第3話
イオリスの部屋から長い廊下を歩いてたどり着いた先で、エルはコンコンコンと三回扉を叩いた。先ほどのイオリスの部屋も今のこの場所も、なんとこの国の王宮内らしい。王宮っていうと高そうな壺とか像とかが飾ってあるのかと思ったが、そういう派手なものは王族の居住エリアや他国との外交の場くらいだそうだ。この辺りは柱の細工は凝っているが調度は意外とシンプルだ。
「どうされました?」
扉が開くと男が顔を出した。短い灰色の髪に灰色の瞳の、やさしそうな面立ちの男性だ。年のころはエルよりいくらか上だろうか。外国人の年齢はよくわからないが、落ち着いた雰囲気も相まって少なくとも俺よりは年上に見える。
「すみません、スフェン殿。一晩ベッドを貸して頂けないでしょうか?」
部屋に通されて、俺と灰色の髪の男が互いに自己紹介したあと、エルは一連の事情を話し始めた。この灰色の髪の男性はスフェン・フォーダイトという名で、この王宮の治癒師のトップらしい。治癒師とは魔術師のなかで回復魔法に特化した人たちで、この部屋は王宮内の医務室のような扱いらしい。患者用のベッドもある。突然異世界に放り込まれた俺は、当然生活の当てもなく、エルが俺の扱いを決めるまで、当面の泊まる場所として連れてきてくれたのだ。
「ああ、なるほど。イオリス様が原因ですか」
少しだけ呆れたように呟いて、スフェンが俺を見る。灰色の瞳でじっと見詰められて、居たたまれなくなった俺はとりあえず愛想笑いを浮かべた。
「大変でしたね、治療用の簡易なベッドなので快適さは保証出来かねますが、そういう事でしたらどうぞご使用ください」
俺を安心させるように穏やかな笑顔でそう告げて、スフェンは室内を案内してくれた。
簡易ベッドとはいえ、それぞれ小さな個室に備え付けられていて、プライベートは守られる空間だった。とりあえずスーツケースを置いて、今後について話し合うことになった。
ひとまずお茶を淹れてくれるというスフェンに、作業を見せてくれるように頼んだ。最初驚いた顔をしたスフェンだが、俺はこの世界でお湯を沸かす方法ひとつ知らない。そう言うと納得したのかひとつひとつ説明してくれた。
まず水は王城内にある井戸からこのスフェンの仕事部屋にある
その水をポットに淹れて、今度はまた違う布に刺繍された魔法陣に乗せる。そうしてしばらく待つとポットのお湯が沸き始めた。まるで瞬間湯沸かし器! 直接火を使うわけではないから、火事の心配もない。折りたたんで持ち運びも出来るらしいし、なんて便利なんだ。欲しい! と、ひそかに感動している俺の横で、スフェンは着々と作業を進めている。あとは茶葉を入れたティーポットにお湯を注いで、ティーカップに注ぐという、見慣れた動作だ。
俺、スフェン、エルの三人分のお茶を用意して、皆でテーブルを囲んだ。突然異世界に飛ばされてからようやく一息ついた気がする。俺がふぅと息を吐きだすと、二人ともほんの少し申し訳なさそうに微笑んだ。
三人での打ち合わせの結果、エルが俺の住む場所を手配してくれることになった。
「エルは関係ないのに迷惑かけてすみません……」
今回の件について、俺はもちろん悪くないが、エルはもっと悪くない。それなのにエルにばかり負担が行っている気がする。そもそもイオリスが対処すればよくね? と思わなくもないが、あいつに任せたら余計にこじれる気がする。
「イオは、あ、いえイオリスは私の母の姉の息子、つまり従兄弟ですので、慣れていますからお気になさらずに」
「エルファム様とイオリス様は幼い頃からのお付き合いで仲良しだそうですよ」
「仲良し、というか腐れ縁、というか……」
スフェンがどこか同情するような目をエルに向けている。つづけて何かを諦めたように言葉を濁したエルに、俺は大体の事情を察してしまった。おそらくトラブルメイカーなイオリスのフォローを小さい頃からしていたのだろう。それで騎士団副団長なんて偉い立場なのにこんなに腰が低いんだ、エルファム、可哀そうな子……!
