第53話

 昨夜、恥ずかしさと照れくささで呻いていた俺は、結局そのままベッドに入った。純日本人の俺には少し過激だったが、あれはエルなりの別れの挨拶だったに違いない。エルは意外とスキンシップが多いし。

 それに具合が悪い時の「おまじない」だと言っていた。その台詞に思い出すのは、幼い頃に病気がちだったというイオリスだ。きっと小さいイオリスに小さいエルがおでこにチュウとかしていたに違いない。何それ、マジ天使。そんなことをニヤニヤと妄想していた俺は、いつの間にか眠りについていた。なんだかんだで朝までよく眠れた。おまじないが効いたみたいだ。

 そもそもこのところ眠れなかった原因は、みんなと別れることだとか地球に帰ってからの身の振り方だとか、そんな先の不安に苛まれての不眠だ。昨夜はそれどころじゃなくてよく眠れたのかもしれない。我ながら単純だ。

 朝食は、食堂に行ってしまうとまた里心が出てしまいそうなので、昨日のうちに用意していたパンで済ませた。落ち着かない気分で座っていると、控えめにドアが叩かれた。立ち上がって迎えに出る。


「おはよう、エル。長い間お世話になりました」

「ええ、こちらこそ。私、仕事に行きますが、帰る時間には見送りに行きますから」

「忙しいんだし無理しなくていいよ」


突然、がしっと両手で肩を掴まれる。不機嫌にエルが目を細めた。


「絶対に、行きますからね」

「は、はーい」


怖い。なんかエルってば昨日からキャラが違くない? 良い子のお返事をすると彼は満足そうに頷いた。




「イオリス、たのもー」


ドンドンドンと、スーツケースを片手に遠慮なく扉を叩く。約束の時間にはまだ早いが、落ち着かなくて来てしまった。


「はいはい、聞こえてるよ」


いつもと同じ、面倒くさそうにイオリスが顔を出す。ずかずかと部屋に入って勝手に茶を淹れる。帰るまでのそわそわした気持ちはイオリスで紛らわそう。これがこの世界で最後のティータイムだ。そう思うとしおれていく気持ちを叱咤する。

 ダンッと割れない程度に力を入れてカップをテーブルに置くと、先に席に付いていたイオリスは面白そうに俺を見た。


「何、荒れてるね? 昨日エルとなんかあった?」

「は? 別に落ち着かないだけで、エルは関係な、い」


言いながら昨夜のことを思い出してしまった。中途半端に言葉に詰まって、顔に血が上る。


「あ、その様子じゃなんかあったみたいだね」

「本当になんにもない」


意地の悪い笑みを浮かべるイオリスに、むすっと口を尖らせる。


「エルにキスでもされた?」

「は? 何で知って、」

「あ、ほんとに? それはびっくりなんだけど」


目を瞠ったイオリスに、鎌をかけられた事を知る。まんまと反応してしまった。


「ち、違う。キスされたのは本当だけど、指先と額だ。よく眠れるようにおまじないって言って。俺のとこはそういう文化が無いから驚いただけで」


何故か言い訳をしているみたいだが、事実そうだから仕方がない。


「あ、なるほどね」


驚きをひっこめたイオリスが呟く。何が、なるほど、なんだ?


「額へのキスは、僕たちのおばあ様がよくしてくれたんだ。僕は小さい頃に度々熱を出していて、その時によく眠れるようにおまじないって言ってね。それを見ていたエルはおばあ様が亡くなってからは代わりにやるようになった」


イオリスとエルは従兄弟だ。小さい頃から交流があったと聞いている。


「ああ、やっぱりそうなんだ。お前は子供の頃は体が弱くて、エルは良く手を握ってたって前に聞いたよ」

「そうそう、小さい頃はね」


 なんだかやけにイオリスの機嫌が良い。幼い頃の話を俺が聞いていると知ったら、怒るかと思ったけれど意外にも無反応だ。なんとなくイオリスは子供のころの話は嫌がるかと思っていた。

