2-2


 それからきっかり三十分後だった。


「待たせてごめんね。えっと……ブランネージュ、でいいのかな。それともシエル?」


 応接室で待っていたのは昨日一緒にビルの屋上から飛び降りた黄昏色の髪の少女。彼女は昨日と変わらない花咲く笑顔で迎えてくれた。


「シエルがいいわ。お気に入りなの、その名前」


「そう。じゃあ、シエル」


 本名ではない名を名乗っていることについて、ザクロは深く追求するつもりはないようだった。

 シエルは片眉を上げる。ザクロが昨日言っていた『呪いまほう』――それは、この世界の普通の人間は名を持たず、さらに彼らは自分が名もなき端役ネームレスだと気づけないという話だった。だが実際のところ呪いまほうとは普通の人間ネームレスに限らずこの世界の住人はという性質を持っているというものなのかもしれない、と思い直した。


「……シエル?」


 ザクロが怪訝そうな表情で少女の名をもう一度呼ぶ。


「ううん、何でもない。こんにちはザクロ、会いたかったわ」シエルは平然とそう言った。

 ザクロは彼女の態度についてやはり深く考える気はないようだった。


「こんにちは。昨日は付き合ってくれてありがとう。いろいろありすぎてなんだかまだ夢のようだ。地面に着地する瞬間、魔法にかけられたみたいな……」


「夢じゃないわ。『この世界は魔法にかけられている』ってあなたが言ったんじゃない」


「そういう意味で言ったんじゃないんだけど……。まあ、とにかく座って」


 ザクロに勧められるがままにシエルはソファに腰掛ける。


「昨日はどこまで話したんだっけ。――そう、呪いだ。呪いを解く手助けをしてほしい。昨日確信したんだ。君がいれば今までとは違う何かを得られるって。どうかな?」


「ふふっ、返事は〝はい〟か〝イエス〟しか認めないって顔に書いてあるわよ? それに答えは昨日言った通り」


「『願ったことはなんだって叶う』?」


 にこりと微笑んでうなずく。そんな彼女の答えに反するように、ザクロは困った顔で首を横に振った。


「――願っているさ。この九年。ずっと、強く。それでも駄目だったんだ。何かそれ以外にほかの方法があるはず……」


 諦めの混じった悲観的な表情。シエルはやはり放っておこうという気にはなれなかったが、励まそうにもうまく言葉が見つからない。どうしようかしらと思考を巡らせる。








 少しの沈黙のあと、そういえば、とザクロが顔を上げた。


「君は『この世界をつくった神の娘』だと言っていたけれど」


「ええ、そうよ。ザクロ、あなたは神を信じる?」


 こともなさげに肯定されるとは。少し驚いてしまった。シエルは冗談で言っている口ぶりではない。

 神を信じるか? その問いにザクロは思案した。


 ていにいえば、彼は神を信じるタイプではない。彼が世界を統治する立場になったのはまだ十代のころ。若くして大人同然のふるまいを求められてきた彼は、科学的な証明がされていない非現実的なものファンタジーを夢想するような童心なんて記憶にすら残らないほどの遠い過去においてきてしまった。


 そもそも彼の人生は神に感謝するような満たされたものではない。名を与えられたことが不運なのだ。その他大勢ネームレスとして生まれてさえいれば、周囲の人間が顔も名前も持たないことにも何ら疑問を抱かなかっただろうし、『この世界は誰かのつくりもの』なんて妄想じみた不安も抱かなかっただろう。



 しかし、


「……信じるよ」


 彼の口から出たのは肯定の言葉だった。シエルは「意外ね」と驚いた様子で。


「非現実的なものは信じないタイプだと思っていたわ」


「そうだね。でも僕は『非現実的なものは信じない』なんて言ってられないほど非現実的なことを経験しすぎた。昨日のことだってそうだし、顔のない人間ネームレスの存在だってそうだ。この世界は誰かのつくりものだとか、呪いまほうにかけられているだとか、僕は今までこの世界の異常性を表現するために使っていたんだけど。おそらくきっとこの世界には本当に創り手が存在するんだね? そして君は創り手の娘だ、と」


 一〇〇パーセント信じられるかって言われたらちょっとまだ決め手に欠けるけど、と付け足して。

 それでもシエルはほっと安堵した様子で肯定のうなずきを見せた。


「あー、でね? シエル、相談なんだけど」


「なにかしら?」


「君のおとうさんが神様だって言うならさ、ネームレスたちに名前を与えてくれるようお願いしてもらううことってできないかな?」


「ああ、そういうこと」


 盲点だったわ、とでも言うように目を見開く。

 だが少し考えたのち、シエルは残念そうに眉を下げた。


「たぶん無理だと思う。おとうさまは個人のお願いに耳を傾けるような方ではないわ」


「娘である君の願いだとしても?」


「ええ。それが神というものよ」


「そうか……」


 ――名案だと思ったけど、ふりだしに戻る、か。

 眉間にしわを寄せザクロは再び考え込む。


「あ、でも」


「! 何か良い案が見つかった?」


「あるわ。おとうさまにお願いを聞いてもらえるとっておきの方法!」


 勢い良く立ち上がる。得意げな表情。それは昨日ザクロの手を取ってビルの屋上から飛び降りたときのそれに似ていた。


「昨日私が言ったことを覚えてる? 私もあなたにきたいことがあるって」


「そういえばすっかり忘れてた。ごめん」


「私も今思い出したわ!」


「ええ……」


 困惑するザクロをよそに、シエルは自らの目的を話しはじめた。





§





「ザクロは『灰天使かいてんし護石ごせき』というものを知ってるかしら?」


「初めて聞いたよ。えっと、ゲームか何かの装備品?」


 聞き慣れない言葉。皮肉で返すザクロにシエルは頬を膨らませる。


「むぅ、フィクションの話はしてないわ。そうね、簡単に言えば『この世界を守護する天使の魂が実体化したもの』といったところかしら」


「――――――…………」


「どうしたのザクロ、頭なんて抱えて」


「ああ、いや……剣も魔法も神だって身近に感じたことがない非ファンタジー人間としては、なんかこう、ふわふわするというか、急なファンタジー展開に拒否反応を起こしているというか……うん、なんでもない。続けて」


 渋い顔で頭をかきむしるザクロに首を傾げ、シエルは話を再開する。


「でね、その護石が割れちゃったみたいで」


 嫌な予感がする。


「えっと、割れたらどうなるのかな?」


 おそるおそる。その問いかけにシエルは一拍間を置き、声のトーンを一つ落として答えた。


「……この世界に災厄が訪れるわ」







 スゥーーーーーーー、と深呼吸を一つ。そしてザクロも一拍間を置き、


「あー、うん。そう来るよね、やっぱり。ファンタジー世界のおやくそく展開的な」


 はは、と乾いた笑いを漏らした。


「あ! その顔! 信じてないわね!?」


 シエルは立ち上がり眉を吊り上げて抗議する。ザクロもそれに全力で対抗する。


「だって! 話が! 突飛すぎるんだって! 石が割れたら災厄が訪れるって何!? 風が吹けば儲かる桶屋もびっくりだよ! しかも災厄が訪れるってふわっとしすぎじゃない!? 呪術師の予言!? 辺境集落の言い伝え!? この化学も技術も発達した現代社会に!?」


 ひとしきり抗議するとやがて冷静になったようで、呼吸を落ち着かせ今度は静かに話しはじめた。


「はぁ……ごめん。言い過ぎた」


「構わないわ。人間にはスケールが大きすぎるもの。信じられなくてもおかしなことじゃない」


「……にんげん」と彼女の言葉を小さな声で反復する。まさか種族名で呼ばれる日が来るとは。

 いや、ツッコんではだめだ。話が進まない。ファンタジーに順応しろ、僕……!



 葛藤のすえようやく非現実を消化できた彼は、きわめて穏やかな声で言った。


「ありがとう。ちなみに災厄ってどういったことが?」


「それはまだわからない。――でも割れた護石を見つけて修復することができたらなんでも一つお願いを叶えてくれるって、おとうさまが」


「! なるほど……」


 先程彼女が言った『とっておきの方法』とはこのことのようだ。

 シエルは腰に手を当てザクロに問う。


「私も護石なんて聞いたことがなくて……この世界に詳しそうなあなたなら何か知ってるかもって思ったの。雲をつかむような話。信じるか信じないかはあなた次第。信じてくれないなら割れた護石探しは私一人でするけど、もし私に協力してくれるなら成功報酬はあなたに渡してもいいわ。どうする?」


 手掛かりなし。災厄がなんなのかもまだわからない。おまけに彼女が本当に神の子だという証明もなければ、そもそもぜんぶ彼女のつくり話である可能性すらある。

 それでも、


「わかった。協力しよう」


 ザクロはこの少女の手を取ることに決めた。理由は明白だ。


「ほとんどの人が名前を持たないこの世界で君に出会えたのはきっと何か特別な意味があるんだ。名前を持つというだけで君を信じるには十分の理由になる。それに、どのみち何もしなければ何も変わらないんだ」


 そして目の前に立つ少女とは別の人物を思い浮かべながら、彼は誰に向けたものでもない決意を呟く。





「今度こそ、君の名を呼んでみせる」












  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る