7・これから

 一週間以上施設に通い詰めたが、生死すらわからない状況が続いている。そもそも病院から施設に連絡すら入っていない。レナコさんが言っていた話だと彩香には身寄りの人間がいないらしい。彩香も例外なく新型ウィルスによって、大切な家族や親族を喪(うしな)ったひとりなのである。さらにこうも話していた。


『身寄りがいない人は亡くなったら、病院で提携している火葬場に直葬(ちょくそう)してもらうように契約してる人もいるんです。梨川さんもそうしていたはずですよ。葬式もいらない今ならではですね……』

「なんでそんな契約にしたの!?」


 と、目の前にいたら言ってやりたかったが、私も若返り手術が始まるまではそんな契約にしていた。もはや言っても詮のないこと。先に逝ってしまったのであれば、線香の一本でもあげてあげたかった。だけど、死んだという情報が入って来ない以上は、少なくとも生きている可能性のほう高い。病院のベッドの上で管に繋がれている状態か、それとも――。


「きみちゃん、顔色が悪いわよ」

「大丈夫ですよ。なんともないです」


 店長の奈津子さんが、レジに立つ私の背後に回り込み、バックルームのほうへ体を向かせた。


「少し早いけど、休憩に入りなさい」

「でも……」

「もうちょっとであの娘たちも出勤だし、この時間帯は客もそう来やしない。私ひとりでも大丈夫よ」


 奈津子さんが私の背中を優しく撫でた。


「彩香さん、元気でいるといいわね」


 奈津子さんは彩香と私の関係を知っていた。なんでも、面識がない私の従妹にあたる人間がアフリカ人と結婚し、子どもを儲けた。奈津子さんはその子どもの子なのだとか。私は知らなかったのだが、私たちが別れたあと、瞬く間に親戚中に悲恋の話として広まっていたらしい。

 ちなみに、レナコさんも一枚噛んでいた。レナコさんは元々奈津子さんの所でバイトをしていたことがある。以前、むちゃくちゃなハロウィンの売り場を作ったR社の犯人でもあった。施設での働きが認められ、パートから正職員になろうかというときに、偶然にも彩香が転所してきたのだそうだ。あんまりにも変わったばあさんで、コンビニを辞めるときの送別会で奈津子さんに何気なく話したら、酒の勢いもあって全部話したとのこと。そこでふたりは、お節介ながらも私と彩香の恋路を改めて成就させたいと決心したらしい。

 若返り手術の話が出たのは十年ほど前だから、ちょうどレナコさんがバイトを辞めて正職員に成り立ての時期と被る。しかし、そうまでして私と彩香をくっ付けたいのはなぜなんだろう、と、奈津子さんについ先日聞いたら、


『新型ウィルスの被害に遭った人たちには、幸せになってほしい。ただ、それだけよ』 


 殊勝な答えが返ってきた。人の幸せを願う気持ちが強いのだろう。そこに邪(よこしま)な考えなど介在しない。いや、してはならない領域だろう。

 ……でも、疑った見方をすれば、彩香の存命を知らない私が、どうして悲しい思い出が詰まったここに来たのだろう。奈津子さんに誘われたにしても、この土地に足を踏み入れたくない気持ちがあったはず……。

 さらに疑ってみれば、私は実験動物にされたのではないか? 脳の一部が都合よく何かが埋め込まれていてもおかしくはない。若返り手術は無償だ。無償(タダ)ほど怖いものはない。ましてや脳である。そうたやすく開頭なんてできるはずもない。確認はまず不可能だ。記憶が洗いざらい知られていて、今の現状が誰かのシナリオ通りだとしたら――。

 ……気味が悪い。こうして私が若返って存命している事実が、妄想や空想で済ませられないから余計タチが悪い。ああもう、悪いほうに考えるのはよそう。悪意の妄想を並べるぐらいなら前向きになろう。マイナス思考は底なし沼と同じだ。奈津子さんはただ、年老いて生きながらえている私の存在を知っていて、どうにかしてあげたいと思っていた。それだけなんだ。これが善意でなければなんとする。奇跡も偶然も必然も全部ひっくるめて人生でしょ。

