第51話

 とうとう明日にはこの世界を離れる。なんだかもうすでに夢みたいだ。起きた早々自分の頬を抓って痛いのを確かめる。ぶっちゃけ夢の中で頬を抓ると痛くないって誰が決めたんだよ、と思わなくもないが、思わず実行しちゃったから刷り込みとは恐ろしい。

 午前中は騎士団長ことクロームや他の顔見知りに挨拶に回り、午後はエルと街へ出た。最後の思い出に、と目的もなくフラフラ歩くのにエルは黙って付き合ってくれている。高台の公園へと向かう途中の見晴らしの良い坂道から、教会の屋根が見えた。俺の視線の先に気付いたのか、エルが言った。


「寄りますか?」


エルを見上げて、ほんの少し考える。そしてゆっくりと首を振った。サナやシェールに会ったら間違いなく決意が揺らぐ。もう少しここにいても良いんじゃないかと思ってしまう。気遣わし気に眉を寄せたエルに笑い返してまた歩き出した。

 すぐに辿り着いた公園には誰もいなかった。いつもは子供が駆け回っているのに珍しい。


「この公園さ、以前シェールに連れてきて貰ったんだ。この辺一帯が見渡せて気持ち良いところだよな。俺、高いところ結構好き」


公園の手すりに凭れて街を見下ろす。整然と並んだ家々の屋根や、窓辺に飾られた植物がまるで欧州の旅行雑誌のようで美しい。でもここは地球上のどこでも無い場所だ。ふ、と小さく息を漏らす。


「コウキ、最後に案内したい場所があります。もし他に行くあてが無いのならついてきて頂けますか?」


とくに目的があって歩いていた訳ではない。頷くと少しほっとしたようにエルは頬を緩めた。それからしばらくエルはまた俺の散歩に付き合ってくれた。




「わっ、すげぇ」


 頬にあたる少し強い風、一番星の輝く紺と茜の混じった空、橙に染まる街と、遠くに見える王城の尖塔に歓声を上げた。カフェで休憩した後、エルに連れられてやって来たのは城下をぐるりと取り巻く街の壁の上だった。百年前の戦乱時は外敵の侵入を防ぐ砦として機能していたここは、平和となった今は一部を観光地として開放している。

 この街は王城を中心に、貴族エリア、庶民エリア、この壁を挟んで貧困地区が広がっている。俺の行動範囲は、貴族エリア寄りの庶民エリア(教会があるのはこの辺りだ)までなのでこんなに遠くに来たのは初めてだ。徒歩で簡単に来られる距離ではないので、転移の魔法陣を使った。

 壁の上に出るまでに長い階段を登って足はガクガクだが、こんなに素晴らしい景色を見られるなら登った甲斐がある。他にも観光客がいるが、なんせ街をぐるっと囲む長い長い壁だ。遠くにぽつりぽつりと見える人が夕闇のシルエットになって、却って雰囲気があるくらいだ。壁に当たって吹き上げる少し強い風がフードから覗く前髪を揺らして気持ちが良い。

 反対側まで歩いて外を見下ろす。右の方に城下の壁の中から続く広い街道と、それに沿って並ぶいくらか大きな建物が見える。そしてわりと整然としている壁の内側とは明らかに違う、小さな家が雑然と密集した街並みが見えた。

 『壁外』と呼ばれるラディオの育った第三外区は、戦争後に難民が集まって作ったそうだ。ラディオの間延びした話し方は他国の言葉の訛りが残っているためらしい。


「……あれ、なんだ?」


壁の内側にも、外側にもきっと様々な人生があるんだろう、そう思ったら意識をしないままポツリと涙が零れた。可笑しい、俺そんなに感受性豊かなタイプではないんだけど。


「何か、言いました?」


エルが近づいてくる。少し風が強いから内容までは聞き取れなかったようだ。慌てて目元を拭う。なんだかよくわからない涙を見られるわけにはいかない。

 振り返って手摺に背をあずける。恥ずかしいけど話しておかないと。


「俺さ、この世界に来てよかったよ」


エルが驚いた顔をする。それはそうだ、あんなに元の世界に返せと騒いだのは俺だ。


「俺さ、元の世界にいた時、生活になんの不足も不満も無かった。でもなんの満足もなかったんだ。ただただぼんやりと毎日を過ごしてた。でもここに来て、みんなと知り合って、不足が無いってどれだけ恵まれたことなのか気付いたよ」


俺と出会ってサナは教会を出ることになったけれど、本来はサナは望まない聖職者の道を歩むはずだった。シェールも皆と違う自分を責めて過ごしていただろう。及ばずながら、それについては少しだけ彼らの助けになれたと信じたい。

 でも本人の望まない生活を強いられているのは世界にこの二人だけではない。地位も経済力もあって何不自由ないと思っていた貴族だってそうだ。実際、ユークやイオリス、スフェンも不自由ばかりだ。皆それぞれの立場で自分と折り合いをつけて生きている。


「うわっ」


 ひときわ強い風が吹いて、髪を隠すためのフードが取れた。ローブの端もバタバタとはためいている。


「風、強くなってきたな」

「そうですね」


藍色の濃くなった空を見上げると、エルが俺の隣に並んだ。


「俺、無償の愛なんて信じてなかったんだ。ずっと条件付きの愛しかないって思い込んでた。愛して貰うには良い子でいなくちゃいけないってずっと思ってた。でもここの人たちは何者でもない俺に優しくしてくれた。我慢しなくていいって言ってくれた。そうしたら、少し『自分の気持ち』を外に出すのが怖くなくなったよ」


そうは言っても「自分」を外に出すのはやはり照れ臭い。誤魔化すように笑って隣を見る。夕陽に染まったエルはじっと俺を見ていた。


「エルがもっと『甘えて欲しい』って言った意味がようやく分かった気がするよ。俺、今までずっと心配をかけるのは悪いことだと思ってたんだ。でもここに来て、誰かに心配して貰えるのは嬉しいことだってやっと気付いた」


エルの顔が泣きそうに歪む。美形はどんな表情しても美形だな、と場違いな感想を浮かべて目の奥に込み上げてきた感情を抑え込む。


「今までありがとう、エル」


笑え、笑え、と念じながら笑顔を作る。上手に笑えたかはわからないが、とりあえずエルに伝えなきゃいけないことは言えた。


「どう、いたしまして」


僅かな沈黙の後、エルが掠れた声で答えてくれた。瞳の深い緑は今は薄闇に陰って見えない。少し残念だ。

 振り返って手摺に両手を掛ける。夕陽を遮られて壁の下の家は一足先に夜が来ていた。


「上手く言えないけど、世界が広がったって気がする」


 異世界だから文字通り世界が広がったわけだけれど、それだけじゃなくて、視野が広がったというのだろうか。この世界で知った不自由さも、この世界で知った優しさも、きっと地球にも同じように存在していて、ただただ俺が見過ごしてきただけだ。


「俺さ、元の世界に帰ったら今までより少し優しくなれる気がするよ。エルと、みんなのおかげだ。ありがとな」


さっきのお礼は今までの分、今のお礼はこれからの分。今度はちゃんと笑ったはずだ。エルの唇が何か言いたげに動いたけれど、音が形になることは無かった。

 それからしばらく二人で街を眺めていたけれど、エルがポツリと言った。


「もう夜になりますから、戻りましょうか」

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