ゲデロの泥

 大学の夏休みも間もなく終わろうという頃、土屋円樹(つちやえんじゅ)に一本の電話がかかってきた。

「君は僕のこと知らないだろうけど、僕らは親戚なんだ」

 ちょっとなれなれしい感じの若い男の声だった。

「えーと」と、円樹は戸惑って返事ができなかった。

「ああ、僕の名は谷村文彦」

 谷村というのは確かに祖父の旧姓である。それでこの人は本当に親戚らしいと思う。

 祖父の姓が変わったのは、大学の学長の娘と結婚した際に、婿養子という形にしたのだとか。祖父は考古学者だったのである。

「それで、突然電話して、こんなこというのも何だけど」と前置きをして相手はつづけた。「君のお父さんの遺品……」

 ああ、そのことも知ってるのかと、円樹は暗い気持ちになった。父・順太郎は一年ほど前、突然自殺していたのだ。

「はい」

「遺品だけど、君の家に保管されてるのかな?」

「ええ、部屋はそのままになってますけど」

「じゃあ、ちょっと調べてもらいたいことがあるんだけど」

 文彦は事情を説明した。

 今、文彦の祖父・谷村仙次は内臓の病気でもう長くはもたない状態だという。それで、遺産相続の問題である文書が必要になり、それが順太郎の遺品の中にあるのではないかということだった。

 円樹の祖父である一馬は、谷村仙次の兄だった。つまり円樹からみれば仙次は大叔父、文彦はハトコということになる。

 円樹は父、母ともに兄弟がいなかったためにほとんど親戚づきあいというものをしたことがなかった。だから突然、親戚が増えたようで不思議な感じだった。

 その上、探してくれと言われた文書も奇妙なものだった。文彦が言うにはそれは詩か、あるいは童謡の歌詞のようなものだとか。

 見つけたら電話すると約束して、円樹は電話を切った。


 父の部屋へ足を踏み入れるのは、ずいぶん久しぶりのことだ。そもそも生前も勝手に入るとひどく怒られるので、ずっと入っていなかった。

 学者だった祖父の一人息子である父だが、職業はふつうの会社員だった。仕事は順調、家庭にも問題はないはずで、何が自殺の原因かはわからないままだった。

 さして広い部屋ではなく一方の壁は本で埋め尽くされていた。

 学問の道へ進まなかったとはいえ、やはり祖父の影響か、考古学や日本史に関する本が多かった。網野善彦や梅原猛、柳田国男などは円樹も知った名だった。が、中には『イタカ鏡』や『暗黒の大河』といった、どこか怪しげな書物も混じっていた。

 机の引き出しを見ていくと、厚紙でできたファイルを見つけた。開いてみると中にはいくつかの新聞記事と手書きのメモのようなものがあった。

 そのメモというのは、染みだらけの千切れた紙に手書きの文字で、こんな内容が書かれていた。


  ゲデロゲデロ ゲデロが来るぞ

  ゲデロゲデロ ゲデロが来るぞ

  ゲデロの泥に気をつけろ

  どこもかしこも泥まみれ

  ゲデロの泥に気をつけろ

  牛も鶏もみな食われる

  ゲデロゲデロ ゲデロが来るぞ

  ゲデロゲデロ ゲデロが来るぞ

  呪文を聞くまで止まらない


 文彦が求めていた詩か童謡の歌詞というのは、これのことではなかろうか。

 とりあえず使命は果たしたぞと思いつつ、一緒に入っていた新聞記事にも目を通してみる。

 それは祖父である考古学者・土屋一馬の事故死を伝えるものだった。

 一馬は、海辺のある洞窟を一人で調査している際に、行方不明になっていた。異常な高波にさらわれたのが原因とみられ、それきり死体も上がらなかった。その洞窟と言うのは、普通なら海水が入ることはないはずの高さにあったのだが、一馬の失踪直後に調べたところ洞窟内に大量の泥が溜まっていて、そのことから突発的な高波に襲われたのだと判断された。

 記事によるとその時の一馬の年齢は五十歳とあった。

 円樹の父・順太郎が自殺したのは四十九歳の時だった。今まで気づかなかったが祖父と父は、ごく近い年齢で死んだのだった。それを考えると、自分も五十前後の年齢で死ぬ運命なのではないかという不吉な予感に捕らわれた。

