第7話・しらないきつね

 キタキツネは、ギンギツネよりも活発なフレンズだった。

 だが、フレンズ化してしばらくの間は、ヒトの体に慣れず、よく怪我をしたり体調を崩していた。その度に、ギンギツネは彼女に適切な処置を施していた。

 今、キタキツネの膝の上ではその時の彼女と同じ小さなキツネが苦しそうにうずくまっている。

「ボクは、ボクはどうしたら……」

 スタッフカーに揺られながら、キタキツネは片方の手でイナの頭を撫でながらも、もう片方の手で自らの頭を抱えていた。

「これじゃボクは、イナのお姉ちゃんになんて……」

「キタキツネ!」

 ナナが運転席から、振り返らずに強く呼んだ。キタキツネは涙の浮かんだ瞳でその後頭部を見る。

「落ち着きなさい。それが君の、お姉ちゃんの役目でしょ」

「ナナ……」

「確かにギンギツネ、君のお姉ちゃんはすごい子ね。でも君はあの子とは違う。君はイナのお姉ちゃんになれても、ギンギツネにはなれないのよ」

 ナナも状況のすべてがわかっているわけではない。その焦りからか、彼女の口調はいつもよりやや強めに感じた。

「今はとにかく、冷静に……」

 ナナが言いながら振り向いたその時だった。フレンズの体の半分はあろう大きな黒い尻尾が、スタッフカーの扉を突き破り、そのままキタキツネを薙ぎ払うようにして車の外に吹き飛ばした。

 キタキツネもまた、考え込んでしまったのが災いしてそれに気づくことができなかった。しかし社外に放り出された一瞬、彼女は同時に放り出されたイナを車内に投げ返した。

 キタキツネは左肩から地面に落ちた。キツネの身体能力をもってすれば、例え走る車から放り出されてももう少しまともな着地ができたはずだ。しかしイナを投げたことで体勢を崩した彼女は車の勢いを相殺できず、そのまま何度も転がるようにして道から大きく外れた茂みの中で止まった。

 しばらく深呼吸をして肩の痛みを和らげてから立ち上がると、彼女は辺りを見回した。

 相当遠くまで飛ばされたのか、セルリアンの気配はない。代わりに近づいてくる足音がひとつ。

「あなた、大丈夫?」

 それは、すぐにキタキツネの視界に現れた。先ほどの気配の違うギンギツネである。しかし今度は、少し様子が違う。彼女の目には、その姿がわずかに揺らいでいるように見えた。落下の衝撃で視覚がやられたのかと目をこすると、その一瞬で目の前のフレンズは全く違う姿になっていた。

 キタキツネはその姿に驚いて後ずさりしようとしたが、足がうまく動かずその場でしりもちをついてしまった。

「驚かせてごめんなさい。どうしてそんなに汚れているのか不思議だけど、ちょうどあなたと話がしたかったのよ」

 目の前のフレンズは優しい声で、しかしギンギツネとは全く違う白い手をキタキツネに差し伸べる。しかし、キタキツネは恐怖の顔でそれを拒否した。無理もない。目の前にいるそのフレンズは七色の長髪と九本の尻尾を併せ持つまさに異形なのだから。

「……先に自己紹介をするべきだったわね。わたしはキュウビギツネ。あなたと同じフレンズよ」

 差し伸べた手をキタキツネが取らないのを見てから、キュウビギツネはその手で顔にかけた赤い眼鏡の位置を直した。

「わたしは今、少し困っているの。そしてあなたも似たような問題を抱えている。最近、小さいキツネのフレンズを拾わなかったかしら? こう、小さくて黄色い目の」

 キタキツネは何も言わなかったが、そのわずかな表情の変化をキュウビギツネは見逃さなかった。「そう」とひと呼吸ついてから、彼女は続ける。

「わたしは、その子のことを知っている」

 この時、ようやくキタキツネの思考が晴れた。

「そして、わたしにはその子が必要なの。だからお願い。その子を私のところに連れてきてもらえないかしら?」

 しかし、キタキツネはその言葉に応えることはなかった。恐怖の表情で歯を食いしばったまま、体勢を変えられずに震えている。

「やっぱり、こんな見た目じゃ駄目かしら?」

「……ない」

 キタキツネは目を伏せながら言った。

「えっ?」

「キミの見た目なんか、ちっとも怖くないよ。それよりも……」

 彼女は震える脚で、どうにか立ち上がった。

「キミの危ない匂いの方がよっぼど怖い。お姉ちゃんの見た目じゃなくなった時から、ずっとしてたんだ。キミがどんな子かよく知らないけど、イナはボクの妹なんだ。イナは……」

