第52話
この世界での最後の夕食は騎士団宿舎で食べた。食堂で出会ったラディオは最後ぐらい外で食ってくれば良かったのに、と深い溜め息をついて何故かエルの頭をひっぱたいた。
でももう二度と食べられないから最後は馴染んだ味で締めくくりたい、とエルにお願いしたのは俺だ。そう話したらラディオがすごく気の毒そうにエルを見ていた。なにか悪いことをしただろうか。もしかして最後だから美味しい店とか探してくれてたのかな? もしそうなら申し訳ないことをした。
そんなこんなありつつ、顔馴染みになった他の騎士たちと話をしていたらすっかり遅くなってしまった。エルと部屋に戻ったのは深夜に近い時間だ。普段ならそれぞれの部屋に引っ込むところだが、今日はまだ用事がある。
「エル、悪いけどもう少し付き合ってくれる?」
ドアを開けて声を掛ける。エルは頷いて俺に続いて部屋に入った。
エルに椅子を勧めて、俺はベッドに近づいた。サイドテーブルに置いた腕時計を手に取る。この世界に来て一日の長さが違うと知ってからは仕舞っておいたものだ。
「これ、約束のもの」
この世界に無いものをエルに贈る、という話を忘れていた訳ではない。けれど何にするか迷っている間に随分と待たせてしまった。
「これ気に入ってて大事にしてたんだ。ここでは時計として役に立たないけど、良かったら貰ってよ」
深い紺色の地に白字で数字が振られているだけのシンプルなクォーツ時計だ。ただし光の当たる角度によって文字盤が深い緑のメタリックに輝く。紺から深緑に変わるその微妙なグラデーションに一目惚れした。価格は二万円。貧乏人の俺にしては奮発した買い物だ。
本当は機械式のムーブメントが見える腕時計に憧れているんだけれど、欲しいと思うような精密な作りの時計は手が出ない。デパートの時計売り場で眺めるのが精いっぱいだ。
これもその時に一緒に並んでいた時計で、見掛けてから三日間悩んだ。俺は時計のムーブメントが好きなだけで実は時計自体に興味は無い。時間を確認するならスマホで事足りる。そう思ったけれど悩みに悩んで買ったので大事にしていた。余談だが腕時計は身に着けているとそれなりに便利だと使いはじめてから思った。
「これ、角度を変えると色が変わるんだ。この深い緑がエルっぽいなって思った」
「私のようですか?」
「うん。エルは瞳も綺麗な濃い緑だし、騎士服も深緑だろ? 俺の中でエルは落ち着いた緑色のイメージ。どう、受けとって貰える?」
時計を手渡して、向かいのベッドに腰を掛ける。エルは少しの間腕時計を傾けて文字盤を見つめていた。
「そんなに大切なものを頂いて良いのですか? 確かに貴方のものが欲しいと言いましたが、本当に何でも構いませんよ?」
「俺がエルに渡したいんだよ。何にするか悩んでて、遅くなってごめん」
「いえ。本当に、ありがとうございます。大事にします」
微笑んでくれたエルに俺も嬉しくなって頷く。
「これさ、俺の世界の電気ってやつで針が動いてるんだ。ここに来る前に電池っていう電気を貯めとく容器を取り換えたばっかりだから、あとニ、三年は動くと思うよ」
「そんなに動くのですか。それならば、せっかくですから貴方の世界の時間を教えて頂けませんか?」
「え? うん」
思いもよらないお願いに間抜けな声が出る。それにくすりと笑ったエルに照れ笑いを返して、俺は地球の時間を説明した。
「じゃあ、遅くまで引き留めてごめんな」
エルを部屋の入口まで送るために立ち上がると、手首を掴まれた。
「どうかした?」
後を追うように立ち上がったエルは思いのほか真剣な顔をしていた。揺らぎのある魔法の明かりに照らされた美形の真顔は迫力がある。知らず息を飲む。
「もうひとつお願いをきいて頂いても?」
「えっと、俺に出来ることなら」
タイムリミットは明日なのに今更何か出来るだろうか。そんな思考が過ぎたがとりあえず頷く。エルは俺の手首を握る手に少し力を込めた。
「最後に、抱きしめても?」
「へ? いい……けど」