 そんなことで気に病んでも仕方がないと、元気を出して文彦へ電話をかけた。

 見つけたものを説明し、最初の一行を読み上げると「それだ、間違いないよ」と文彦は言った。

「これ、何なんですか?」円樹は聞いた。

「うーん、今、説明してもいいんだけど、何だったら君、その文書を持ってこっちへ来ないか?」

 そう誘われた。夏休みの残り数日、どうせ暇だと思っていたところなので円樹は「行く」と返事をした。


 谷村家があるのは鮟鱇町というところだった。円樹の家からさほど遠くはない。約束通りの時間にその家に着いた。

 文彦は色白でやせた体つきの朗らかな青年だった。年齢は円樹と同じだった。

 円樹が問題の文書を見せると、彼は目を輝かせて眺めた。それからタクシーを拾い二人で病院へ行くことになった。そこに谷村仙次氏が入院しているのである。

「へんに期待させちゃったら悪いんだけど」タクシーが走り出すと文彦は言った。「遺産と言うほどのものはないんだ」

 まあそんなことだろうと思ってはいた。別に期待してないと言うと、文彦は説明をつづけた。

「だけどね、谷村家には、祖先がある財宝を裏山に隠したって伝説があってね」

「財宝……?」

「それが何かはわかってないんだけど、まあ、小判か何かなら金になるだろうって。それでその隠し場所っていうのが童謡みたいな歌詞にして代々伝えられてきたんだ」

「ああ、このゲデロゲデロってやつ」

「そう、ゲデロっていうのはこの地域に伝わる妖怪みたいなものだけどね」

 円樹はあらためて詩のようなものが書かれた紙片を見てみたが、これをどう読めば財宝の隠し場所になるのかは、想像もつかなかった。文彦の話では、入院中の仙次老人にこれを見せれば、宝の在処もわかるということらしい。


 文彦とともに病室へ入って行くと、ベットに横たわる老人の他に、中年の男性と女性が一人づついた。女性は病人の枕元に腰かけしきりに何か話しかけていた。男性は壁際にイライラした様子で立っていた。

