第31話「以前は魔王で、その前は」
雲海を
空には
シズマは一人、甲板で壮大な光景へ目を細める。風は強く冷たいが、
「ここにいたか、シズマ。ふむ、よい風じゃな」
ふと声がして、振り向けば小さな少女が立っていた。
青白い肌に頭の立派な角は、ルベリアだ。
かつて魔王として異世界エルエデンを危機に
「ああ、ルベリアさん」
「皆と騒がんのかえ? お主は既に、多くの者を束ねる将であろうに」
「いやあ、柄じゃないっていうか……そういうの、得意だと思ってたんですよね、心のどこかで」
「おや、違うのかや?」
彼はそのまま甲板の手すりにもたれかかって、少しだけ弱気を
「ルベリアさん、例の話は」
「まだお主にしか話しておらん。その様子では……あれと接触したようじゃな」
「まあね。メイコが操られてるかもっていう、アレサの予想はある意味で当たってた。けどなあ……神様が相手ってのは、どうもね」
「我も、今までに何度か他者へ話したことがある。じゃが、このエルエデンの人々は信仰心が強い。善なる神を信じておるのじゃ。まして我は、一時は魔王だった身」
そう、徐々に異世界エルエデンの暗部が浮かび上がろうとしている。
それはまるで、こうして今もゆっくり迫る宵闇のよう。徐々に明らかになる秘密は、気付けば暗い闇でシズマの心を満たしていた。静かに忍び寄り、あっという間に支配してくる、それは恐怖。
夕暮れ時は短く、気付けば夜になっているようにだ。
「俺は気絶している間、一方的に神様に接触されたみたいだ」
「ほう? まあ、我にも経験がある。神は万能、その力は無限。心に侵入し、思考を読み取るなど容易じゃろうて」
「うん。それで……やっぱりメイコの裏には神様がいた。洗脳とか操られてるって感じじゃないけど、メイコも神様の存在を知っていたよ」
「なるほど。つまり……お主の
「そりゃ困るぜ! メイコは絶対に、俺が守る。二人でみんなと元の世界に帰るんだ」
そこまで言って、はたとシズマは口を閉じる。
うっかりしていた自分を恥じて、思わず手で口元を覆ってしまった。
「ご、ごめん……ルベリアさんだって、以前は」
「そうじゃな。我はシズマたちとは違う時代から来たやもしれん。じゃが、他の転使たちの話を聞けば、時間軸こそ違えど同じ世界の人間に思えるのう」
「地球、俺は日本だけど」
「そう、我らの元の世界は丸い大地、名を地球と言うらしいのう。日本とはまた、聞かぬ名じゃが……我は
「あー、はいはい……げっ、始皇帝!?」
「なにを言うか、始まりも終わりもない、皇帝とはすなわち我ぞ」
目の前に今、とんでもない偉人がいる。
中国四千年の歴史の、その黎明期に覇を唱えた大英雄だ。
世界で最初に皇帝を名乗った男は今、
「なに、元の世界に帰れば我は、朽ちゆく老体に戻るのみよ。聖戦世代の転使には、我と同じく国を統べた者、国を興した者、国を滅ぼした者も多かった」
「その頃の神様のトレンド?
「我も召喚後は、若さを取り戻しておった。なにか理由があるのか、それとも神の気まぐれ家……まあ、それよりもシズマ」
グイと近付いてきて、ルベリアはシズマを見上げてきた。
頭上に広がる
「覚悟は決まったようじゃな」
「ああ。相手が神様なら、人間の力なんて虫けらみたいなものかもしれない。けど、その神様が与えた転使の力……それがあれば、話は違う。俺が持ってた、全ての魔法を統べる魔力があれば」
重々しくルベリアは頷いた。
そして、手を出すようにシズマに
「こうでいいか?」
「ああ。……では、お主に力を授ける。かつて魔王だった我に残る、いくばくかの力を受け取るのじゃ」
手の甲に、ルベリアは触れてくる。
ひんやりとした肌触りで、魔族特有の冷たい体温が伝わってきた。
そして、次の瞬間には激痛が全身を駆け巡る。
奥歯を噛み締め耐えようとしても、跡切れ跡切れに意識が薄れては寸断される感覚。それは永遠にも思える一瞬で、ルベリアが離れた時にはシズマは甲板にへたり込んでいた。
そして、手の甲を見れば……見慣れぬ文様が刺青のように刻み込まれていた。
「これは?」
「魔族のみに伝わる魔法の一つ……ライフスクリーミング。簡単に言えば、お主の寿命そのものを魔力へと変換する呪いだ」
「……これが、例の。不思議な感覚だな。以前の魔力が戻ったような、でもどこか疲労感を感じる」
「お主が魔王メイコに奪われたのは、転使としての無限の魔力……言い換えれば、その無尽蔵の魔力量じゃ。その時に同時に授かった、最強の魔力の質は変わってはおらぬ、が」
「が? ……ああ、そうか」
「左様、魔法を使えばお主の生命が削られる。それは決して、元には戻らぬ」
「ん、ありがとう、ルベリアさん。上等だぜ、これで少なくともメイコにアドバンテージが持てる。向こうは俺が魔法を使えなくなったと思ってるからな」
結局、弓使いとして再出発した自分を信じきれなかった。
――という訳ではない。
