イナ編
第5話・おなじにおい
ジャパリパークに巨大セルリアンが現れた。それはパーク全土を巻き込んで多くの騒動を引き起こし、後に探検隊や警備隊、多くのフレンズたちによって撃破された。
これは、巨大セルリアン討伐後、キツネロイドの一件より少し前の話である。
巨大セルリアン撃破から一か月ほど後、キタキツネとナナはホッカイチホーの家にいた。
キタキツネはいつも通り、置いてあるゲームに取り掛かるが、ナナは他にやることがあった。それは、引っ越しの準備だ。
巨大セルリアンがホッカイチホーを通過した際、分裂増殖する新種のセルリアン、通称白セルリアンの存在が報告された。この調査及び駆除のため、ホッカイチホーの広範囲が立ち入り禁止区域として閉鎖されることになったのだ。彼女たちの家も例外ではなく、付近のフレンズも含めて一時的にパークセントラルに移住することになった。
すでにほとんどのフレンズの退去は完了し、残るはキタキツネとナナだけなのだが……。
「キタキツネ~。ちょっとは手伝ってよ~」
ナナは自分の肩ほどの高さのあるダンボールを持ち上げようとするが、これがびくともしない。
「ボク、今忙しいの。荷物ならもうボクのだけでしょ?」
「それが重いんだってば!」
キタキツネは床に寝そべったまま声のした方に振り向くこともなく、携帯ゲーム機に夢中でしがみついている。実際にナナの荷物はすでにスタッフカーに積んであるが、キタキツネのゲーム機がいくつか残っている。その中でも大きいものはアーケードゲームと呼ばれるものまであり、これはとても一般人が一人で持てるような重さではない。
ナナはそれをどうにかしてスタッフカーのある玄関前まで引きずろうとしたが、やはり動く気配はなかった。
「……はあ。まったくどうしてこんな物を」
フレンズはヒトに比べて力持ちな者が多く、キタキツネもその部類だ。このアーケードゲームを持って来たのも彼女であり、その力があれば一人で軽々と移動させることができる。自分一人ではどうしようもないと悟ったナナはどうにかして彼女に手伝ってもらうことを考えていた。
その時、全感覚をゲーム機に集中させていたキタキツネの大きな耳がぴくりと動いた。
「誰か、来る」
「誰かって、もうフレンズは誰もいないと思うけど……。もしかして、他のスタッフさんが手伝いに来てくれたのかな?」
元が野生のキツネだっただけあって、キタキツネの感覚はかなり鋭い。その正確さはたとえゲーム中であっても損なわれることなく、少なくともセルリアンかそれ以外かの判別はその姿を見ずとも容易にできるほどだった。彼女の飼育員であるナナもそのことを熟知しているため、疑うことなく玄関に向かう。
「はーい! すみませんがまだ荷物が……って、あれ?」
意気揚々と扉を開けたナナの視界には、誰もいなかった。辺りを見回しても、真っ白な雪原が広がっているだけで、ヒトやフレンズの姿は見当たらない。まさかキタキツネの感覚が間違っていたのか、あるいは何かの冗談か。ナナがそう勘繰り始めた時である。
「あの……」
その声は、ナナの視線のはるか下から聞こえた。彼女がその方向を見ると、確かに足元には一人のフレンズがいた。大きく毛深い耳と尻尾からして、キタキツネと同じキツネのフレンズに見えるが、その体は彼女よりだいぶ小さく、ヒトで言うところの五歳か六歳くらいの体格だった。服装もやはりキタキツネに似ているが、色は彼女に比べてくすんだ茶色で統一されている。
「君は……?」
退去がほぼ完了した今、周辺にフレンズはいないはず。この子ギツネのようなフレンズは報告されていない新種か、あるいは退去作業中にフレンズ化した新種か……。ナナは考えを巡らせるあまり、思わず体が止まってしまった。
「さ、寒いので、中に入れていただけませんか?」
幼いフレンズの黄色くうるんだ瞳がナナを見上げる。ナナはかえってそのフレンズを抱き上げてもふもふしたい衝動に駆られそうになったが、そこは落ち着いて、冷静に対処した。
「あっ。そうだね、寒いよね! ささ、入って入って」
この時、予想外の出来事に焦ったナナがアーケードゲームの入った箱に正面衝突したのはまた別の話である。
警備隊本部。隊長のライオンは相変わらず隊長室の床でごろごろしていた。
「入るわよ」
ノックすることも、返事を待つこともなくギンギツネは入ってきた。焦っている様子はないが、あまり顔色が良くない。
「おあ、ギンギツネか。どしたの?」
ライオンは少し驚いたが、床に寝そべったままの姿勢で尋ねた。
「オイナリサマ、見てないかしら?」
「いや、見てないけど?」
「そう。ありがとう」
そう言うや否や、ギンギツネは踵を返して勢いよく部屋を出ていった。
ギンギツネの様子から察するに、オイナリサマの姿を見なくなったのはそう最近のことでもないらしい。と言うか、巨大セルリアンとの戦いが終わってから一度も見ていないといった様子だった。
