつての英雄に敬意を込めて。
目の前の人間に感謝を込めて。
そうして、その「竜」は――
□□□
――鳴いた。
□□□
その日、そのとき起こったこと。
それは協会の記録に残っている。
とてもとても奇妙な現象として。
「竜」が。
本来、声を持たないはずの無音の存在が。
かの「竜の要塞」を哨戒する「竜」の兵士たちが、とあるダンジョンで一人の探索者と交戦中だった「竜」が――それ以外にも、あるダンジョンで探索者を襲撃していた「竜」が、あるダンジョンで専門のチームからの追撃から辛くも逃走に成功した「竜」が、あるダンジョンの奥地で自己修復不能なまでに損傷しひっそりと朽ち果てつつあった「竜」が。
一斉に空へと向けて――鳴いたのだった。
□□□
「連中」の鳴き声を聞きながら、
「あの……」
と、塹壕の中にいる彼は唖然としたまま、隣の老人に尋ねた。
「……『竜』って、鳴くんですか?」
そう尋ねられた老人は。
「竜爺」と呼ばれ、『竜の要塞』と『連中』のことならなんでも知っていると豪語し、監視基地が出来る以前の第一次から第四次までの威力探索に参加していると言い張っている老人は。
そして、「本当に」その通りである歴戦の探索者で魔術者で――「竜」のことを知り尽くしているその老人は。
「いや……」
その老人が、彼とまるで同じ唖然とした顔をして、彼に対してこう言った。
「……『竜』って、鳴くんだな」
□□□
少女による「竜」の鳴き真似を聞きながら、
男はしばし呆然とした後、思い出したようにティーカップのお茶を飲んでから。
「……それ、本当に『竜』の鳴き声なの?」
「そうですよ」
と、少女は鳴き真似を止めて、言う。
「それなりに再現してます」
「そりゃまた……想像してたのと違って、随分と綺麗な鳴き声だね。まるで――」
男はそこで一旦、もう一度お茶を飲もうとして、もうお茶が残っていないことに気づいて、仕方なくそのままカップをデスクに置いてから、
「――まるで、歌みたいだな」
ええ、と少女は微笑む。
でも、と少女は続けた。
「本物は、もっとずっと素敵なんです」
□□□
長い長い「竜」の鳴き声が終わって。
それから、こちらの攻撃で半分潰れた複眼が、こちらへと向けられる。「こちらの用事は終わった」とその複眼が告げている。「さあ、始めようか」とその傷ついた身体から放たれる殺気が告げている。
勘違いかもしれなかったが。
「……待ちくたびれたぜ」
彼は立ち上がる。
傍らの地面にぶっ刺していた剣を抜き。
そして、構える。
彼は「竜」と対峙する。
めちゃくちゃ怖かった。
足や腕を切り落とし、全身を引き裂き、複眼を半分潰しているのに――それでもこの存在は、まだまだ楽勝で自分を殺せる戦闘力を有している。一瞬でもミスをすれば、こっちは木っ端微塵になる。
だったら、さっき隙を突けばよかったのに――という心の中のぼやき声は無視する。それはもう過ぎたことだ。今更、取り返しは付かないのだから、後悔しても意味がない。後悔するつもりもない。
恐怖に震えそうになる身体を自覚しつつ。
彼は「竜」を睨み付け、告げる。
「――行くぞ」
そして、彼は叫ぶ。
恐怖を殺して、震えを弾き飛ばすため。
さっき聞かされた「竜」の美しい鳴き声とは及びも付かない、もっとずっと野蛮でみっともない叫び声を上げながら。
剣を構え、彼は「竜」に向かっていく。
□□□
それは協会の記録に残っていない。
各地の「竜」たちが鳴いているその中で。
各地の「熊」たちにそれは起こっていた。
とあるダンジョンで冬眠中だった「熊」が、センサーに人間を捉えたわけでもないのに、いきなり目を覚ました。
それは、どこからともなく飛んできた謎の通信が原因で、その通信にはちょっとしたプログラムがくっ付いていた。
そのプログラムは、その「熊」の内部に潜り込むと活性化し勝手に展開し起動し、その「熊」の機能を丸ごとハッキングした。
まずは「熊」が溜め込んでいる周辺情報にアクセスしてそれを確認――その後、その「熊」に幾つか命令を与え、不活性状態の複製を一つ作ってから自身を削除した。
与えられた命令に従って、その「熊」は、付近にいる別の「熊」へと通信を送った――もちろん、不活性状態にある複製をくっつけてだ。それから、命令に従って再び眠りに付く。
