第8話・わたしのちから

 警備隊本部。ナナからの通報に最初に気づいたのはハシビロコウだった。言葉による情報は最低限のものだったが、ナナたちの行動を知る彼女には容易に現場の様子が想像できた。

 負傷者と思わしきキタキツネのことについて、ハシビロコウはギンギツネから何度も話を聞いていた。その運動能力と戦闘におけるセンスの良さは彼女も良く知るところだ。そして同時に、ギンギツネが姉として彼女のことを気にかけていることも。

 幸いにもギンギツネたちは別の任務で本部にいない。もともとハシビロコウは、ホッカイチホーからの移住の件についてギンギツネに知られたくないと考えていた。彼女がそのことを知れば、たとえ何も起きなくとも他の任務よりキタキツネの警護を優先してしまう。そしてそれは、おそらくキタキツネにとっても望ましいことではないと思ったからだ。

「緊急の任務だ。少し出てくる」

 彼女はライオンがいると思わしき隊長室の扉の前でそう告げると、駆け足で本部を出た。


 イナが目を覚ました時、ことはすでに終わっていた。

 目の前には、地に伏したまま動かないキタキツネと、それに覆いかぶさるようにして肩を震わせるナナ。

 フレンズとしての記憶が極端に少ないイナだが、その様子からだいたいの状況は理解できた。

 キタキツネが大怪我をして、倒れている。あまりにも少ない情報だったが、それはイナの体を動かすにはじゅうぶんな動機となった。

「お姉、ちゃん……?」

 恐る恐る声をかけるが、キタキツネもナナも反応する様子はない。

 次第にキタキツネの深刻さが理解できたイナは、涙が湧き出るのを抑えられなくなった。

 キタキツネがスタッフカーから放り出されたあの時、車内に投げ返された衝撃でイナの意識はわずかに回復していた。そのことを覚えていた彼女は、キタキツネが自分を守ろうとして今に至ったと考えた。彼女の解釈が正しいものかどうかはもはや誰にもわからない。だが、少なくともイナにとって、キタキツネはそういう存在になっていた。

 イナはキタキツネの前で両膝をつくと、その体に触れようとした。しかし、相手に近づくほどに彼女の手は震え、増え続ける涙はより視界を滲ませる。

 その時、わずかに茂みがざわめいた。

 触れたところで何も意味はない。そうわかりながらイナがどうにかキタキツネの顔に指先を触れた瞬間、周囲の茂みからセルリアンが押し寄せた。

 イナは知らないが、キタキツネを襲ったティルセルの群れである。

 イナはとっさにキタキツネとナナを守るように、その体に覆いかぶさった。あまりに小さい体を挺したその行動は、まさに彼女の無力さを物語っていた。

 ティルセルたちは円陣を組むようにしてイナたちを囲み、瞬く間に距離を詰めていく。その内の一体がイナのすぐ背後まで迫り、大きな尻尾を振り上げたその時だった。

 一陣の風が彼女の頭上を通り抜け、ほぼ同時にティルセルのいた場所からガラスの割れるような音がした。

 イナが顔を上げると、彼女の目の前では、灰色のフレンズがティルセルと対峙していた。

 どういうわけか、ティルセルたちはそれから身動きがとれないでいる。そして灰色のフレンズが頭の翼を大きく振ると、それによる強風で彼女たちを囲んでいたティルセルたちが目の前の一か所に集められていった。

「退路は開いた。すぐ避難しろ」

 灰色のフレンズは険しい顔のまま振り向いたが、背後で倒れたままのキタキツネを見て、申し訳なさそうに視線を逸らす。

「……すまない。少し遅れた」

 口調は少し弱くなっていたが、それでも敵を逃がさんとする視線の鋭さは衰えず、ティルセルたちの動きを封じていた。

「俺の目からは逃れられんぞ。今だ、リカオン!」

 その声がするが先か行動が先か、一か所に集められたティルセルはその外側から一体ずつ、削り取るように数を減らし始めた。イナの動体視力ではよく見えなかったが、駆けつけたフレンズはもう一人いた。彼女は身動きの取れなくなったティルセルの弱点を見極め、密集したことで隠れた部分を露出させるように、倒す順番までも計算していた。

 少し間を置いてから、そのフレンズもイナのもとにやって来た。そして灰色のフレンズと並ぶようにしてイナを見つめる。

「あなたは……初めて見る子ですね。私は警備隊のリカオン。こちらはハシビロコウ先輩です」

 リカオンと名乗ったフレンズはイナを安心させるためか、彼女の前でしゃがみ目線を合わせ、少しだけ笑って見せた。しかしその間も頭上の大きな耳を四方に動かし、周囲の警戒は怠っていない様子だった。

「リカオン。お前はそのまま彼女たちを連れてスタッフカーに行け。運転は……ラッキービーストに任せろ。それと……」

 そして、ハシビロコウはキタキツネに近寄り、その体の上で倒れ込んだまま震えているナナの両肩を持ち上げた。

「しっかりしろ。飼育員」

 ハシビロコウはナナの体を強く引き寄せながら、静かに言った。しかしナナの表情は無気力なまま、言葉などまるで入る余地がないように憔悴しきっていた。

「ナナ!」

 今度は強く、今にも目の前の顔に嚙みつきそうな気迫で言う。すると、ナナの視線がわずかにハシビロコウに向いた。

「今すぐ立ち直れとは言わない。だが、切り替えてくれ。お前も飼育員なら、こういった経験は少なくないはずだ」

 ナナの返事を待つこともなく、ハシビロコウはその体を突き飛ばすように放した。ナナは数歩後ずさったが、すぐにバランスを崩して尻もちをついた。

「俺はもうしばらく、警戒を続ける」

 その後、ハシビロコウはすぐに歩き出した。その姿はまさにパークを守る正義の味方といった雰囲気をまとっていたが、座ったままのイナから見えた彼女の横顔は、何かを必死にこらえているようにも見えた。

 自分は確かにキタキツネに、警備隊に守られた。だから今ここにいる。しかし自分は何もできない。それどころかキタキツネを、ナナの心を失ってしまった。イナは言いようのない責任感のようなものに襲われ始めた。

 だが、その時彼女は思い出した。

 これは様々なヒトやけものたちによって何百年、何千年と受け継いできた、守る力です。

 意識を失っていた時に、キツネのフレンズに言われた言葉。そしてそのフレンズは、いつか必ずそれを必要とする時が来るとも言っていた。

 その時が今なのか。守る力という言葉の意味が、自分の望んだものなのか。イナには革新など何もなかった。しかし、彼女は今、万に一つの可能性を信じるほかなかった。

 イナが意を決して再びキタキツネに触れた、その瞬間。

 リカオンがティルセルを倒した場所に、まるで何事もなかったかのようにティルセルが現れた。彼らはイナの動きに反応するように、全く同時に復活したのだ。

 しかしそこは警備隊。ハシビロコウとリカオンの行動は早かった。イナたちの近くにいたリカオンは、最初にイナに襲い掛かろうとした一体を退け、残りの八体は先ほどと同じようにハシビロコウが視線と風で動きを封じている。

 二人とも相手が復活したことには驚いていたが、それでもその行動は迅速かつ的確なものだった。

 しかし、今度は様子が違った。ハシビロコウが動きを封じていた内の一体が突然目を光らせたかと思うと、拘束から抜け出した。

「なっ……!」

 ハシビロコウは思わず声を上げる。残り七体に意識を集中させなければならない彼女は、脱出した一体まで対応できなかった。しかしそれも、手の空いたリカオンがタイミング良く対処する。

 すると次に、また一体が抜け出した。それもリカオンが倒す。

 それは最後の一体まで、まるで二人の力を試すかのように続けられた。結局ハシビロコウは八体すべてを拘束から逃がし、すべてリカオンが倒した。

 そしてリカオンが最後の一体を倒した時、割れたガラスのように散らばった残骸から、またしてもティルセルは復活した。

「こいつら、いったい……」

「俺にもわからん。だが、いくら奴らでも限界があるはずだ」

 警備隊の二人がイナたちを守るようにして構え直す。しかし、ティルセルたちはハシビロコウの意思に関係なく動きを止めた。

 それとほぼ同時に、セルリアンたちの背後、茂みの向こうからやってくる足音が聞こえた。

「っ、そこのお前! ここは危険だ! 今すぐ離れろ!」

 その音に最初に反応したのはハシビロコウだった。彼女は足音とティルセルの間に入るように移動する。

 しかし、彼女の動きはティルセルたちの直前で突然止まった。

 まるで見えない手に捕まれたように体の自由を奪われたハシビロコウ。リカオンは一瞬だけ彼女を助けることを考えたが、イナたちのそばを離れるわけにもいかず、その場に留まった。

 近づく足音。ハシビロコウのさらに向こうからその姿が見えそうになる直前、動きを止めていたティルセルの一体が突然、尻尾でハシビロコウを弾き飛ばした。同時にその一体も道を空けるかのように足音の進行方向から離れる。

 足音の主は、フレンズだった。しかし、リカオンはその姿に体が震えるほどの恐怖を覚えた。

 長く伸びた白髪はその毛先を七色に輝かせ、体中には赤や青の異様な線が走り、巨大な九本の尻尾はまさに彼女を異形と呼ぶにはじゅうぶんな特徴だった。

 圧倒的な迫力を放つ九尾のフレンズに、リカオンは思わず気圧されそうになった。しかし膝が折れそうになるその直前、彼女は走り出した。

 リカオンは本来、戦況分析や判断力に長けたフレンズである。その能力を認められ、彼女は警備隊に入隊した。ゆえに、彼女は戦わずとも相手と自分の実力差がある程度わかる。今回もそうだ。見たこともない異形のフレンズ、セルリアンを操るかのような振る舞い、そして周囲に漂う異様な空気。少なくとも自分一人で敵う相手ではないことは火を見るより明らかだった。それでも、彼女の本能が、単体ではなく群れで生きろと叫ぶリカオンの本質が、彼女を目の前の脅威へと駆り立てた。

「うあああああああっ!!」

 リカオンは吠えた。それと同時に九尾のフレンズは何かを振り払うように右手を外側に伸ばす。するとリカオンの体は見えない壁に弾かれたかのように同じ方向に飛ばされた。

 しかし、まだ体の自由が残っていたリカオンは空中で姿勢を直し、無事に着地した。そして間髪入れず、再び目標に飛びかかろうとした。

 結果はハシビロコウと同じだった。見えない手に捕まれ、今度は頭上からティルセルに叩き落とされ、地面に打ち付けられた。

 二人はその後も地面に拘束されたまま、身動きが取れない状態が続いた。

「や、やめろ……」

 ハシビロコウがひねり出すように声をかける。しかし九尾のフレンズは彼女たちにはお構いなしといった様子でゆっくりとイナに近づいた。

「やっと会えたわね」

 九尾のフレンズとイナの視線が合う。

「あなたは……」

 イナの反応を待つまでもなく、九尾のフレンズは彼女の首を片手で掴み、そのまま持ち上げた。

「さあ、あなたの力をもらうわよ……!」

 その直後、紫色の妖しい光がイナの体を包み込んだ。

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