 文彦は円樹を二人に紹介した。女性の方は文彦の叔母の奥山智加子さん、男性の方は仙次氏の妹の息子、つまり甥にあたる朝本清作さんということだった。

 円樹がそれぞれに頭を下げると、朝本が言った。

「一馬さんは谷村家を出てるわけだから君に遺産の相続権はないよな」

「それを言うなら朝本さんだって本家の人間じゃないでしょう」と文彦が返した。

「いや、娘が嫁に行くのと、長男で婿養子に行くのではわけが違う」

「まあ、そう固いこと言わずに、彼が例の歌詞を見つけて来てくれたんだし」

「見せたまえ」

 円樹は歌詞の書かれた紙を朝本に差し出した。朝本はひったくるように手に取ると、目を近づけてじろじろと眺めまわした。

「ううん、これは前半だけじゃないか。途中で破けてる」

 たしかに紙の縁は破かれた跡があった。

「見つけた時からこの状態でしたよ」

「まだ続きがあるんですか?」文彦が聞いた。

「ああ、これはな昔ここらの子供が歌ってた流行り唄みたいなもんなんだ。それを替え歌にして財宝の在処を示したものが、この後半にあるはずなんだ」

「そうか困ったな」と文彦が唸っていると、叔母の智加子が声をかけた。

「貸して、聞かせたら、何か思い出すかもしれない」

 紙片を渡すと、智加子は子供に読み聞かせるように、仙次の耳元でゆっくりと朗読した。

 すると、今まで意識があるのかないのかもはっきりしなかった老人が、目を見開き、声を上げ始めた。

「う……うう……」と言ううめき声がやがて「ゲデロ……ゲデロ……」という言葉になった。

 智加子はもう一度始めから歌詞を読み上げていった。すると老人も歌うような調子で後を追った。

 前半の歌詞を聞き終えても、老人はしばらく「ゲデロ……ゲデロ……」とつぶやきつづけていた。そして突然何かのスイッチが入ったかのように先をつづけた。


  ゲデロゲデロ ゲデロが来るぞ

  ゲデロゲデロ ゲデロが来るぞ

  ゲデロの泥に気をつけろ

  亀に登って西を向け

  ゲデロの泥に気をつけろ

  百歩進んで鳥居へ十歩

  ゲデロゲデロ ゲデロが来るぞ

  ゲデロゲデロ ゲデロが来るぞ

  お宝抱えて眠ってろ


 こんな歌詞だった。

 一気に言い終えると、仙次老人は咳き込み苦しみだした。

「ああっ、お父さん、しっかり」

 そう言う、智加子の手首を老人の手ががっしりとつかんだ。

「ゲ、ゲデロには近づくな!……いいか、ゲデロに近づいては……」

 必死にそれだけ言うと意識を失った。

 廊下で待機していた看護師が医師を呼び、円樹たちは外へ出された。

 そして数分後、仙次氏の臨終が伝えられた。

 後で、朝本は文彦に聞いた。

「あれが後半の歌詞だったな。おぼえたか?」

「おぼえられやしませんよ……でも、録音しました」と文彦はスマホを見せた。

 それを再生してみると、何とか聞き取れる状態で記録されていた。


 円樹は、仙次氏の葬式には出席せずに家へ帰った。これまで交流はなかったわけだし、突然、葬式にあらわれて遺産目当てなど思われてはたまらない。

 彼がふたたび谷村家を訪れたのは一週間後だった。この日、裏山の宝探しを行うことを約束していたのだ。

 参加者は、円樹と文彦、朝本清作の他に、宇田行士という人が加わった。この人は文彦の知り合いで郷土史の研究家ということだった。

 事前の話し合いで、もし大金になるような何かが発見された場合、その処遇は朝本に一任することに決められていた。自分が言い出さなければ財宝のことなど皆忘れていたのだから、というのが主張の根拠だった。円樹が文彦から聞いたところによると、朝本は、工場を経営しているのだが、今その資金繰りに困っていて、それを財宝で何とかしたいという思惑があるのだった。

 多少の分け前は出すからと言われ、円樹と文彦は異は唱えなかった。もとより学術的な興味で参加する宇田も分け前は求めなかった。

 当初は奥山智加子も財宝に興味を持っていたのだが、仙次の死の間際の「ゲデロには近づくな」という言葉が心に響いたらしく、一行には加わらなかった。

 というわけで四人でスコップを抱え裏山に分け入った。

 この裏山、名もない小さな山だが、現在は国有地になっていた。谷村家では先祖から受け継いだ土地だと主張していたが、権利関係があいまいで、裁判の結果、国の土地であるという判決が出たのだった。だからもし財宝が出ても下手をすればそれも国の所有ということになりかねなかったが、朝本としてはこっそり処分してでも金に換えてしまう心積もりらしかった。

 文彦は、問題の歌詞から財宝の隠し場所に関係のありそうなフレーズだけを抜き書きしたメモを持っていた。


  亀に登って西を向け

  百歩進んで鳥居へ十歩

  お宝抱えて眠ってろ


 と、書かれている。

「暗号というほどのものでもないな」文彦は言った。

「亀というのが何かわかれば、後は指示どおりに動けばいいのでしょう」と宇田。

「この山にはいつ作られたのか、古い石像がいくつかあって、虎とか犬とか、で、亀もあるんです。朝本さんもそこへ向かってるんでしょう」

 朝本は、工場用の作業服を着て先頭を進んでいた。一人速足で、他の三人を引き離していた。

「鳥居もあるのですか?」

「いや鳥居はないです、神社があるわけじゃないし」

 円樹らが亀の石像に辿り着いた時には、朝本は甲羅の上に立ちコンパスで方位を確かめていた。

「西はこっちだ」と言って飛び降りると、歩数をかぞえながら進んでいった。

「ああ、朝本さんそんなに急がずとも」と文彦は声をかけたが朝本は聞く耳を持たなかった。

 宇田は学者らしく石像を調べて写真を撮ったりしていた。

「しかし、百歩となると歩幅で個人差がありそうだよね」円樹は言った。

「まあ、それぞれ数えて平均を取ればいいんじゃないかな」

 三人は石像に踵が触れる位置から、それぞれ歩数を数えていった。

 長身の宇田がやや先行する形になったが、しばらく進むうちに、斜面を昇ったり、茂みを迂回したりで正確な歩数はかぞえられなくなった。それでもだいたい百歩分と推測される距離には、狭いながらもひらけた平地があって、そこが意図された場所と思われた。

「それで鳥居へ十歩というのは、どっちへ進めばいいんだ?」先に着いていた朝本が聞いた。

 周囲を見回してもそれらしいものはない。

「鳥居というからには神社でしょう。この近くで神社というと……?」

 文彦が問うと宇田が答えた。「ああ、平目神社ですかね」

「たぶん世代を超えて目印にできるものということで、神社が選ばれたのでしょう」

「平目神社ならこっちかな」宇田が向かい側にある別の山の斜面に双眼鏡を向けた。「ああ、確かに見えます。ほとんど木に隠れてますが、よく見ると鳥居の赤い柱がわずかに見えます」