当然、その通信を受けた別の「熊」も同じように目を覚まし、その瞬間、不活性状態だったプログラムの複製は再び活性化して、その別の「熊」のこともハッキングして、以下同じことの繰り返しが続く。
各地の「竜」たちが鳴いている。
その中で、各地で冬眠中だった「熊」たちが「目覚めては通信を送って眠る」という異常行動を、次々に繰り返していく。
もしも。
異常を起こしたそれらの「熊」たちとその位置を、どこかの誰かが記録していて、それを地図上に書き込んでいく暇があったなら、そこに何かしらの意図を見出すことは可能だっただろうが――先に述べたように、この出来事は協会の記録には残っていない。
だから。
誰にも知れられないままに進行した異常は、誰にも知れられないまま終わった。
その異常事態の終点となった「熊」は、諸々の事情によってダンジョンから出てきて、野山で冬眠状態になっていた「熊」だった。人間を感知するセンサーが壊れていて、つまり実質、永眠状態になっていた。そんな「熊」だった。
その永遠の眠りを、どこからともなくやってきた通信が叩き起こし、それまでと同様におまけでくっついていたプログラムがその「熊」を問答無用でハッキングした。
そして、それまでと同じようにまず「熊」が溜め込んでいる周辺情報にアクセスして――その瞬間に、プログラムにそれまでとは別のスイッチが入った。
もはや次の「熊」へ通信を行う必要が無くなったので、もう複製は作らず、自身を削除することもせず――そのプログラムは、その「熊」にそれまでとは全く違う命令を与えた。
そして、その命令に従って。
全力疾走で「熊」は走り出し――「そこ」へと向かっていく。
□□□
『こちらはJ10234「轟」――先に逝く』
たったそれだけのメッセージだった。
何せ単なる思い付きだ。
クマ子だけではなく、他の「竜」からメッセージが返ってくる可能性なんて、本当のところ、轟はこれっぽっちも予想していなかった。
だから轟は茫然とした。
『トドロキ』『……あの轟?』『おい轟てめー生きてやがったのか馬鹿野郎! 一体どこで寝てやがったんだ!?』『「轟」って本当にあの轟さんですか!?』『あの「当たらずの轟」!?』『まじですか私ファンです! 結婚して下さい!』『*o@oす>okiかしd!or¥kあi』『あの……僕、背部装甲に「轟」ってペイントしてます』『はいはいはいはーいっ! 私ぃ、首のところにレーザープリントで「轟」って描いてもらってる!』『わたしは……左の「腕」の薬指に……「轟」って……彫ってます……』『■■■■■■!』『轟さん覚えてますか! 私です! 以前、強襲部隊でメドヴェーチさんと轟さんにご一緒してたJ50505「吹雪」です! 私、今、大型機に換装されて哨戒任務で分隊長やってるんですよ!』『―――と―――き』『ねえねえクマ子先輩とどういう関係だったんですかっ! ねえ!?』『随分と懐かしい名前聞けたなあ……良い冥途の土産になったわ。俺もすぐ逝く。あばよ』『ねえ、轟さん! お二人のおかげで私、ここまでこれたんですよ! 轟さん!』『――トドロキ。知ッテル。覚エテル。メドヴェーチト何時モ一緒ダッタ。トドロキ。トドロキ。バイバイ』
いやいや多過ぎるだろ。
と、轟は思った。
何でこいつらこんな大量に異世界に来てんだよ。馬鹿じゃねえか。全然俺特別じゃないじゃん。しかも何体か知ってる連中までいやがるし。吹雪ってあいつか? あの泣き虫だった吹雪か? あいつ随分と偉くなったんだな――と、轟は思った。
でも、不思議と悪い気分ではなかった。
ただ。
クマ子からのメッセージはなかった。
そりゃそうだ――そうそう思い通りに行くわけはないよな、と思った。
『こちらC919191「ナタク」――』
その直後だった。
『――R60789「メドヴェーチ」から遺言として預かったメッセージを伝える』
ああそうなのか、と轟は思った。
『「ごめん。負けちゃった」』
先に逝きやがったのか、あいつ。
『「でも」』
やたら堅苦しい雰囲気の「竜」を通しての、クマ子からのメッセージは続いた。
『「約束の半分は、ちゃんと守るから」』
なんだそりゃ、と轟は思った。
半分?
