6・追憶と想起

「お加減はどうですかな?」


 白衣を着た年老いた医師が、私に語りかけてくる。

 カプセルから複数の看護師に抱えられるようにして私は、何も答えられなかった。頭に詰め込まれた情報と再構築されていく記憶が、若返った脳内でいまだに駆けずり回っている。視線は床に注がれているが、見ていないのといっしょだ。

 医師が水を飲ませるように看護師に命じている。差し出されたそれを、私は渇きに飢えた獣のように飲んだ。そして、ようやく情報の処理が遮断される。現実に立ち返ることができた。

 それからは医師から様々な言葉を投げかけられた。「あ」だの「い」だの単語の発音から、日常会話まで。体の動作反応も決められたマニュアルがあるらしく、それに沿って体を動かし続けた。

 私の状態が思ったよりもよかったらしく、医師は微笑みながら去り際に言った。


「記憶に齟齬があるかもしれません。ですが、徐々に思い出すと思われますので――」




 目の前が一瞬真っ白になり、目の前にテレビの画面が現れる。ニュースらしき映像だ。病院特有のニオイと雰囲気は消し去られ、落ち着く匂いと太陽の光が大きめの窓からふんだんに注がられている。どこかのリビングでソファに座っていた。


「新型ウィルスが収束してから五年の月日が流れました。昔から日本に住んでいる日本人だけが罹るという恐ろしい病気で、若年層を中心に感染者と多くの尊い命が奪われましたね」

「ただでさえ景気悪化、さらに先行きの不安で少子化傾向でしたからね……。手塩にかけて育てた数少ない国の宝を奪われた形となりました。しかし、不思議な病気でしたね。移民やハーフやクォーターの人たちは罹らず、日本人のみとは……。未だに敵対国の細菌テロの可能性も拭えきれてません」


 テレビに映る司会者とコメンテーターの会話を、私ははらわたが抉られる気持ちで見ていた。多分四十年前ニュースだろう。息子と娘、その孫たちが新型ウィルスに罹り、若い命を散らしていった。やっとつかんだ幸せ――人並みと呼ばれる幸せをウィルスは、私を残していとも簡単に破壊していった。

 当初は生きるのがつらかった。私だけどうして生き残ってしまったのだろう。生きていて意味があるのか。死ねば何もかもどうでもよくなるんじゃないか。そんなことばかり考えていた。幸い、親身になってくれるカウンセラーがいたおかげで、徐々に立ち直ることができた。


『亡くなられたご家族の分も長生きなされば、必ず天国で喜んでいてくれます。生きているだけで徳は積まれていきます。善行をしたりすればなおさら徳が積めます。徳を積んだ分、有井さん亡くなるまでの間に、この世で起こるはずのなかった幸運が訪れます。天地がひっくり返るがごときの現象です。これについては有井さんが自死を選ばない限り、必ず起こります。断言できます』


 当時はうさんくさいと思って聞いていたけれど、まさか本当に生物学的に真っ向から否定する若返り手術が受けられるようになるとはね。しかも昭和・平成生まれ且つ寿命が三年前の人限定で。起こるはずのなかった幸運はこのことかと思ったね。長生きはしてみるものだ――。




「ねぇ、美穂……」


 嗚咽混じりに私の名を呼ぶ声がする。視線を落とすと薄暗い部屋の中には、私のパートナーの彩香がいた。強気を象徴するようなツリ目に、金に染め上げられて痛んだ長髪を振り乱して泣いている。間違いない、若いころの彩香だ。フローリングにへたり込み、鼻をすすりながら枯れない涙を流しているのだろう。

 今度はさらに二十年近く前の記憶だろうか。短い夢を見せるような記憶の断片たちは、私に何を伝えたいのか。


「あたし、ダメだね……できっこないよ」


 できっこない……? ああ、子どものことか。彩香、違うのよ。断定するのはまだ早いよ。そう心の中では言っているのだが、口をついて出た言葉は逆のものだった。


「そうだね、できっこないね」


 自分でも引くほど冷たいトーンで言った途端、彩香が目を吊り上げて睨んできた。本来なら励ましていたのだが、どうせ現実じゃなくて夢だ。いや、夢に決まっている。別の思っていたことをこの際言ってみよう。


「まずね、酒タバコの飲み過ぎ。肉やジャンクフード主体の栄養バランスが崩壊した食生活。過剰な肉体労働。こんな不摂生の塊だもん。どんな赤ちゃんだって彩香のお腹の中で育ちたいとは思わないよ。」

「んなこと言ったって、金が続かないし、どうしようもない」


 湾港作業員の彩香の稼ぎは二十代ながらも多い。その分夜勤もある過酷な労働である。子どもが欲しい私たちは、人工授精にかかる費用が必要だった。翻って、当時の私の給料は安い。彩香が子どもを授かるには、生活環境や労働環境を変えねばならない。楽な仕事に転職するか、一番いいのは仕事をやめてここ――賃貸マンション――にいるか。そう考えると、私が転職するか副業をして稼がねばならない。


