第7話
異世界へ来てから十日が経過した。先日与えられた騎士団宿舎の部屋は、エルと相部屋とはいっても、充分にプライベートは守られる作りだった。廊下から入口のドアを開けると小さなスペースがあり、そこから左右に隣り合った一部屋ずつに入室するようになっている。トイレはこのスペースの奥だ。部屋はそれなりに広いし、ドアも付いているので、同室者の部屋に入るときにはノックも出来る。つまりほとんど一人部屋だ。
そして残念ながら風呂は無い。そもそもここには入浴という概念が無い。なぜなら体も衣服も魔法で綺麗に出来るからだ。仕組みはトイレを流すのと同じで体の汚れを転移させるのだそうだ。転移の魔法は対象の重さに比例して扱いが難しくなるらしく、体の汚れ程度なら魔法陣も要らないそうだ。ただし魔法が使えない俺は、一日に一度エルにご協力を願っている。魔法で体を綺麗にして貰うと確かにさっぱりした感覚はあるんだけれど、なんだかすごく物足りない。ああ、風呂に入りたい。風呂に入りたい。大切なので二度言いました。
「……はぁ」
集中力を欠いた俺は無意識にため息をついた。なぜなら現在語学のお勉強中だからだ。正直もう飽きた。この世界の言葉は通訳の腕輪で話せるようにはなっているのだが、文字を読むことは出来なかった。イオリスに魔法で何とかしてくれと泣きついたが無理だった。
ゆえに、齢二十五を過ぎて、今こうして目の前に絵本を広げているのである。おまけに文法も発音も日本語とは違うので、仕方なく腕輪を外して一から学んでいる。辞書や教科書なんてあるはずもなく、腕輪をテーブルに置いて、触れたり離したりしながらエルに少しずつ単語や文法を教わっているのだ。
「大丈夫ですか?」
エルが心配そうに俺を見る。毎日の仕事を終えた後に、エルは俺の勉強に付き合ってくれている。昼間はスフェンにも教わっている。二人には重ね重ね申し訳ないとは思うが、でも俺も好きでここにいる訳ではないのでその辺りは目を瞑ることにした。
「ああ、ごめん。平気」
せっかく教えてもらっているのに集中していないのは良くない。ぶんぶんと首を振って頭を切り替える。
実は地球とこの世界の一日の長さの違いの所為か、完全に体内時計が狂っている。常に怠いし眠いしあまり体調が良くない。腹も凭れ気味で明らかに食欲も落ちている。
「今日はもう休みますか?」
「ん、いや、もうちょっと頑張る。いつまでもエルに時間割いてもらうの悪いし」
「私のことは気にしなくて良いですが、でもまだこちらに来て数日ですしそんなに無理して覚えなくても良いのでは?」
「んーでもあんまり暇してると、元の世界の事とか考えちゃって。なにか他の事に集中してた方が気が紛れるし」
「……それは、本当に申し訳ありません」
ほんの少し黙ったあとエルが悲しげに目を伏せる。
「え、あ、違うごめん。別にエルを責めるとかそういうつもりはなかった」
俺としては特に深い意味もなく口にしただけだ。けれどエルは思ったよりも深刻に受け止めてくれた。俺が慌てているとエルは少し笑ってお礼を言ってくれた。本当にまじめで良い人だ。エルには感謝こそすれ責めるなんてあり得ない。
「あー、じゃあ、やっぱり今日はもう休むね」
これ以上話しているとまた余計なことを言いそうな気がして絵本を閉じた。その俺をじっと見ているエルに首を傾げる。何、と訊ねると、ゆっくり休んでください、と気遣いの言葉が返ってきた。良い人だ。
エルに「また明日」と挨拶して自室に戻った。ベッドに寝転がって、もう一度ため息をつく。暇をしていると、日本のことを思い出してしまうのは本当だ。
うちは母子家庭だ。母親が養護施設育ちで、十八で一人暮らしをして仕事をはじめた。家族経営の小さな工場の事務だ。母親はそこの工場勤務の男と恋に落ちて、子供(俺だ)を授かったのだが、子供が出来たとわかった途端、男はあっさり逃げたらしい。工場のメンバー一丸となって探したが見つからなかった。そんな状況で母親がなぜ俺を産んだのかは謎だ。どうして俺を堕ろさなかったの、とはさすがに訊けなかった。
工場の社長は、そんなクソ男を雇った責任を感じたらしく、俺たち親子に本当に良くしてくれた。母親はそのまま雇い続けてくれたし、母親が働いている間、社長の奥さんが俺のことを面倒見てくれた。社長夫婦には息子と娘がいて、その二人も俺のことを実の弟のように接してくれた。実質俺を育ててくれたのは社長家族だと言って差し支えない。
小さな工場の事務仕事のため、母親の給料は決して高くない。早い話が、貧乏だった。生活はいつもギリギリで、社長の家に親子で転がり込んでご飯を食べさせて貰うなんてしょっちゅうだった。
そんな風に育った俺は、高校に上がってからは常にアルバイトをしていた。高校に行かないで働く、という選択肢もあったが、それは社長に止められた。俺の学費はどうにか工面するから高校にだけは行け、と。幸いにもそれなりに勉強が出来た俺は、高校の先生に大学に行けと散々進められた。
そうして考えた結果、とりあえず資格を持っていれば食いっぱぐれることはないだろう、と家の近くの栄養士を養成する短大に行くことに決めた。なにしろ家から歩いて通える距離にある上に、高校の成績が良かったため利子無しの奨学金が貰えたのだ。通学に時間が掛からないためアルバイトもたくさん出来る。もともと母親が仕事で遅い時には俺が夕食を作っていたので料理も嫌いではないし特に抵抗はなかった。
いざ入学してみたら、三クラス中男は五人だった。笑えない。周りが女子ばっかりでさぞかしモテるかと思いきや、女子の怖いところを目撃することの方が多く恋には発展しなかった。女の子は意外と逞しい。
で、学校に求人が来ていた企業の中からそこそこ名の知れた食品会社に就職が決まった。親の経済力が一生を左右すると言われるこの世の中で、育ちのわりには成り上がった方だと思っている。
奨学金を完済したら、その後は社長一家に学費とこれまでの生活費を少しずつ返却しようと思っていた。それが仕事が無くなるどころか、俺が地球から無くなるとは。人生とは本当に分からない。
こう言っては申し訳ないが、俺の母親は少し頭が軽い。あっさり男に騙されたことも含め、自分の置かれている状況がわかっていないというか。それでも産んで育てて……は、くれてないが、少なくとも住む家と最低限の食事は提供してくれた。
なので母親に対しても愛情はそれなりにある。社長一家とも母親とも、挨拶もなしに離れ離れになったのは気が咎めるし、俺が行方不明になったら心配をしてくれるだろう事もわかるので辛い。せめて連絡くらい出来ればいいのだけれどそれも叶わない。
もう一度ため息をついて、無意味にゴロゴロと転がる。どうしたもんかと、まぁどうにもできないけれど、思いながら目を閉じているといつの間にか眠っていた。
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