第49話
目を覚ましたのは暗くなってからだった。ぼんやりした頭で、いつもと違う天井が見えることを不思議に思う。首だけを動かして辺りを見回すと、窓から夕陽の残りの茜色が見えた。そうだ、泣き疲れて患者用の個室のベッドを借りて仮眠をしたんだった。
慌てて跳ね起きると、ぐらりと頭が揺れた。目を瞑って立ち眩みをやり過ごす。明らかに宰相との約束の時間は過ぎている。スフェンは宰相が来たら起こしてくれると言っていたはずなのに、宰相に別の用事でも出来たんだろうか。
今度はゆっくりとベッドから立ち上がって、個室の扉を開く。その音に気付いたのか、テーブルを囲っていたスフェンと宰相が顔を上げた。
「ああ、起きましたか」
「具合はどうだ、コウキ殿?」
心配気に眉を寄せる宰相と目が合う。
「あ、いえ、ただの寝不足なんで、もう平気です」
答えながらちらりと時計を見ると、六時間近く寝ていたことに気付く。おい、マジか。この世界は一日が長いので地球にいるときよりも基本睡眠時間が長い。その生活に慣れたとはいえ、転寝で六時間とか仮眠の域を超えている。どんだけ寝不足だったんだ。
「あの、宰相。もしかしてずっと待っててくれたんですか?」
「まさか。コウキ殿が眠っていると聞いて、戻って他の仕事を片付けてきた。ついさっきここに来たばかりだ」
「そうですか」
二度手間になったのは申し訳ないが、待たせていた訳ではないなら良かった。
「コウキ、お腹空いたでしょう。おやつ食べませんか?」
テーブルの上には焼き菓子が乗っている。スフェンがお茶を用意しに立ち上がった。
「あの、俺自分で淹れるよ」
「良いから、最後くらい甘えておきなさい」
少しの命令口調に、さっきの醜態を思い出して動きが止まる。椅子を指さされて、はい、と良い子のお返事をして大人しく座った。
「相変わらず白いが、体調が悪いというわけではなさそうだね」
宰相が俺の顔をまじまじと見る。スフェンになんと聞いたのかはわからないが、さすがに寝不足の上泣き疲れて寝ました、なんて自分から言う気にはならない。
「本当にちょっと寝不足だっただけです」
「それならいいが。睡眠不足も重なると体調を崩すからね。眠れない原因があるなら早めに言いなさい」
「ありがとうございます」
いつもは笑顔が怖い宰相に、思いのほか優しい目を向けられて面映ゆい。この人たちは一体どこまで把握しているのか。大人ってすごい。一応自分も歳だけは大人の枠組みに入っているのに大違いだ。将来はこういう風に歳を重ねたいものだ。
「さて、じゃあ少しだけ仕事の話をしようか」
お菓子を食べ終えた後に、宰相が切り出した。俺が一服するのを待っていてくれたらしい。今日の議題はすでに聞いている。地球へ帰る前に、役立つ情報があればまとめて教えて欲しいと頼まれていたのだ。
「はい、ええと、」
軽く纏めてきたメモをポケットから取り出す。
ビタミンAは肉や魚などの動物性食品に多い。特にうなぎやレバー。また緑黄色野菜にはβ-カロテンという物質が入っていて、これは体の中でビタミンAに変わるためプロビタミンAと呼ばれる。ビタミンAは皮膚や喉、消化管などの粘膜の機能を守り、感染症の予防に役立つ。他に、ビタミンAは目の網膜で光を感じるのに必要なロドプシンという物質の成分となる。ビタミンAが不足すると光を感じる力が弱くなり、暗いところでは目が見えにくくなる。
ビタミンB12は葉酸と協力して正常な赤血球を作る働きを持つ。不足すると悪性貧血(鉄分不足の貧血とは別のもの)になる。基本ビタミンB12は動物性食品を食べていれば不足することはほとんどない。ただし植物性食品にはほとんど含まれないので、ヴィーガンなどの厳しい菜食主義の人は注意が必要だ。また、葉酸はビタミンの一種で、野菜や豆などに多く含まれ、普通に食事をしていれば不足をすることはほとんど無い。
ミネラルの一種、亜鉛は舌の「味を感じる細胞」を作る。不足すると味覚障害を引き起こし、それが食欲不振に繋がることも多い。肉や魚など多くの食品に含まれる。不足することはまれだが、現代の日本では極端な偏食や加工食品に偏った食生活で味のわからない人が増えていると言われている。
「と、こんなところかな」
日本とこの世界では環境が違うので、どれだけ役に立つかはわからないが、知っていれば参考程度にはなるだろう。そのほか思い出せる限りいくつかの話をすると、長い話にも関わらずスフェンは丁寧に書き留めてくれた。本当は俺が文書に出来ればいいんだけれど、そこまでこの国の言語は上達していない。
一通り話し終わって冷めたお茶で喉を潤していると、宰相が言った。
「為になる話をたくさん聞けた。感謝する、コウキ殿」
「いえ、役に立てたなら嬉しいです」
「叶うならば、一度あなたの世界に行ってみたいものだな」
「きっと驚きますよ。もしみんなが来たら俺も案内したいところがたくさんあります」
実現するはずのない願いに、俺もあり得ない返事をする。そんな日は一生来ないとわかっているのに、いつかその日が来ればいいのにと願わずにはいられない。
「セラフィス様、短い間でしたが本当にお世話になりました」
宰相、と呼ぶのはなんだか味気ない気がして、初めて名前を呼んだ。少し驚いた後、真冬の早朝のような澄んだ薄水色の瞳が柔らかく笑む。きっと誰より厳しい世界を覗いているはずなのに、この人はとても綺麗だ。
「こちらこそ世話になった。あなたの知識がこれから救うこの国の人間の数を考えれば、あなたがここで大事にしていたものくらいは私が守ると誓うよ。安心して帰りなさい」
本当に、この人は、どこまで気が付いているんだろうか。泣きたくなるほど寂しいのは変わらないけれど、でも心の一部がすっと軽くなる。
「しかし、別れの挨拶にはまだ早いな」
悪戯っぽく宰相が笑う。まだ早いとはどういうことだ。
その時、部屋の扉をノックする音が響いた。スフェンが迎えに出ると、イオリスがひょっこりと顔を出す。その後にユークが続いた。
「セラフィス様、エルとラディに夕食ここに運ぶように頼んどいたよ」
「ああ、イオリス殿。助かる」
「よ、コウキ」
ユークが軽い挨拶を寄こすので、俺も返事をしてから宰相を見た。
「あの、宰相、これは?」
「先日、コウキ殿に聞いた、新しいゲームの試作品が出来たのでね。ルールや遊び方の確認も兼ねて、今夜は徹夜でゲーム大会だ。コウキ殿は先ほどまで寝ていたし、ちょうど良いだろう?」
「え、と、マジで?」
思わず素が出た俺に、宰相が目を細めた。
「今夜は寝かさないぜ、コウキ」
ユークが俺の顔を、曰く「顎クイ」して残念な台詞を吐いた。あまりのことに、しんみりした気持ちはどこかへ吹き飛んでしまった。なんだか楽しくなってきて声を立てて笑うと、自分が笑われたと思ったのかユークが口をへの字に曲げた。確かに別れの挨拶をするにはまだ早そうだ。
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