「私が稼ぐ。焦らずゆっくり行こう? 三十路を越えたって子どもは授かるし、産んで育てるのにも時間は充分あるんだからね」


 自分たちで産み育てたいから代理出産は嫌だった。しかし、私たちは恵まれなかった。未来では人工子宮が実用化されているが、この時代ではまだ実験段階である。もし、人工子宮がすでに実用化されていたら、考えを変えて選択していたかもしれない。


「稼ぐたって……美穂は普通免許ぐらいしかないじゃん。肉体労働だってしたことないんでしょ?」


 私は含み笑いをしながら自室に戻った。クローゼットの中から一つのダンボールを引っ張り出して中身を見た。原稿用紙や印刷されてクリップに綴じてあるコピー用紙、ファイルや紙切れ、参考にした本などが隙間なく詰まっていた。


「あった!」


 快哉を叫び、ダンボールをゆっくり持ち上げる。腕力のないのも手伝って、今にも腕と腰が壊れるんじゃないかっていうぐらい重いが、リビングまでどうにかこうにか持って来れた。


「何これ?」

「書き溜めた小説。彩香と付き合うまでは書いてたのよ。最近は書けなかったんだけどね」


 実際、彩香とパートナーになってからは頭が趣味にまで回らなかった。考えることややることが多すぎて自分の趣味に割く時間がなくなっただけだ。誰が悪いというわけではないが、小説や物語を書くにはひとりの時間が必要である。

 現実の二十代のころは、彩香と破局したあとに同年代の旦那になる男と結婚した。すぐに子どもができ、子育てや育児に追われて自分のことが何もできなくなった。やがて子どもたちが独立し、いざ始めようかと思っていた矢先に新型ウィルスによって家族を喪(うしな)い、気力が一気に失せた。創造の源泉も枯れ果て、何もかも嫌になった私は、書き溜めた小説をダンボールごと捨ててしまっていたのだった。


「へえー、クソ重いから何が入ってるんだろうって思ってた。見てもいい?」

「いいよいいよ。この中からナンタラ賞を取れるものもあるからね。宝の山なんだから」


 嘘でもなんでもない事実。ダンボールを捨ててから一年も経たないうちに、ある長編が栄誉ある文学賞を受賞した。タイトルも話の内容もそのまんま。違う所は作者の名前と登場人物の名前の一部だけ。パクりとか人のふんどしとかそういうレベルじゃない。そのときほど相手を恨むよりも小説に対して後悔したことはなかった。もっと積極的に勝負すれば、人生が違ったのかもしれない。悔しかったけれど、処分の方法が甘かった私も悪かった。あーあ、盛大に燃やしておけばよかったんだ。


「マジで? ……あ、でもこれおもしろいよ。設定も斬新だし、メディア化しやすいんじゃない?」

「彩香がそういってくれてうれしいよ。よーし、いろいろ書いて印税で儲けて、ふたりで幸せに暮らそう!」




 掛け布団を蹴り上げて半身を起こす。寒い時期なのに汗で寝間着がまとわりついて敵わない。少しイラつきつつ脱いでいると、自然と独り言が口をついて出た。


「なんだ……夢だったんだ」


 夢の中だけでも幸せなひとときを過ごせてよかったと思う。際限なく分岐する選択肢を替えれば、新しい展開が待っている。夢の中で選択によって幸せな時間を得られた。そのまま過ごしたかったけど、夢はいつかは覚めるものだ。今度は現実で行動し、正しいと思える選択肢を選び、幸せを掴まないと。


「十時前か……今から支度すれば昼ごろには施設に着くかな」


 記憶は夢となって思い出させてくれた。梨川彩香という老婆は、私――有井美穂の元パートナーで、最愛の人だった。どうして重要な情報が欠けていたのだろう。ほかの被験者はどうなっているのか。ただ私の場合は、ここに来ることを潜在的な記憶が奥底で呼びかけていたのかもしれない。まあ、どうして彩香がいる施設まで知っていたのかわからないけれども。そこは奈津子さんが一枚噛んでいるのかな。

 私が偽名を使う理由がわかった。今更どのツラさげてという気持ちがあったのかもしれない。でもって予防線を張っておけば、ダメージ量をちょこっとでも抑えられるとでも思ったのか。自分がいかに小さく浅はかな人間か思い知らされた。

 そんな私を彩香はどう思うのだろうか。正直に名乗らずに偽名で近づいてきて、しかも六十年もの間連絡も何もしなかった元パートナーを。しかも若返っているときた。私が彩香の立場なら……どんな顔していいかわからない。けれど、元気でいてくれて、生きていてくれてうれしいのは確かだろう。

 今日会ったら改めて名乗り直そう。恥や外聞なんかもうどうだっていい。なんなら土下座だってする。赦しを得たい。彩香が老婆だろうが若返ろうが、互いの命が尽きるまで共に過ごす。空白の時間を埋めて今を生きたい。それが今の私の願望だ。

 いろいろなことを頭の中で巡らせていたら、あっという間に施設についた。いつものようにエレベーターに乗り、彩香のいる階で降りる。扉が開いた瞬間に、近くを通りかかっていたレナコさんが飛んできた。


「あっ、きみちゃん! 大変なことが起きたのよ!」

「レナコさん、私は……」


 レナコさんは聞く耳を持たない。首を振って衝撃的なひと言を言ってのけた。


「梨川さん、心筋梗塞で病院に運ばれたのよ!」

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