第55話
棚の二段目に置いた小さな黒い袋を眺めて息をついた。中にはあの日の魔石が五つ入っている。魔力は褪せることはなく、今もガラス玉のように綺麗だ。地球に戻ってからもうすぐ二年になる。まるで夢のようだった異世界での日々は、今ではこの袋とシェールの絵だけが事実だったと伝えている。
異世界から帰ってしばらくは大変だった。海外旅行を直前に控えての失踪、おまけに周囲の防犯カメラには一切映っていないことで世間ではちょっとした事件扱いだったらしい。とはいえ俺が戻ったのは一年と少し過ぎた後。その頃には忘れ去られていて幸い大きな注目は浴びなかった。
母さんは泣き崩れるし、社長と奥さんは絞め殺す勢いで抱きしめてくるし、姉ちゃんには殴られて、兄ちゃんはその姉ちゃんを宥めていた。ていうか姉ちゃん酷くない? 今回の行方不明は完全に不可抗力なんだけど。でも思いっきり殴った後姉ちゃんも泣き出したから結局何も言えなかった。
当然一年以上も何をしていたんだと問い詰められたけれど、何も覚えていない、で通した。記憶喪失ってやつだ。だって「異世界に行っていました」なんてどこの誰が信じる。逆の立場なら俺も信じない。脳の病気を疑う方が先だ。
まあ記憶喪失も十分センセーショナルなので、その後は病院に放り込まれた。警察に事情聴取もされた。地球に戻る前から「記憶喪失」で押し通そうと思っていたので、異世界の写真も動画も撮らなかった。本当は皆の写真を撮りまくりたかったけれど、今は消去した写真も復元が出来る。警察にカメラが渡ったらすぐにバレると思って我慢した。
職場はやはり俺の籍は無くなっていた。アパートも引き払われて、荷物は実家に戻ってきていた。これについてはもう未練はない。
あちらで語学の楽しさに気付いた俺は、日本に帰ってから一年間みっちり英語の勉強をしていた。病院にも通っていたし、なにより母さんや周りの人たちの過保護が過ぎて一人では家から出して貰えなくなっていたから良い暇潰しにもなった。
おかげで仕事にも復帰できた。異世界にいた時期と、その後一年間の軟禁状態で、長い無職期間があるため正社員は難しかったけれど、海外に食品を輸出する企業の派遣社員になった。栄養士の知識と簡単な英語を使ってデスクワークをしている。以前のように商品開発のための食べ歩きで胃腸に負担を掛けることもなくなった。仕事については現状満足している。
仕事を再開して半年ほど経ったころ、母さんが再婚した。俺が行方不明の間に母さんを献身的に支えてくれた人らしい。母さんが選んだとは思えないくらいまともな人で、今度こそ幸せを掴んでくれるんじゃないかと期待できる人だった。その結婚を機に、家を出た。一緒に住もうと言ってくれたが、さすがに新婚の母さんの邪魔をするほど空気が読めなくもない(し、母さんの新婚生活なんて見たくない)。
それならうちに住めばいいと、社長たちが言ってくれたが断った。帰ってからこっち、皆の過保護にいい加減うんざりしていた。記憶喪失というトンデモ設定なのである程度は仕方がない。根底にあるのは皆の愛情だと理解はしているけれど、それでも一人になりたい時もある。だってもう二十代も後半だぞ、俺。
粘り強い説得の末、母さんの家と社長達の家の両方から歩いて二十分程の安アパートに住むことで決着がついた。三日に一度は誰かしら部屋に訪ねてくるという弊害はあるものの、おおかたの日常は取り戻した。
こちらに戻ってしばらくは異世界を思い出すたび泣きそうになったが、二年近く過ぎてようやく落ち着いて懐かしむことも出来るようになっていた。
時折、あの日聞いた指先へのキスの意味を考える。試しにネットで検索してみたら、キスは、手なら尊敬、 額なら友情、みたいな意味が出てきた。
「貴方の手の内にありたい」なんて、いくらでも解釈の仕方があるけれど、友人に行うには少し重い。ただキスをしたエルの真意よりも、その「答え合わせ」が永遠に出来ないという事実がいつも少しだけ胸を騒がせた。
いけない、なんかちょっとセンチメンタルになってる。きっとみんなは今も良い国を作るために働いている。それを思えば元気になると言ったのは自分だ。ふっと息を漏らしてゆるく首を振る。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
「はいはい、っと」
気分を変える為に軽い返事をして迎えに出た。来客は兄ちゃんだ。正確に言うと、母さんが勤める会社の社長夫婦の息子なので血は繋がっていない。けれどこの人は昔から本当の弟のように接してくれる。
「どしたの、兄ちゃん」
「母さんたちに様子見てくるように言われたから」
「ああ」
なるほど。このところあまりにも母さんと社長の奥さんが頻繁に顔を出すものだから、せめて週一にしろと言ったのだ。さすがにそろそろ慣れて欲しい。記憶喪失(仮)の俺より、母さんたちの心のリハビリの方が必要だ。