 嫌がられなかったのはいいが、上機嫌なのも逆に気持ちが悪い。話題に上がるだけで浮かれるほどおばあさんが好きだったんだろうか。俺が怖々様子を窺っているとイオリスが急に話を変えた。


「ところで君たちの世界って空を飛ぶ乗り物があるんでしょ?」


時々尋ねてくる地球の話だ。あれこれと聞かれるのに一つずつ答えていると、控えめに部屋の扉が叩かれた。


「少し早いですが、やはりこちらにいましたね」


イオリスが迎えに出る。入ってきたのはスフェンだ。


「私も、お茶を頂いても?」


スフェンに訊かれてお茶を淹れに立ち上がる。二人と話しているうちに落ち着かない気分もいくらか収まって、それからしばらくはまったりとした時間を過ごした。


「よ、コウキ」


次に軽い挨拶と共に姿を見せたのはユークだ。室内を見回して首を傾げる。


「あれ、エルファムは来てない?」

「エルは仕事。見送りには来てくれるって言ってたけど」

「なんだ今日ぐらい休めばいいのに」

「いや、ダメだろ。それにエルには昨日付き合って貰ったし」


何故かユークが呆れたようにこちらを見た。盛大にため息をついている。


「まあいいけど。それよりコウキ、今日は体調良さそうだな」

「え、うん。よく眠れたから。っていうか、ユークも気付いてたの?」


最近あまり眠れていないことは一度も自分から宣伝したことは無い。なのにみんなにバレているとか俺ってばダメ過ぎる。


「コウキは隈が目立つよな。もともと血色良くないし、具合悪そうだとすぐわかる。なんというか幸薄そうなのに拍車が掛かる」

「幸薄そうって……」


ジト目で睨むと、ユークがわかり易く目を逸らした。隣でイオリスが吹き出している。


「血色の悪さで言えばイオリスも負けてないと思う」


なんとなくムカついたからイオリスに矛先を向けると、ユークがうーんと唸った。


「イオリスはさ、ふてぶてしいのと計算高いのが顔に出てるっていうか」

「ちょっと、人聞きの悪い事言わないでくれる?」


さすがに聞き捨てならなかったのかイオリスが口を挟んだ。


「だってお前の信奉者が語るイオリス像ったらないぞ。まるで薄幸の乙女みたいな扱いで、本性を知っている俺としては笑いを堪えるのに必死だ。お前外でどんだけ猫被ってるんだよ」

「ほっといてくれる。あれはあれで便利なんだよ。君こそ『ユークリート王子は皆のものなんです』とかキラキラした目で言っちゃうような薄ら寒いファンばっかりじゃないか」

「お前のは印象操作だろ。俺は別にふつうだ」

「君のは八方美人でしょ」

「そこは処世術と言ってくれ」


二人のやり取りを眺めて、「どっちもどっちですねぇ」とスフェンが俺に耳打ちした。わかるわかる、と頷き返していると、ユークがこちらを向いた。


「そういうわけで、コウキはイオリスみたいになるなよ」

「ちょっとそれどういう意味?」


イオリスが憤慨しているが、俺もなんだか釈然としない。


「なんか褒められている気がしないんだけど」


つまり俺は計算できない愚か者って言われているような気がするのは気のせいか。と、急にユークが俺の両腕をがしっと掴んで項垂れた。


「すっごい褒めてる。お前だけは裏表のない奴でいてくれ。俺の癒し」


絞りだすようなその声に、苦労が透けて見える。俺に癒しを求めなきゃならないレベルとは重症だ。

 哀れになってぽんぽんと目の前の頭を優しく叩くと、ユークは俺に縋ってそのままずるずると座り込んだ。さすがに心配になる。のに、そのユークの頭をイオリスが面白そうに指先でつんつんしている。子供か。可哀想だからもうやめてあげて!

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