第2話

「つまり最低一年は帰れないってわけか」

「そういうことだね」


 俺の地を這うような不機嫌な声に、イオリスはあっさり頷いた。先ほどの絶叫からこっち、イオリスを問い詰めた話の概要はこうだ。

 この世界には、魔法とそれを行使する魔術師ってものが存在していて、魔術師は「魔言師まごんし」と「魔絲師ましし」に分かれている。いわゆる呪文を唱えて魔法を使うのが魔言師、魔糸ましという魔力を帯びた糸で布に魔法陣を刺繍して色々な魔法効果を起こすのが魔絲師らしい。魔力を持ってさえいればどちらにでもなれるが、魔言師には、長く複雑な呪文の詠唱を覚えられる記憶力が、魔絲師には複雑な刺繍を刺す根気と器用さが必要らしい。

 この世界の人間は誰でも魔力を持っているが、王族を筆頭に貴族の方が高い魔力を有する。このイオリスはオルファニアム王国で一、ニを争う魔術師(自称)らしく、そのイオリスが一年と二ヶ月掛けて地道に刺繍したのが、先ほど魔力がすっからかんになった俺を召喚した魔法陣だということだ。つまり俺が元の世界に帰るには、またイオリスが一から地道に魔糸で魔法陣を刺繍しなければならないのだ。本人は、まあ慣れがあるから、今度は一年くらいで完成するんじゃないかな、とか軽く言っているが。

 一年帰れないって、仕事はどうすんだ。いくら海外旅行で長期休暇を取得しているとはいえたった十日間だ。それ以前に一年間行方不明って警察沙汰じゃねぇの、失踪届とか出されちゃったりして。わ、笑えねぇ……。泣けばいいのか怒ればいいのか解らないけれど、たぶん怒っても解決はしない。冷静になれ、俺。

 ちなみに俺は、とある食品企業の研究開発部に勤めるサラリーマンだ。一応管理栄養士免許を持っている。普段はカップラーメンの粉末スープの開発をしている。あちこちのラーメン屋へお邪魔して、美味しいと感じた物は粉末スープに応用できないかと考えるのが日課だ。ラーメンは好きだし、仕事にやりがいも感じているが最近ちょっと困ったことになっていて、仕事を続けるか考えている。なぜなら、過敏性腸症候群が悪化したからだ。

 もともと物心ついたときから腹が弱かった俺だが、日常生活に支障をきたすほどではなかった。ところが仕事を始めてから、ラーメンの食べ歩きや開発途中の商品の試食で四六時中物を食べていたり、仕事中に何時間もガスコンロの前にいて汗をかき、そのまま冷凍庫に食材を探しに入るなどの肉体的過酷さ、さらに学生とは違う仕事のプレッシャーのストレスからか、しょっちゅう腹を壊すようになってしまった。特に、緊張が強いときは急に腹が下ったりするから油断がならない。幸いまだ軽症なのか、ニ、三度トイレに駆け込んで便を出し切ってしまえば下痢は収まるのだが、歩いている時に急に行きたくなったりして結構困る。そのくせ、その後に何日も便秘が続いたりするのだ。常に腹の調子が悪く食も細い。病院で色々な検査をしたが特に原因となる病気は見つからず、過敏性腸症候群と診断された。

 そのためこの生活を定年まで何十年も続けるべきなのか迷っている。今のうちにもっと体に優しい職に変えるべきではないのか割と真剣に悩んでいるのだ。だからまあ、こんな事態になってしまった以上、仕事がクビになるのはまだ許容範囲だ。けれど一年間音信不通の行方不明はいただけない。ほかの方法で帰ることはできないのかと、さっきイオリスをさんざん問いつめたが無理だと言われてしまった。つまりこれは、考えても解決しない案件だ。そう納得するしかない。


「って、納得出来るかーーーーーー!!! いいから元の世界に戻せーーーー!!」


急に叫び出した俺に、イオリスが両耳を抑える。何迷惑そうな顔してんだ。そもそもの原因はお前のろくでもない好奇心のせいだろう。


「おい、どうした!」


 その時、後ろで乱雑に扉が開いた。そのまま一人の男が駆け込んでくる。深い緑色の中世ヨーロッパの騎士のような衣装を着ている彼は、腰に剣を帯びている。その右手は柄の部分を握っていた。

 おい、ちょっと待て。俺はまだ死にたくない。


「あ、エル。ちょうど良いところに。悪いけど、この子落ち着くまでちょっと引き取ってくれない?」


イオリスが俺を指さす。いきなり話しを振られた男は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。当然だ。突然すぎる。


「いや、ちょっと実験してみたら失敗しちゃって」


イオリスが今の状況をかいつまんで男に説明した。その話を聞きながら、男の顔色がみるみる悪くなっていく。すべてを聞き終って、男は床に片膝をついて頭を下げた。


「大変申し訳ありませんでした、コウキ殿。どう詫びればいいのかわかりませんが、ひとまず謝罪だけでもさせてください」

「え、あ、そんな。頭を上げてください」


自分よりも焦っている人間がいると落ち着くっていうのは本当らしい、突然の常識人の乱入にいくらか混乱が収まった俺は、とりあえず怒りを鎮めてこれからのことを考えることにした。



 隣を歩く男の横顔をこっそりと見上げた。身長百七十二センチの俺が見上げる高さにあるので彼は百八十センチを超しているだろう。エルファム・オブリディアンという、舌を噛みそうな名前の彼は騎士っぽい服装の通り、本当に騎士団員でしかも副団長らしい。クセ毛のようでところどころちょいちょいと跳ねている茶色い髪に、エメラルドのような濃い緑の瞳をしていてこれまた美形だ。今は申し訳なさが前面に出ているせいか眉が下がっている。騎士団というだけあって鍛えているのだろう、長い脚と均整の取れた身体はいわゆる細マッチョという部類だろうことが服の上からでも窺える。

 イオリスは美人とはいえ俺に負けないくらい貧弱そうだったが、この人は誰が見てもスタイルの良い美形だ。腹が弱いせいですぐに痩せるのに加え、鍛えても筋肉が付きづらいうえに、顔は十人中一人くらいは格好良いと言ってくれる程度の平凡に毛が生えたレベルの俺は大いにコンプレックスを刺激される。顔は仕方がないにしても、せめて俺もこの半分くらいは筋肉が欲しかった。もやしっ子は体力がないうえに、寒さにめっぽう弱い。筋肉なんて贅沢は言わない、せめて脂肪でいいからもう少し欲しい。


「あの、コウキ殿、何か?」


 つらつらとそんなことを考えていると、その視線に気付いたのか、エルファムが話しかけてきた。おっと、さすがにじろじろ見すぎたか。取り繕うようにへらりと笑う。


「エルファムさん。俺の名前は呼び捨てでいいですよ。あとべつに敬ってもらうような立場でもないんで、敬語も要りません」

「それならば私もエルファム、もしくはエルとお呼び下さい。私の敬語はクセのようなものなので、そのままでお許し頂けると有難いのですが、コウキ殿は普通に話して下さって構いませんよ」

「ええっと、じゃあエルって呼びますね。あと敬語を止めていいって言われると正直助かるんですけど、本当にいいんですか?」

「ええ、もちろん。構いません。私もコウキと呼ばせて頂きますね。改めてよろしくお願いいたします」


こちらの価値基準はよくわからないが、少なくとも騎士団副団長というのはある程度偉いに違いないのに、この人はやけに腰が低い。挨拶とともに爽やかに笑った顔も好印象だ。つられて俺も笑い返すと、エルはどこか安心したように息をついた。

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