「あがって」
部屋に通して、キッチンに立つ。
「コーヒーと紅茶どっちがいい?」
「コーヒーかな」
「ん」
お湯が沸くまでの間、小さな座卓についていた兄ちゃんの正面に腰を落ち着けた。
「お前さ、前より甲斐甲斐しくなった?」
「へ、そう?」
「前は飲み物は自分で用意しろ、って感じだったじゃん」
「そだっけ?」
毎度顔を合わせるたびイオリスにお茶をくんでいたので、何となく人にお茶を淹れるのが癖になった。そういえば昔はもっと面倒くさがっていた気がする。
少しの雑談の後二人分のコーヒーを淹れる。兄ちゃんがコーヒーを一口啜った。
「お前さ、本当に記憶ないの?」
「……は、え、っと、なんで?」
最近は訊かれなくなっていたから油断した。明らかにぎくりとした空気を出した自分を殴りたい。
「なんかさ、亘希、前より良い方に変わった気がして。行方不明だった間にお前にとってプラスになる出来事があったんじゃないかと思ってさ」
「自分じゃよくわかんないけど、例えば?」
「お前さ、うちの母さんがお菓子を用意したときとか、子供のお前が最初に選んでいいのに、いつも俺たちが選ぶまで遠慮して動かなかっただろ。本当に小さな頃はそうでもなかったけど、育つにつれ少しずつ俺たちに遠慮するようになったよな。歳が離れてて可愛がってた弟が物心付くにしたがってよそよそしくなって俺はすごく悲しかった」
社長一家には血の繋がりも何もないのに、母さんと共に迷惑を掛けているのがずっと申し訳なかった。だから兄ちゃんの言う事にも心当たりは有る。しかしそれにしても。
「前から思ってたけど兄ちゃん俺のこと結構好きだよね」
「結構、じゃない、大好きだ」
何故か兄ちゃんは座卓をバンッと叩いて鼻息荒く言った。
「小学生の時に突然できた弟だぞ? 凶暴な妹しかいなかった俺に出来た可愛い弟だぞ? これを可愛がらなくて何を可愛がるんだよ!」
「そ、そう」
この人なんで興奮してんの? 気持ちは有難いけどちょっと引く。
「あ、そうそうかずさも行方不明の影響でお前が再就職出来なかったら自分が一生面倒見るって言ってたぞ。あいつもたいがいお前が大好きだよな。本当は俺もそう言いたいとこだけど、妻と子供がいるからな」
「いや、そこは奥さんと子供優先してよ」
苦笑して返すと、兄ちゃんが少し膨れる。いい大人が可愛くない。ちなみに「かずさ」は姉ちゃんの名前だ。兄ちゃんは十歳上、姉ちゃんは八歳上だ。姉ちゃんは大手のIT企業に勤めていて、たぶん俺よりもよっぽど稼いでいる。
「俺だって出来るだけの援助はするぞ」
「いや有難いけど、俺一応自分で稼ぐ予定だけど。今だって非正規とはいえ仕事してるし。ていうか姉ちゃんは俺を養うより恋人探したほうが良いんじゃないの?」
「俺もなんかプロポーズみたいだなって思った」
兄ちゃんの言葉にすっごい複雑な気分になる。確かに俺と姉ちゃんは血縁上も戸籍上も繋がりは無いから結婚できる。でもあの気の強い姉ちゃんと結婚とか無理だろ。そんなことを心中で考えていると、突然兄ちゃんが笑い出した。
「すっげぇ微妙な顔。かずさもおんなじ顔してたわ」
「おんなじって?」
「無いわ~って顔。俺も想像してみて『無いわ~』って思った。お前とかずさが結婚するって言ったら俺は絶対に反対するぞ」
「いや、万が一にも言わないけど」
「そ、つまり俺たちは血のつながりは無いけどちゃんと家族ってことだと思うんだよな。最近の母さんたちの過保護だって、以前のお前なら母さんたちが心配しているのがわかるから本当は嫌でも我慢してたんじゃないかと思うんだ。でも今回はちゃんと何度も家に来るなって言ったろ? 一人暮らしの事だってそうだ。お前が自分の意思を優先してくれて俺は嬉しかった。お前に我儘言われたって俺たちはお前のことが好きだってわかって貰えたみたいで嬉しい」
「えっと、兄ちゃんそんな事考えてたの?」
「おう、これでも長男だからな。可愛い弟のことは心配してんだよ」
兄ちゃんが手を伸ばして、俺の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「お前はもっと俺たちに甘えていいよ」
その言葉に急に色々なことを思い出してしまって、いつの間にか涙が溢れた。ぼたぼたと水滴を落とす俺に、兄ちゃんが目を丸くする。
「何も泣かなくても」
兄ちゃんが座卓を回りこんで俺を抱きしめる。子供の時みたいに背中をゆっくりと撫でられた。なんだか思っていたよりも世界はずっとずっと俺に優しくて、涙が止まらなかった。
***
次回最終話です。
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