とりあえず俺の身柄と扱いはエルが関係者と相談するということになり、その日はお開きになった。夕飯時にまた迎えに来てくれるというエルを、ひとまず一人で落ち着きたいからと断って、俺は貸してもらった小部屋に引きこもることにした。
エルと共にスフェンも出て行き、一人残された俺は成田空港で食べるように買っていたパンとペットボトルのお茶で簡単な夕食を取っていた。左手には先ほどスフェンに貰った小さな
先ほどお茶を淹れるときに使った魔法陣は、魔力で作動するとかで、試しに俺もお湯を沸かそうと挑戦してみたが魔法陣は何の反応も示さなかった。要するに俺には魔力がゼロらしい。マジか。異世界人感あーるー。
で、この珠はこの世界で生まれつき魔力が少ない人だとか、魔法を使いすぎて魔力が空になった人とかが一時的に持つものなんだそうだ。魔力は体力みたいなもので、安静にしていると自然と回復していくらしい。何かにつけて魔力が必要となるこの世界では魔力ゼロはなかなかに不便だそうで、この珠をスフェンに貰った。
なによりこの珠は、トイレに行くのに必須だった。魔力なんてファンタジーな話をしているときに汚い話で申し訳ないが、過敏性腸症候群の俺にとってトイレの確認は死活問題なんだよ本気で。
この医務室の端にもトイレは備え付けられていた。小さな個室の中には、一段高くなった床に細長い容器がはめ込まれている。例えるなら長方形の植木鉢が床に埋まっているような感じだ。そして入口から遠い方の短辺に衝立がある。日本でいうと和式トイレに似ている。ただしそこには使用後に流す穴も水もない。え、これ用を足したらどうすんの? と青い顔で尋ねると、スフェンはトイレの右壁に作られた棚に乗っていた四角形の紙(トイレットペーパーの代わりらしいが、ちょっと固い)をクシャっと丸めて長方形の容器に放り込んだ。そうして衝立に手をかざす。すると驚くなかれ、瞬くほどの一瞬で丸めた紙が消えた。うん、意味が解らない。
俺が驚いてパチパチと瞬きを繰り返していたのが面白かったのか、少し笑ってスフェンが仕組みを説明してくれた。先ほどスフェンが手を近づけた衝立の裏側に、転移の魔法陣が貼り付けられていて、その魔法陣に魔力を注ぐと汚物は綺麗さっぱり転移するらしい。容器の外にこぼしちゃった分も綺麗になるらしい、つまり掃除いらず。マジか。
今日何度目かわからない「マジか」を口に出してから、恐る恐るその汚物がどこに転移するのかも聞いてみた。宇宙空間(がこの世界にあるかは知らないが)とかに俺のうんこを放り出すとかだったら嫌すぎる。質問の答えは、王宮の外に汚物を貯める施設があってそこに送って処理をしている、だった。汚物を貯める槽には風の乾燥魔法が掛けられていて急速乾燥した上に、汚物がいっぱいになったら火の魔法で灰にして、転移魔法で土の中に埋めるらしい。うわぁ、なんて清潔で理にかなった処理システム。魔法すげえ。これで俺は心置きなく用を足せます。俺飛ばされたのがこの世界で良かった神様ありがとう。
で、このトイレを使うためには魔力が必要で、魔力の無い俺は先ほどの珠を貰ったわけだ。試しに俺も長方形の容器(早い話が便器)に紙を放り込んでからその珠を衝立に近づけてみたら一瞬で紙が消えた。何気に本日一番感動した。
そんなことがあったのがかれこれ一時間ほど前。ちなみに今目の前に置いてあるランプの光源も魔法だ。これもスフェンの珠に魔法陣が反応して自動で明かりが点いた。スフェンさまさまだな、なんて思いながら綺麗な珠を見つめながら夕食を食べ終える。いつもなら暇潰しにスマホでも眺めるところだが、普通に圏外なので早々に電源を切った。
「あーもう、とりあえず寝るか」
いろいろありすぎて思考が追い付かないし、今までのことは長い夢で寝て起きたら覚めてくれ、という願いが無きにしもあらずで、俺はさっさと眠ることにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます