下水の隠者
ある夕暮れ時、家の前の側溝から光が漏れていることに気づいた。
彼、前島英介はひと月ほど前に会社を辞めて、今は失業中の身だった。多少の貯金はあるので、しばらくはのんびり暮らせばいいと思っていた。
しかし、下水から光が発するというのは気になる。
先週と先々週、つづけて台風が来て雨もけっこう降った。そのせいで何かが流れ着いたのかもしれない。
彼の両親は、父が定年を迎えたのを機に田舎に引っ越したため、今は家に一人暮らしだった。
そこは斜面を登る階段と資材置き場にはさまれた土地で、向かいは社宅の裏の駐車場、そのため相談すべき隣人もなかった。
側溝は普通よりも幅が広く八十センチぐらいあるタイプだった。玄関前だけが橋のようになっていて、左右の一部には蓋がなかった。
日が暮れてからもう一度見てみると、やっぱり光っていた。かすかに明滅しながら、周期的に紫や緑に色を変えていた。
翌朝、明るい日射しの中だとほとんどわからないが、蓋のある暗い部分を覗きこんでみると、やはり光っていた。どうやら光は側溝の少し先、直角に分岐したところから漏れてきているようだった。そんなところに分岐があることも初めて知った。
前島は市役所に電話してみることにした。
「下水の中で何かが光ってるんです」
そう言うと職員は「光ってるだけですか?」と聞き返した。
「はい、光ってるだけです」
「それはあれですね、何かが反射してるんじゃないですか?」
「いや、そういう感じでもないです」
「ま、ともかくですね、先日の台風のせいで市内のあちこちで下水の氾濫が発生していまして、現在その処理で人手が足りない状態なんですよ。ですから、ただ光ってるという話でしたら、まあ、後日調査に伺うということで……」
と、いうことだった。
まあ、特に危険がありそうな気配もないので放っておいてもいいのだが。しかし、いったい何が光を発しているのか。
沼地でガスが発光するという話はある。いわゆるウィル・オ・ウィスプというやつだが、下水でそんなものが現れるとは聞いたことがない。クラゲやイカには光を発する種類もいるが、ドブの水では生きられないだろう。あと、色の変わる光を出すとなると、子供向けのオモチャか。特撮ヒーローの変身グッズとか。それなら電池が切れるまでは発光しつづけるかもしれない。
しかし何か、そんなものではない、という予感もあった。何とか自分の目で確かめられないか。と言って、下水の中を這っていく気にもなれなかった。
例えば、長い棒の先に鏡を取り付ければ、直角の分岐の先でも見えるのではないか。
そんなことを考えているうちに、いいことを思いついた。ドローンを飛ばせばいいのだ。
少し前に買ったカメラ付きのドローンがうちにあった。外で飛ばしたかったが、そのころなぜか、町内の掲示板にいっせいにドローン禁止という貼り紙が出されて、持ち出せなくなっていたのだ。誰かがよっぽど町内のえらい人を怒らせるようなことをしでかしたのか、あるいは新しいものに対する疑心暗鬼なのかは知らないが。
ともかく前島は、家の中を自在に飛ばせるまで遊んで満足していた。
あれなら側溝を数メートル飛ばして直角に曲がることもできる。たいした距離ではないので、電波が届かなくなることもないだろう。
前島の所有するドローンは、VRゴーグルがセットになった高性能機で、自分が飛行しているような視界を楽しむことができるのだった。
ドアを半ば開けた状態で、彼は玄関に腰かけゴーグルを装着した。各機能のテストを済ませて、飛行を開始した。
ドローンはドアの間をすり抜け外へ出て行った。すぐに旋回し、側溝へと降下する。頭上を蓋で覆われた暗がりへ進むが、問題の発光現象のおかげで、さほど暗くはない。グリーンの光が漏れる分岐へ接近する。
近くで見るとすごい光だ。やはりオモチャの電球などとは考えられない。分岐の真横でホバリングし、向きを変える。
いよいよ光の中へ突入する。VR画面全体が発光してまぶしい。光はグリーンからブルーへ変色しつつ揺らめいている。
視界が光に覆われ、方向感覚がなくなる。何がどうなっているんだ。いったん後退させよう、そう思った時、ドローンがコントロールを失っていることに気づいた。墜落したわけではないようだ。飛行時特有の微妙な震動は感じられる。だが、コントローラーの操作をまったく受け付けなくなっていた。
ゴーグルを外して直接確認しに行きたいところだが、それは無駄だと思いとどまる。もう手の届く距離ではない。
視界は今やコバルトブルーの光に覆われている。どうなっているんだと思っていると、突然、視野が開けた。
そこは、下水の本管らしいコンクリートのトンネルだった。明滅する青白い光を照らしながら、ドローンは飛びつづけていた。
こちらの操作は受け付けないが、途中で向きを変え、細い支流をさかのぼりはじめた。どうやら明確な意思に導かれて飛行しているようだ。いわば乗っ取られたような状態だが、コンクリートに覆われた下水道で、どうすればそんなことが可能なのか。
その後もドローンは迷宮のような下水道を迷うことなく飛行しつづけ、やがて垂直な通路をしばらく降下すると、ある部屋へと出た。
未知の光源により淡い黄色の光で照らされた部屋だった。中央に大きなテーブルがあり、まるで中世の錬金術師の実験室のような器材が並べられていた。積み上げられた本も見える。