あまりにも想定外すぎるお願いに動揺を隠せない。なんだ、これはあれか。お別れのハグってやつか。
この世界は欧米の文化に近いからハグの習慣もありそうだ。でも前にラディオとしたような軽いハグならともかく、真面目にお願いされるとすごく照れる。確実に赤くなっているだろう頬に顔を覆いたくなる。たかだか同性とのハグに意識しすぎだろう俺、我ながら引くわ。
そんな俺の心中を知ってか知らずか、エルの両手が背中にまわりぎゅっと抱きしめられる。あ、この方が赤くなった顔を見られずに済む。妙なところでほっとしていると、少しの間そうしていたエルが囁いた。
「本当は、引き留めたいのです」
弱々しいその声に驚いて、もぞもぞと上を向く。辛そうに歪んだ眉に、何か言わないといけない気がして口を開く。声が音になる前にエルの手が俺の口を塞いだ。
「何も言わないでください。ただの私の我儘ですから貴方が気にすることではありません」
寄っていた眉が解け、代わりに少し悲しそうな微笑みに変わる。そうしてエルは俺から離れた。急に無くなった圧迫感がほんの少しさみしく感じる。
「元の世界に戻っても貴方の健康と幸せを願っています」
エルが俺の右手を手に取って言った。そのまま恭しく掲げて指先にキスをする。
……え?
一瞬頭の中が白くなった。まるで映画の中で騎士がお姫様にキスをするような場面だ。なかなかに絵になる。相手が俺でさえなければ。
「え、えええええ、エル?」
真っ赤になった俺に、エルが頬を緩める。
「可愛いですね」
え、何言ってんの、この人? いや、まあ確かに指先へのキスひとつで赤くなるとかあれか初心すぎるってやつか。でも俺はパーソナルスペース広めの純日本人だ舐めんな。混乱しすぎて内心でキレていると、俺の手を掲げたままエルが笑った。
「私はお母様ではありませんから」
「お母様って?」
「スフェン殿に聞きました」
頭にはてなマークを浮かべたが、その名前に思い出す。そういえば「エルはお母さんみたいだ」なんて話をスフェンとした。う、まあ確かに同年代の野郎に、お母さんみたいとか言われたら微妙だよな。
「あー、ごめん。悪気は無かったんだけど」
「いえ、親しみを込めて下さるのは嬉しいのですよ」
そうしてまたエルが俺の指先に唇を落とそうとしたので慌ててエルの手から抜き取った。左手でひっこめた手を握り締める。……て、何してんの俺。これでは動揺してますって宣言しているようなものだ。たかだか挨拶一つでダサすぎる。
「耳まで真っ赤ですよ」
ふっと口元を上げて笑う姿は間違いなくイケメンだ。無駄に溢れ出る色気が眩しい。俺が女の子で無いのが心底申し訳ない。そのキメ顔、俺に使う必要ないよね?
「ううー、なんかちょっと意地悪じゃない? お母さん扱いしたのは悪かったよ」
情けなさと恥ずかしさがすぎて涙目だ。これ以上からかうなら逆ギレるぞこの野郎。
「怒っているわけでは無いですよ。それより、今日はもう遅いですから休みましょうか」
今度こそドアに向かったエルに、コクコクと頷く。そうして下さい、俺のライフはもうゼロです。部屋から出たところで、エルが見送りに出た俺を振り返った。
「あー、と。エル、今日は長い時間付き合ってくれてありがとう」
少し冷静さを取り戻した俺が改めて礼をすると、いいえ、とエルも穏やかに返した。
「じゃあ、おやすみ」
「コウキ、貴方最近あまり眠れていないでしょう」
うぐ、バレてるし。
いつもの説教を覚悟して身を固くする。予想に反してエルは俺の前髪を右手で掻きあげた。戸惑う俺を無視して、エルは俺の額に唇を落とす。
「体調が優れないときによく眠れるおまじないです。では、おやすみなさい」
パタン、と何事も無かったかのように目の前でドアが閉じられる。本日二度目の衝撃に再び頭が真っ白になった俺は、ドアに縋ってズルズルと座り込んだ。
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