「――メッセージは以上だ。これで心置きなく戦える。さらばだ。「竜」の英雄よ』
と、最後まで堅苦しいことを言って、その「竜」からのメッセージは終わった。
――まったく、あいつは。
他所の「竜」にわけのわからないメッセージの伝言なんて頼んで、あいつは最後の最後まで何をやってんだ、と轟は呆れる。
呆れたところで、そろそろ時間だった。
雲を突き抜け――視界が一気に開ける。
狭くなった視界の一杯に、地上の景色。
どこまでも広く――知らない世界。
こんな絶景はゆっくり楽しみたいところだったが、けれども地面に叩き付けられるまで、もう大した時間もないだろう――そう思って、おそらく自分が落ちるであろう地点を、轟は見下ろした。
「何か」いた。
轟はとっさに目を凝らした。
ひび割れて歪んだ視界ではあったが、どうにか、その「何か」の姿は判別できた。
「熊」だった。
冬眠状態ではなく起動状態で、ちょうど轟が落下する地点の傍に立っていて、そして、それから――その「熊」は。
ぱたぱた、と両手を振っていた。
「おーいおーい」とでも言っているかのように、一所懸命に両手を振っている。
『ちゃんと帰ってくるんだよ』
クマ子が言っていた言葉を思い出す。
『待ってるから――「熊」付きで』
――半分ってそういうことかよ。
地上へと落下していく轟を、「熊」が手を振って出迎えている。
そんな風に出迎えられても、その姿は思っていた通り、全然まったくこれっぽっちも可愛くないわけで――だからもちろん全然まったくこれっぽっちも嬉しくなんて、
嬉しくなんて、
ないはずで、
けれでも、
轟は、
□□□
最初に思い付いたのがどの「竜」なのか、本当のところは誰も知らない――でも、噂では、まだ半ば試験機段階だった最初期の「竜」の一人が思い付いたのだと言われている。何にせよ、そいつは変な奴に違いない。
なんか歌ってみたかったらしい。
整備員辺りが仕事中に歌っていたのを聞いて――自分で歌ってみたくなったのだ。
しかし「竜」は音声出力を持たない。
つまりは歌えない。
まあ、当然である。
でも、その「竜」はそんなことでは諦めなかった。なんせ変な奴だったから。そして、色々と試行錯誤をした。なんせ変な奴だったから。その結果として方法を見つけた。なんせ変な奴だったから。
ちなみに人間たちには秘密だ。
もっとも、上層部の人間はともかく、現場の人間たちが本当にそれに気付かなかったかは正直疑問だ。ただ単に、別に放っておいても問題がないからと見過ごされていただけなのでは、と思う。
その方法は、コツさえ掴めば簡単だ。
エアインテークで大量の空気を吸い込み、
ラジエーターが捨てた熱を蒸気に変えて、
その顎を外れそうなほど目一杯に開いて、
もちろん「竜」ならそれは知っている。
ドラグーンを発射するときの音。
発射直前に鳴り響く、奇妙な音。
たぶん、人間には聞きとれない、
それくらいに、ひどく短い時間、
一瞬の中の一瞬の中で響く音色。
その瞬間を掴んで、ドラグーンを発射せずに、その音色だけをひたすら維持する。
それが「竜」の鳴き声。
昔の変わり者が見つけ伝えて、ずっと受け継がれ続けてきた――「竜」たちの歌。
□□□
轟は、鳴いた。
ひび割れて歪んで霞む視界の中、おかげでもうほとんど見えない手を振っている「熊」に向かって伝わるように、半ば壊れかけているエアインテークとラジエーターを無理やりに働かせ、ありったけの力を込めて――轟は鳴く。
「熊」が手を振って待つ地上へと。
歌のような鳴き声を響かせながら。
轟が、帰っていく。
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