 それは南東の方角だった。平地の中央を百歩の地点ということにして、そこから南東へ十歩移動する。

「ここを掘ればいいのか」朝本がスコップを突き立てると、ガンと固いものに当たる音がした。「ん、岩があるぞ」

 円樹もスコップで周囲を調べた。「かなり大きい岩のようですね」

「岩の下に宝があるということかな」

「これを掘り返すとなるとかなり骨が折れるぞ……いや待て」朝本が岩の表面の土を取り除けながら言った。

「何です?」

「何か彫り込んである。人工的なものだ」

 丁寧に土をよけてみると、たしかに人の手で掘られたと思われる記号――矢印だった。

 指し示しているのは北北西の方角。

「こっちへ進めということか」

「こちらへ行っても岩しかありませんね」

 四人は矢印の方向に進んだ。大きな岩が二つ寄り添うように行く手をふさいでいた。

「あ、ここを見てください」と宇田が指差した。

 そこは二つの岩が支え合うように接している下の部分だった。

「ここ不自然に土が詰め込まれているように見えます」

「言われてみればそうだな。掘り出してみよう」

 と、朝本はスコップで土をかき出した。すぐに石を積み上げた壁があらわれた。

「これは、何かが隠されてるようだ!」

 一つづつ石をどかしてみると、そこには何とか人が通過できるほどの通路があらわれた。下向きに傾斜しずっと先までつづいていた。

「こんなところに洞窟があったとは……」


 用意周到にも朝本はライト付きのヘルメットを持ってきていた。それに文彦も懐中電灯を持っていたので全員で、洞窟へと進むことができた。

 入口のせまい通路を抜けると、その先は結構大きな空洞になっていて普通に立って歩けた。

 何か、隠されている形跡はないかと、念入りにライトで照らしながら、ゆっくりと前進した。

「おっ、道が分かれてるぞ」

 少し進んだところで通路は、Y字に左右に分かれていた。円樹と文彦が右へ、朝本と宇田は左へと別れて進むことになった。

 二人で進むことになると、明かりは文彦の懐中電灯だけが頼りとなり、円樹は急に心細くなってきた。

「何だかホコリっぽいなあ」のんきな口調で文彦は言った。

 その辺りは土が乾ききっていて、歩くたびにホコリが舞い上がっていた。

「うわっ」円樹は何かをつま先で蹴飛ばした感覚があって、思わず声を上げた。

 それはカラカラと音を立てて転がったので、文彦は懐中電灯を向けた。

「ああ、こりゃ骨だね」

 明かりの輪の中に浮かび上がったのは、犬にくわえさせるのにちょうどいいような、まっすぐで両端が関節になっている骨だった。

「動物の骨かな……まさか人間の?」

「いや、どうかな……」

「あっ!」また歩きながら円樹が声を上げた。

「ん?」

「今、何かが」

「えっ、こっち?」

「うん、もうちょっと下」

 指示通りに明かりを照らすと、そこに浮かび上がったのは、紛れもなく人間の頭蓋骨だった。

「うう、これは……」

 殺されてここに放置されていたのだろうか。周囲には鎖骨やあばら骨の残骸らしきものも散らばっていた。

 白骨化するまでの長い時間、誰にも知られることなく置き去りにされた死者を思うとぞっとする。

 円樹は突然、閉所恐怖症になったような圧迫感を感じながら文彦に聞いた。

「どこまで進む気だい?」

「もう少しで、行き止まりみたいだよ」

 明かりを前方に照らすとたしかに土の壁があった。

 そこには不気味な影が凹凸の刻みをつけていた。まさか、と思いながら近づくと、それは半ば土に埋もれた、人骨の数々だった。行き止まりの通路を囲うように何十もの髑髏が虚ろな目を向けていた。