「何だ、この部屋は……?」
ドローンは、片隅に置かれた大きな椅子に向かっていった。泥まみれの汚れた椅子だ、そう思ったが、その黒い泥は伸び上がるような動きを見せた。床にまで広がっていた泥は、集まって人間の形になって立ち上がった。そして、手がこちらへ伸ばされた。
「うわあああぁっ!」
前島は、自分が泥人間につかみかかられたかのように悲鳴を上げてしまった。
いや、ドローンがつかまれただけだと、落ち着こうとした。しかし、何なんだあれは。
VRゴーグルの視界は映像が消え、ドローンからの信号が途絶えたとアラートが出ていた。彼はゴーグルを外し、ため息をついた。
彼は部屋へ行ってパソコンを立ち上げた。ゴーグルのメモリーに保存されている映像を確認するためだ。
VR映像は専用ソフトで2D映像に変換できる。
変換を待つ間、自分が見たものは何だったのかと考えてみた。
当初の目的だった側溝に漏れている光の正体は、結局何だかわからない。発光するガスのようなものが溜まっていたとしか言いようがない。そのガスに運ばれるようにしてドローンは飛行していった。
地下鉄などで携帯電話が使えるのは、適切な中継がなされているためで、下水道では電波も遮断されてしまうのではないだろうか。
事実、コントロールは効かなくなった。しかし映像は途切れることなく送られてきた。なぜか。電波とは別の力が働いていたのか。
誰が。ドローンは謎めいた部屋へたどり着き、泥人間の手につかまれた。あの泥人間は何者なのか。
下水道の奥深くに浮浪者が住みついているというようなこともあり得るかもしれない。だが、あれは普通の人間ではなかった。椅子の回りにたまっていた泥が、人の形へと変成するのを彼は確かに見たのだ。
あの側溝の光はドローンを捕らえるための罠だったのではないか、そんなふうに思えた。
通常の2Dデータに変換された映像を専用のビューワーで見た。ほとんど記憶している通りだ。途中、あの部屋のテーブルの上に積み上げられていた本が見えたところで静止させると、タイトルが確認できた。“Nameless Cults”と“R'lyeh Text”、三冊目は日本語で『暗黒の大河』と記されていた。
翌朝は早めの時間にすっきり目が覚めた。短い時間で熟睡できた感じだった。昨夜はおそくまでネットの検索をして過ごした。多少関連のありそうな情報は得られたものの、結局、あの泥人間の正体がわかるような手掛かりはなかった。
ただ、一つ思いついたアイディアがあった。それはあのドローンが撮った映像を、ネットで公開してみるということだった。トリックと思う人もいるかもしれないが、それでも迫力はある。少しでも話題になれば、何か知っている人が連絡をくれるかもしれない。今日はまずその作業をするつもりだった。
だがその前に、側溝に漏れていた光がどうなっているかを確認しておこうと思った。
玄関から出て側溝を見ると、そこにドローンが落ちいていた。泥まみれになっている。下水を流れてきたのだろうか。奥を覗いたが発光現象はもうなかった。
彼はプロペラガードをつまんでドローンを拾い上げた。ねばついた泥が機体から垂れ下がっていた。軽く振ったぐらいでは落ちなかった。泥と言うよりコールタールとか、そんなものかもしれない。仕方がないのでバケツに入れて風呂場に置いておくことにした。
あの下水道の奥の部屋では、泥が動き出したことを思い出すと不気味な気もしたが、目の前のこれが動き出すなどとはあり得ない気がした。
ドローンの泥を落とすのは後回しにして、動画のアップロードを行うことにした。今までやったことがないのでいろいろ調べる必要があって大変だった。動画につける説明文も考えておいた方がいいだろう。
〈下水道にドローンを飛ばしたところ驚くべき映像が撮れました。ここに写っているものについて何かご存知の方コメントをください。〉
こんなところか。
こうして実際的な作業をしていると、昨日見たものが本当に現実の出来事なのか疑問に思えてくる。もう一度VR映像を確認したくなった。
電源を入れてゴーグルを装着した。映像が目に飛び込んでくる。
「ん、何だこれは?」
知らない映像だった、だが、見覚えはある。これはうちの風呂場だ。
ということは、あのドローンが作動しているのか。飛行している。また別の力に操られているのだ。何をする気なのか。
風呂場に閉じ込めておけば、とりあえず危険はないだろう。
と、思っていたが、ドローンから垂れた泥が触手のように伸ばされると、先端がドアノブを包み込んで回転させ、あっさりドアを開けてしまった。
ドローンは廊下を飛行していった。そしてあるドアの前で旋回し、ドアノブに触手を伸ばした。
あのドアは……!
彼は自分のいる部屋のドアの方を見た。といってもゴーグルをつけているので視界はドローン側のままだ。
ドローンは部屋に入っていった。ゴーグルをつけて椅子に座った男がいる。
「えっ、あっ、うわっ……く……!」
泥の触手が男の顔を覆った。人間が窒息死するのに十分な時間が経過すると、ドローンは静かに離れた。
男は椅子から崩れ落ち床に倒れた。前島英介は死んだ。
生きたもののいなくなったその部屋で、ドローンは浮遊しつづけていた。新たな主人の到着を待つ従者のように。
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