 砂糖とミルクが入っていて冷めた紙コップのコーヒーを一気に飲み干す。顔を手のひらで数回叩き、気合を入れて丸イスから立ち上がる。フロアへ出よう。店に誰か入って来たし、バイトのアンドロイドだったら何か言われそうだ。


「ありがとうございました」


 レジに顔を出すと、奈津子さんがちょうど客を見送っていた。少し興奮しているのか鼻息が荒い。


「どうかしたんですか」

「珍しいことがあるものね。若い人間が来店して、しかも生体認証で会計するわけでもなく、お札と硬貨で払っていったのよ」


 どんな客だろう? 眼で追うと、見覚えのあるやや痛んだ金髪の後ろ姿が見えた。心臓が激しく波打つ。記憶と直感がコンマ何秒かの世界でリンクし、人物を特定する。間違いなかった。


「店長、少しあのお客さんと話してきます!」


 奈津子さんは不思議な物を見る目で私を見つめていたが、やがて合点がいったらしく、満面の笑みでうなずいた。

 私は出入口でそろって雑談しながら入ってくるバイトのアンドロイドたちを押しのけた。


「何すんのよ!」


 アンドロイドたちは非難の声が聞こえたが、無視して左右を見る。すると右側に女――彩香はいた。店の前のベンチで500ミリリットルのビールを片手に、幸せそうな表情でから揚げを頬張っている。あまり咀嚼しないでどんどん胃に落としていくものだから、当然喉が詰まりそうになる。が、その都度ビールで流し込み、深い吐息とともに涙を流していた。


「あの……」


 からあげとビールを消費し、これまたうまそうにタバコをふかしている彩香に声をかけた。彩香は初めて私の存在に気づいたらしい。


「ちょうどよかった。店員さん、悪いけどゴミを捨ててもらってもいい?」


 正面から見た彩香は、加齢で垂れた目はツリ目に戻り、シミやシワなどは消え失せ、毛髪もグレイヘアから少し痛んだ金髪に若返っていた。ただし、私のことを忘れているようだけど。多分、私といっしょの現象――目覚めたての記憶の齟齬――が起こっているのだろう。何かきっかけか衝撃があれば思い出してくれるかもしれない。


「お客さん。店の前もですけど、この辺一帯は禁煙ですよ」


 そう言いながら彩香の口からくわえていたタバコを取る。彩香は若干申し訳なさそうな顔をした。そんな彩香の謝罪の言葉が出る瞬間に唇を重ねた。酒とタバコの苦みと、からあげの脂分と旨味成分が混ざってカオスと化している口内を舌がなぞる。なんとも言えない味の唾液がとても懐かしく、体の底が徐々に熱くなる感じがしてきた。興奮と感動も加えて感情が交錯し、夢中で自分の口内に取り込んだり、唾液を送り込む。


「あれ、本当にきみさん?」

「普段は冷めた感じなのに、キスは情熱的なんだね」


 アンドロイドたちの声が聞こえるが、無視を貫く。こっちは人生をかけてキスをしているんだ! ……その想いが通じたのか、最初は拒み気味だった彩香のキスが激しさを増してきた。舌が生き物のように私の舌を絡めたり、吸ったり、甘噛みまでしてくる。まるで付き合ってお互い愛に溢れていたころを思い出し、知らず知らずのうちに涙が溜まり、頬を濡らしていく。

 何分間、公共の場で私的な行為をしていたのかわからない。やがて互いに満足したからか、どちらともなくキスをやめて見つめ合った。彩香もまた、涙で顔を濡らしていた。


「あのころと変わらないね。彩香の好きな味のオンパレードのカオスな味のキス」

「そっちこそ相変わらず、コーヒーに砂糖とミルクをたっぷり入れてるんだな。きみ――じゃない、美穂」


 抱擁。強く、息の詰まるような抱擁。ふたりしてもう離すまい、離れまいと意思の込められたそれは、時間の感覚を忘れるほど長いものだった。

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