 キタキツネが飛び上がった。いまだにしびれる肩を右手で押さえながら、牙を見せて威嚇の表情でキュウビギツネに向かった。

「ボクが守る!」

 キタキツネがキュウビギツネの首元に食らいつこうとしたその一瞬、再び右から強い衝撃に襲われた。肩の痛みと目の前の相手に必死になっていたキタキツネはまたしてもそれに対処しきれず、地面に叩きつけられた。

「……そう。ならわたしも少しやり方を変えないとね」

 キタキツネがうつ伏せのまま顔を上げると、冷たく声色を変えたキュウビギツネのそばに大きな尻尾を持った中型セルリアンが浮かんでいた。先ほど彼女を車から吹き飛ばしたものと同じ、ティルセルである。

「この子にはわたしは見えない。そうなるように作ったからね。あなたを消すのは忍びないけど、あなたをけものの姿に戻すことくらいは簡単にできるわ」

 そう言っている間にも、周囲の茂みからキタキツネを囲むように複数のティルセルが現れた。初めからいたものと合わせるとその数実に九体。それらは瞬く間に包囲網を狭め、キタキツネを間合いに入れようとしていた。

 この時ばかりは、キタキツネも背筋が凍る感覚を覚えた。

「初めから、こうすればよかったのかもね」

 それだけ言い残して、キュウビギツネは踵を返す。それを皮切りに、ティルセルたちは一斉にキタキツネに襲い掛かった。先ほどまでの強烈な攻撃ではない。しかし彼女の体には確実にダメージが蓄積されていった。

「待て……。ボクは、まだ……っ!」

 叩きのめされながらも、キタキツネはキュウビギツネの背中に手を伸ばす。しかしその手が相手を掴むことは一度もなかった。


 イナが目を覚ますと、そこは知らない場所だった。

 道は色とりどりに舗装され、それを囲むように背の高い建物が並んでいる。しかし、まるで都市のようなその場所には他の気配が少なかった。

「こんにちは」

 後方から声がした。イナがその方を振り返ると、そこには背の高いキツネのフレンズがいた。長く白い白髪は静かに風に揺れ、真っすぐ上に伸びた大きな耳と尻尾はどこか神秘的ですらあった。

「お互いに初めまして、ですかね」

 背の高いフレンズは笑顔で挨拶をしたが、イナは状況の変化に困惑したまま、それに反応できなかった。

「えっと、あなたは……」

「私はただのキツネです。そしてここはパークセントラル。あなたたちの目指す場所です」

 そのフレンズは半身になって道の向こう側を見せる。するとその先に、巨大な黒い影が現れた。

 黒い影は長い足をゆっくりと動かし、大きな足音を立てて道を進む。イナがその全貌を目にした時には、すでにその体は目の前のフレンズの真上にあった。

 圧倒的な恐怖と圧迫感にイナはひるんで、そのフレンズに危険を知らせることができなかった。しかし目の前の彼女は表情を崩すことなく、淡々と続ける。

「少し前の話ですが、ここではフレンズとセルリアンの大きな戦いがありました」

 黒い影は彼女をまたぐように通過したところで、見えない壁に阻まれたかのように動きを止めた。それを見計らったかのように、その背後から複数のフレンズたちが走ってくる。その中には他のフレンズを抱えて飛ぶトリのフレンズや、スタッフカーを運転するヒトの姿もあった。

