第54話

 俺は今、イオリスが約一年掛けて刺繍した魔法陣の脇に立っている。銀色に輝く糸で作られた繊細な模様の魔法陣だ。あまりにも立派で正直土足で上に乗るのは憚られる。でも乗らないと帰れないしな。

 見送りにはスフェン、ユークと、エルとラディオ、それから宰相まで来てくれた。忙しいだろうから見送りはいらないと言ったのに、それでもこうして集まってくれた。仕事の邪魔をして申し訳ないがやっぱり嬉しい。


「シェールくんとサナさんの件は順調に進んでいる。昨日ミーファに様子を見に行かせたが特に変わりはないそうだ。コウキ殿のことは寂しがっているようだけれどね。ミーファとルイもあなたによろしくと言っていた。二人にはコウキ殿が異世界の人間だとは話していないので、ここには連れてこられなかった、悪いな」

「いえ、ありがとうございます」


それだけ聞ければ充分だ。宰相にはいくら感謝しても足りない。


「さて、みんな頼んでたもの持って来てくれた?」


 俺たちの話が一段落したのを見計らって、イオリスが一同に視線を走らせた。ラディオ以外の皆がそれぞれ小さな珠を取り出す。


「あれ、それ魔石?」

「そう、みんなに魔力を込めて貰うよう頼んでたんだ」


俺の質問に答えながら、イオリスが皆から石を受けとる。大きなビー玉くらいの美しい球形だ。イオリスがひとつずつ掲げて俺に説明をしてくれた。

 透明な球の中に砂金のような小さな粒が浮かぶ石が光属性、スフェン。濃紺に銀の粒が浮かぶ夜空のような石が闇属性、イオリス。残りは赤、青、緑にそれぞれ透明の泡が浮いた石だ。赤は火の属性でエル、青は水の属性で宰相、緑は風の属性でユークの魔力が込められているそうだ。どれも光を透過して綺麗だ。

 それらをまとめてイオリスが黒い巾着に入れた。赤みを帯びた白い糸で魔法陣が刺繍された、掌に収まるほどの袋だ。


「これ、最後に僕たちから餞別ね。君のところでは魔法は使えないだろうからお守りみたいなものだけど」


イオリスが袋を俺に差し出す。


「え、いいの?」


訊き返すとイオリスが頷いた。皆もそれぞれに頷いてくれている。


「イオリス様、オレも何かコーキにあげたかったです。オレだけ仲間外れずるいー」


ただ一人、ラディオが拗ねたように口を曲げた。


「だって、ラディは風の属性でしょ。風ならユークさまのが強いし」

「わかってますけど~」


イオリスにちらりと視線を向けられたユークが少し気まずそうに笑う。貴族の方が基本的に魔力が強いらしいので仕方がない。ラディオに、気持ちだけは貰っておく、とかなんとか言おうとしたところで、先にイオリスが口を開いた。


「ラディからもちゃんと貰ってるから大丈夫」

「へ、オレ何もしてないけど?」


ラディオが目を瞬かせる。今更だが敬語が消えているけどいいのか、ラディオ。


「この巾着の魔法陣の糸にはこの前鉱脈で君に買ってきてもらった魔石のくず石、も、使ってるから安心してよ」


あれか、鉱脈の町でラディオが値切って買った石か。それにしてもいつにないイオリスの輝く笑顔が眩しい。その顔にラディオの腰が引けている。嫌な予感しかしない。ラディオも同じなのか、引きつった顔で俺に向き直った。


「だ、そうだから、元気でね、コーキ」

「お、おう。ありがとな、ラディオ」


イオリスに笑顔の理由を聞きたいけれど、怖くて聞けない。どうせ碌でも無い事に決まっている。ラディオもスルーすることに決めたようだから俺もそれ以上追及しなかった。


「みんなも、ありがとう。大事にするな」


貰った袋を握り締めてあらためて礼をする。軽く息を吐いて呼吸を整えた。


「セラフィス様と、ユークを中心に、みんなで楽しい国を作るって約束してよ。そしたら俺、この世界のこと思い出すたびに幸せな気持ちになるよ。みんなが楽しくやってるって思えば俺もきっと向こうで元気が出る」