むしろシズマは、使わずに住むなら魔法など使わないつもりでいた。だが、相手はメイコだけではないし、メイコを無事に取り戻しても戦いは終わらない。
この異世界エルエデンを支配する、歪な救世主伝説の演出家がいる限り……シズマたちが元の世界に戻ったあとも、意図的な世界の危機が神によって引き起こされるのだ。
「シズマ、心せよ……その手の刻印は、魔法を使う
「わかりやすくていいな、オッケーだ!」
「なんとまあ……怖くはないのか、お主。死ぬのだぞ? 銀水を飲んだり、仙術の
「逆に、魔法を使わない限り死にはしない。そして俺は、死ねない。メイコのためにも、仲間のためにも……このエルエデンのためにも」
ルベリアは呆れた顔をして、一瞬だけ酷く哀愁に表情を歪めた。
そこには確かに、老成した英雄の影が見て取れた。
だが、それも一瞬のことで、すぐに可憐な少女の笑みを取り戻す。
「そうだ、ルベリアさん。なにか、俺にできることはないかな。お礼がしたいんだけど」
「むむ? なに、以前もう助けられておる。気にするでない……それに、我が授けたのは呪いだ。それを忘れるな」
「ああ」
「あとは、まあ……お主なあ、ちと我もそろそろ気付いてきておるぞ。その、ディリアにあまり優しくしてくれるな。お主、どうせ元の世界に帰るのであろう」
ルベリアが呆れたような顔になった。
だが、そこにはかつての魔王でもなく、魔族の長でもなく、ただ一人の英雄の笑みがあった。ただの好奇心がありありと浮かんで、あどけない表情が一際輝く。
「えっと、それは……ああ、別れが辛くなる、的な? えっ、でもなんで」
「……たまげたのう。お主、ほんっ、とぉ、に! アレじゃな! 無自覚もここまでくると可愛げがない。ま、ディリアはあれで純情な娘じゃ。最後まで我を守ろうとしたしのう」
「と、とりあえず、俺……やっぱ、鈍い? なにかこう、天然というか、その」
「お主は無自覚な魅力がある、それを自覚せよ。我もまあ、その毒にやられておるやもしれんが」
そう言って笑うと、ルベリアはまた船内へと戻ってゆく。
その小さな背中を、シズマは引き止めた。
「ルベリアさん、その……ルベリアさんも、戻れたら元の世界へ戻る?」
「当然じゃ」
「わっ、即答!? まあ、そうだよなあ。皇帝だもんなあ」
「我は皇帝として、やり残したことが一つだけある。召喚される以前、その務めを果たし損ねてのう。
ふと、ルベリアの声が僅かに湿る。
魔族の少女の中で今、原初の皇帝は懐かしげに言葉を選んできた。
「国を平定して
「……死ぬために戻るのか、ルベリアさん」
「もう、十分生きた。不死など求めず、もっと懸命に生きるべきじゃったが、それでもなかなかの人生であった。しかも、最後の最後でこういう奇異な体験にも恵まれたしの」
それだけ言って、ルベリアは行ってしまった。
その背を船室に見送り、そっとシズマは手で呪いの刻印を隠す。
まるで胎動するような輝きを明滅させながら、赤い紋様が熱を持っていた。
そして、吹き付ける風の中で小さく、しかしはっきりと言葉が響いた。
「シズマ、中に入りませんこと? ……例の話、結局決断しましたのね」
「なんだ、アレサ。見てたのか」
「ごめんなさい、盗み聞きするつもりはなかったのですわ。でも」
「……いや、いいんだ。それと、俺はだんだんわかってきたよ。俺こそ、ごめん。なんか、自分で思ってるよりお調子者みたいなんだ、俺。知らぬ間に、その気にさせてることがあるらしい。それでアレサも、怒らせちゃったんだよなあ」
歩み寄ってきたアレサは、白いワンピースのスカートを風に揺らしていた。ともすればまくれてしまいそうだが、彼女はさらにその布地を手で千切り始める。
真っ白な太ももはカモシカのようにしなやかで、むっちとした肉感が
いつも見慣れてる脚線美が、今日は一段とシズマの目に焼き付いてきた。
アレサは黙ってシズマの手を取ると、例の刻印を隠すように布切れを巻いてくれた。
「アスカやミサネが心配しますわ。
「それと?」
「シズマは確かに、誰にも安心感を与え、無駄に頼れる雰囲気を常に纏ってますわ。ただ、覚えてて欲しいんですの」
アレサはもう、朝の不機嫌さを見せなかった。
その代わり、静かに微笑み金髪を風に遊ばせる。
「わたくしは、その気にさせられてなんかいませんわ。……その気になったのは、わたくしの意思。自分でそれを見つけて、捨てないことを選んだんですの」
「え、それって」
「ふふ、それだけ覚えててもらえれば十分ですわ。メイコさんもそうだと思うことも、心に刻んでくださいまし。さ、中に入りませんこと? 風がいっそう冷たくなってきましたの」
アレサに促されるまま、シズマは彼女に手を引かれて船室へと向かった。
夜の闇が既にもう、空を走る船の行く先を暗く閉ざし始めているのだった。
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