 フレンズたちは周りの建物よりも巨大な影を恐れることなく、次々と飛びかかる。影は何度も激しく抵抗したが、やがて激しい光とともに粉々になって消えた。

 勝利を喜ぶフレンズたちを尻目に、キツネのフレンズはイナに近づく。

「私も現場で共に戦い、フレンズが勝利しました。群れの力で巨大な敵を打ち倒す、素晴らしい戦いでした。しかし……」

 そこまで言うと、彼女はフレンズたちの集団に目線を移した。その先では、彼女と同じ姿のフレンズが、一人だけ集団から離れるように歩いていた。

「私はこの戦いで、少し疲れてしまいました。力を使いすぎたのかもしれません」

 立ち去ろうとする彼女の背中を心配そうに見つめるフレンズや声をかけるフレンズもいたが、やがて彼女はどこかへと消えてしまった。

 それを見届けたかのようにして、キツネのフレンズは再び伊奈に向き直る。

「私のこの力は、もともと私のものではありません」

 彼女は、今度は自分の手のひらと見ながら続けた。

「これは様々なヒトやけものたちによって何百年、何千年と受け継いできた、守る力です」

 そして次は、あなたが受け継ぐ番です。彼女は確かにそう言った。

 あまりに大きな出来事と壮大すぎる話題にイナは口を開けたまま茫然としていたが、そこでようやく我に返った。そして最後の言葉を理解した途端、首を激しく横に振った。

「そ、そんな! 急に何を!」

 あまりの動揺に、イナはバランスを崩して数歩後ずさった。

「私、まだ何も知りませんし、ナナやお姉ちゃんのことも、あなたのことも……」

 イナがさらに何か言えないか思考をめぐらせたところで、突然彼女の視界がかすみ始めた。

「……どうやら、時間切れのようですね」

 キツネのフレンズは一度だけ残念そうな顔をしたが、ひと呼吸置いてから再び、しっかりとイナを見つめた。

「ですが、これだけは忘れないでください。あなたには、仲間やパークを守る力があります。そして、いつか必ずそれを必要とする時が……」

 その言葉を最後まで聞くことなく、イナは再び意識を失った。


 キタキツネがスタッフカーから飛ばされた直後、ナナは急いで車を止め、その後を追おうとした。

 しかし、車から降りたところで後部座席に横たわるイナの姿が目に入った。彼女はまだ悪夢を見ているかのように苦しみ、わずかに冷や汗も浮かんでいる。

 ナナは数秒だけ立ち止まった。しかし、迷いを断ち切るように自らの下唇を強く噛むと、まだ目覚めないイナを背負って、キタキツネの消えた方向へと走り出した。

「大丈夫、きっと大丈夫。あの子を信じるのが、私の……!」

 そう、何度も誰かに言い聞かせながら。

 ほどなくして、ナナはキタキツネを見つけた。しかし、その状態は凄惨なものだった。

 ティルセルたちの隙間から見えるその顔に生気はなく、叩かれ続ける体中の痣や傷口からは、サンドスター鈍い光が漏れ出していた。何かを掴もうと伸ばしたらしき片腕も、今は力なく地面に倒れている。

 ナナはそれまでに感じたことがないほどの恐怖を覚えた。開いたままの口からは無造作に空気が出入りし、背負うイナの体はそれ以上に重く感じられ、震える両脚はついにその全身を支えきれずに倒れた。同時に、力の抜けた腕からイナが転げ落ちる。

 その時、ティルセルの激しい攻撃音の中から土を握るような音と共にわずかに声がした。

「……クが、……ナ……、を……っ」

 かすれながらもそれだけははっきりとわかる、キタキツネの声だった。彼女の意識はまだ残っている。ナナを商機に戻すには、その情報だけでじゅうぶんだった。

 ティルセルの集団はキタキツネに夢中なのか、ナナや伊那に気づく様子はない。ナナは急いで腰にぶら下げた無線機を取り出し、口元で起動した。

「スタッフカー四号車ナナより警備隊へ! 発信位置付近で中型セルリアンの集団に遭遇! 負傷者あり! 至急救援を要請します!」

 思わず大声で叫んでしまった。ナナがそう気づいた時にはすでにティルセルたちは攻撃をやめ、表情の読めない両目で彼女を捉えていた。

 ナナの脚はまだ震えたまま立ち上がるだけの力が入らない。それでも彼女は背後のイナを守るように座ったまま大きく両腕を広げた。

 双方のにらみ合いは、数秒間続いた。

 フレンズでないナナにセルリアン、それもキタキツネを蹂躙したほどの群れと戦うだけの力などない。それでも彼女は歯を食いしばり、現実逃避しようとする瞼を無理やり開き、敵の注意をそのか細い体に浴び続けた。

 しかし、ティルセルが彼女たちを攻撃することはなかった。その一団はゆっくりと方向転換すると、揃ってどこか遠くへと消えていった。

 ティルセルがキタキツネの体から離れた直後、ナナは彼女に駆け寄ろうとした。しかし思うように足が動かず、前方に倒れ込むようにして顔を近づけ、震える両手でその頬に触れた。

「……ナ、ナ……」

 キタキツネの薄く開いた目に、ナナは視線を合わせる。

「キタキツネ……っ!」

 この時、ナナはキタキツネにどう声をかければいいかわからなかった。よく耐えたと褒めればいいのか、なぜ逃げなかったと叱ればいいのか。それとも何も言わずに抱きしめるべきか。決めきれなかった彼女は、その名前を呼んだところで言葉に詰まってしまった。

 そうしている間にも、キタキツネの体からはサンドスターが失われ続けていた。ティルセルの集中攻撃による傷はもはや自己修復のできないところまで届き、今にも目を閉じそうなほど力が抜けていた。

 こういう時、普通なら少しでも生き残れるように強く声をかけて励ますところかもしれない。しかしフレンズの飼育員としてパークに来てからそう短くないナナには、それがこの状況では明らかに無意味な行動であることがわかっていた。

 だから、ナナは何もできなかった。

 イナが目を覚ましたのは、その少し後のことだった。

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