国に対して意見するなんておこがましいのかもしれないけれど、でもそれが素直な気持ちだ。この人たちならきっと良い国が作れる。


「もちろん、約束しよう。だからあなたもどうか息災で」


優しく微笑む宰相に、じわりと涙が浮かぶ。袖で目元を拭うと、その腕ごと抱え込まれた。


「お前に恥じない国を作るよ、だから元気でな」


俺を抱きしめて髪をかき混ぜたのはユークだ。


「ん、ユークならきっと上手くいくよ」


涙声で返事をすると、ユークがぽんっと俺の肩をたたいて離れていった。


「コウキ、貴方の幸せを祈っていますよ」

「ありがとう、スフェン」

「オレもオレも」

「うん、ありがと、ラディオ」


スフェンとラディオもそれぞれハグをしてくれた。最後に、エルに向き直る。


「エルも、本当にありがとう」

「私の方こそ、この一年本当に楽しかったです」


エルが右手を出したので、ぎゅっと強く握り返す。まだまだみんなと話したいけれどキリがないので、繋いだ手を一度だけ大きく振って離した。


「イオリスもありがとな」

「君が僕に礼を言うなんて珍しいね」

「最後ぐらいはね」


苦笑して視線で魔法陣を示す。長居して皆の仕事の邪魔になるのは良くない。


「巻き込まれないようにみんなは部屋の端に寄ってくれる? コウキは荷物持って魔法陣の中心に」


イオリスがそれぞれに指示を出す。皆が動くと、魔法陣の上の俺の前にイオリスが来た。


「準備はいい?」


ポケットの財布とスマホを確認する。この二つとシェールの絵とそれから今みんなに貰った餞別さえあれば、最悪他のものは失くしても問題ない。

 一度目を瞑って深呼吸をする。覚悟を決めて頷くと、イオリスがふっと笑った。


「じゃあ、気を付けてね。なんだけど、」


イオリスが俺の耳に顔を近づける。そのまま内緒話のように囁いた。


「最後に、教えてあげる。この国では指先へのキスは『貴方の手の内にありたい』って意味だよ。もちろん僕もエルに指先へのキスなんてされたことはない」

「え?」

「まあ、額へキスされたのだって子供のころだけだけどね」

「ちょ、それ、どういう意味?」


声を潜めるのも忘れて訊き返すと、イオリスが心底楽しそうに笑った。


「さて、どういう意味だろうね? じゃ、元気でね」


 イオリスが一歩離れた瞬間、魔法陣の糸がまばゆく光った。イオリスに手を伸ばすよりも早く、ぐらりと視界が歪む。酷い立ち眩みの様なめまいにスーツケースの持ち手にしがみ付く。はっと気づいたときにはそこには見慣れない風景が広がっていた。

 足に触れた低木に驚いて肩が跳ねる。辺りを見回すと、そこは小さな公園のようだった。幸い今は誰もいない。


「どこだよ、ここ」


まったく記憶にない風景に、心臓がバクバクと音を立てる。視界の端に自販機が見えた。良かった、少なくとも日本ではありそうだ。がらがらとスーツケースを引きずって近づき、自販機の表面を確認する。どこかに住所のシールが貼ってあるはずだ。


……って、隣の県じゃねぇか、ここ。


俺ん家まで二時間以上かかるぞ。おいどういうことだ、イオリス。

 でも冷静に考えると違う世界間の移動とか冗談みたいな状況だし、これくらいの誤差で済んで良かったのかもしれない。ジャングルや砂漠に落とされたら笑えない。海の真ん中だったらその時点で人生が詰む。恐ろしい想像に背筋に冷たいものが走り抜け、はあぁと心底安堵の息を吐いた。

 とりあえず目の前の自販機でカフェオレを買って、公園のベンチに腰掛けた。なんだか気が抜けたから少し休んで帰ろう。

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