オイナリサマは先の戦いにおいてかなりの力を使ったため、表には姿を出さずに休養している。というのは彼女にかかわるほとんどのフレンズに共通した予想だ。しかしその中でも特に彼女を慕うギンギツネは、彼女の身が心配でならなかったようだ。
「まあ、おアツいことだねえ」
ライオンはギンギツネが立ち去った後、開きっぱなしになった入り口の扉をしばらく眺めていた。
幼いフレンズが床暖房で温まっている間、ナナは彼女に関する情報を集めようとしていた。
「君、名前は?」
「わ、わからない。です……」
「じゃあ、どこから来たか、覚えてる?」
「えっと……」
「周りに、他のフレンズはいなかった?」
「……」
結局、彼女から何かを言い出すことは一向になかった。しかし、ナナは焦らなかった。このような記憶障害は、フレンズ化したばかりの動物によく見られる現象だからだ。まだ目立った外傷や汚れがないだけ安心だ。フレンズ化直後は自分の変化に驚いてどうすればいいかわからなくなり、セルリアンや気性の荒いフレンズに襲われることもある。そういった経験をしたフレンズがトラウマを抱えるようになるのも、ナナは何度か見てきた。
今の状況では、自分たち以外の目撃者がいる望みも少ないだろう。そう考えたナナは、とりあえず彼女をセントラルまで連れていくことにした。
「よし。まだ不安なところもあると思うけど、私たちに任せて。フレンズがたくさんいるところに行けば、君のことがわかるかも」
幼いフレンズを元気づけようとナナは明るく振舞って見せたが、相手の表情まで明るくなることはなかった。なぜなら、ナナのすぐ背後に、先ほどまでゲームをしていたキタキツネが迫っていたからだ。
「……キミ」
キタキツネはするりとナナを避けて前かがみになり幼いフレンズに顔を近づける。
「こら、キタキツネ。あまり怖がらせちゃ……」
「キミ、オイナリサマと同じ匂いがする」
その言葉に、ナナも幼いフレンズも驚いた。
「そ、そりゃ確かにキツネっぽい見た目だから似た匂いはすると思うけど、オイナリサマは何というかこう、特別な感じがするんじゃないの? まさかこの子が……」
「そう。その特別な匂いがする」
オイナリサマは、フレンズの中でも謎の多い守護けものに分類されている。もしも、この幼いフレンズがキタキツネの言う通り守護けものの仲間であるとするなら、それはパーク史に残る大発見に違いない。ナナはいてもたってもいられなくなり、すぐに記録用紙を取りに走った。
その間も、キタキツネはどこか疑うような顔で幼いフレンズを睨み続けたが、しばらくすると体を起こした。
「とりあえず、キミの名前はイナってことで」
「イナ……?」
「そう。オイナリサマに似てるから、イナ」
「わ、わかりました。イナです」
その言葉を聞いた途端、キタキツネの口角がわずかに上がった。そしてナナがまだ戻ってこないことを確認すると、得意げな表情で付け足した。
「それじゃ、ボクのことはお姉ちゃんと呼んで」
「お、お姉ちゃん……」
「そう、お姉ちゃん」
その声は相変わらず平坦で感情の読み取りにくいものだったが、顔は頬をわずかに赤らめ、息も少し荒くなっている様子だった。
「あとはね……」
「キタキツネー! ちょっとこれ取るの手伝ってー!」
キタキツネがまたイナに迫り寄ろうとしたところで、ナナの声がそれを遮った。不照りがその声がした方を見ると、ナナが記録道具が入っていると思わしきダンボール箱に上半身を突っ込んでいた。
「……ちぇっ」
キタキツネはなぜか残念そうにナナの方へ歩いていく。その背中を、イナは立ち尽くしたまま見ていた。
「イナ、オイナリサマ、同じ、イナ、オイナリサマ……」
キタキツネの言葉を反芻するように繰り返していると、イナはわずかに頭の痛みを感じた。
とある洞窟の行き止まり。二人のけものが岩に腰かけていた。
「……と、こういった具合じゃ。わしの部下は器用じゃないが数と情報量だけは負けん。どうじゃ、面白いとは思わんか?」
片方は酔っ払っているのか、所々裏返ったような声で話している。
「そうね。お酒の勢いにしては、いい話を持ってくるじゃない」
もう片方がそう言って立ち上がる。同時にカランと鈴の音がした。
「おい、もう行くのかい? まだ酒は残っとるぞ」
「わたしはそんな物いらないわ。それに、今の話でじゅうぶん楽しませてもらったわ」
「むぅ。気の短いやつじゃのう」
片方が手に持った杯に酒を注いでいる間に、もう片方は姿を消した。
「さて、今度こそわたしを満足させてもらおうじゃない」
洞窟の暗闇に、甲高い笑い声がこだました。
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