「うっ、くく……」円樹は叫び声を上げそうになるのを必死でこらえた。

「これだけの数があるってことは古代人の埋葬所かなんかだろうな」意外と落ち着いた声で文彦は言った。

「埋葬所……」そう聞くと恐怖感は薄らいだが、やはり不気味なことに変わりはない。

「見て、何か箱がある」

 文彦が明かりを向けたところに、黒っぽい箱があった。さほど大きくはない平たい箱だった。金属製で鍵などはついていないようだ。

 懐中電灯で照らしながら文彦は上蓋を開けた。中には一回り小さい木箱があった。それも開ける。

「んん、これは……本だな」

 大きめの本が一冊、それが箱の中身のすべてだった。黒い表紙には、金の文字で『冥界外道祭文』という文字が読み取れた。

「これが財宝……?」

 その時「ぎゃああああぁ!」という叫びが反響をともなって聞こえた。


「朝本さんの声だ」

 円樹と文彦は洞窟の分岐したところへと駆け戻った。

「う、うわっ、うわっ」

 少し先のところで朝本が尻もちをついたような体勢でわめいていた。

「どうしたんですか、朝本さん?」

「どどど泥が、泥が襲ってきた……!」

 朝本は文彦の手を借りて立ち上がると「うわあああぁ」と叫びながら出口の方へ走っていった。

「宇田さんはどうしたんだろう」懐中電灯を奥へ向けながら文彦は言った。

「泥が襲ってきたとか言ってたけど」

「宇田さーん」と大声で呼んだが、洞窟の奥は静まり返っていた。

 文彦が洞窟の奥へ進み始め、円樹もついていった。少し行くと倒れている人影があった。

 全身泥まみれになった宇田だ。

「大丈夫ですか、宇田さん……大変だ、呼吸してない」

 円樹と文彦は左右から宇田の身体を支え、洞窟から運び出した。

「救急車を」

 円樹は119へ電話した。

 救急隊員が到着するまで、泥を吐き出させたり、心臓マッサージをしたりと手を尽くしたが、宇田が息を吹き返すことはなかった。

 朝本は近くにへたり込んでいて「ゲドロが……ゲドロが……」とうわ言のように呟きつづけていた。


 結局、宇田行士は死亡し、警察が呼ばれることとなった。

 唯一、その場を直接目撃した朝本は「泥人間が襲ってきた」とくりかえし主張していた。

 だが、警察は常識的な判断として、宇田は洞窟の中で泥の溜まったところで足を取られ転倒し、その際、顔が泥に浸かったことが原因で窒息した、ということで話をまとめた。

 円樹と文彦が見つけた大量の人骨は、少なくとも江戸時代以前のものと判明し、詳しい調査は考古学者に引き継がれることとなった。

 そして二人が洞窟の奥で発見した『冥界外道祭文』という本は、一時は警察に押収されたが、その後、谷村家に返却された。木箱に書かれた文字から谷村の所有物であることがはっきりしたためだとか。

 だが、文彦が調べたところ、この本は歴史的な価値があるものではなく『竹内文書』などと同類の偽書と見做されるものだった。それでも稀覯書には変わりなく、古本屋に売れば十万ぐらいの値はつくらしい。

 本一冊で十万なら大したものだが、工場の運営資金としては焼け石に水だ、そう言って朝本はあっさり所有権を放棄した。

 その朝本清作は、事件直後はかなり精神を病んでいたが、数日で次第に回復し、信用金庫から融資を受けられそうだということがわかると、すっかり真面目な工場経営者に戻っていた。

 結果、この謎の書物『冥界外道祭文』は、円樹と文彦で好きに処分すればよい、ということになった。

 文彦は、円樹に五万払うので、この本を自分のもとにおいて研究させてほしいと言った。円樹は個人的に金を受け取るのも気が引けたので、研究結果を知らせてくれるなら金は要らないと言い、それで話はついた。


 そしてひと月ほど後、円樹のもとに文彦からの最初のレポートが届いた。

 まずは、『冥界外道祭文』を内容をざっと見渡したところ〈泥人間〉についての記述を見つけたので、それを知らせるという。

 昔、外泥という一族があった。その一族に生まれた長男にかぎり、五十歳まで生きたならば、ある儀式を行うことで体が泥人間へとかわり、その後は地底をさまよいながらも永遠に生きることができるようになる、とのことだった。

 この一族の名〈外泥〉がなまったのがゲデロではないかと文彦は推測してた。

 はじめ円樹は、そんな伝説もあるのかと、何の気なしに読んでいたが、あるひっかりを感じ何度も読み返すこととなった。

 彼は戦慄した。

 長男……五十歳……泥……。

 祖父一馬が行方不明になったのは五十歳の時だった。そして高波にさらわれたとされる現場の洞窟は泥まみれだった……。

 父順太郎が自殺したのは四十九歳の時だった。自殺しなければならない理由はなかったはずだが、五十を目前にして命を絶たねばならない何らかの秘密を知っていたのではないか……。

 祖父も父も長男だった。そして円樹も……。

 長男が五十歳である儀式を行うと泥人間に変貌するという外泥一族とは、谷村へそして土屋へと姓を変えた自分の祖先ではないのか……そんな疑惑を円樹は、どうしても打ち消すことができなかった。

 ラジオの天気予報は、台風の接近を告げていた。

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