【小説】獄の落人(ひとやのおちうど)

紀瀬川 沙

本文

 いやはや、よもや御房と相対することが現で叶いますとは、まったく思ってもみなかったことで、それがしの喜びはとてもとても深甚なのでござる。御房の御高名はここ安芸の僻なる山中までも、神聖な光とともに及び到ってござりまするゆえ。

 まぁこの期に及んで改めて顧みるに、此度の拝顔叶いましたこともひとえに、平生よりそれがしが篤く信奉なしまする豊前宇佐八幡、そこにまします八幡大神、比売大神、神功皇后が尊き神慮のおかげでござりましょう。そうか、御房につきましては神道にあらずして仏道、同じく尊き御霊と申してもやはりその実を異となしますものでござるか。ここは一つ、一介の無学なもののふの信心からくる聊爾として海容なされたく。

 つらつら考えるに、今やそれがしは一介のもののふにはあらざるのだということをば忘れておりました。今では一介のもののふにあらずして、御房の御覧じた通り、土の囹圄なる一介の囚人といったところが適当でござろうか。

 御房は高野聖の客僧たり、そしてその正体は当代随一の真言が善智識たりといえども齢はそれがしよりも二回り程少なく、眼前の前途は渺渺として無限なるによりて、かえって悪魔の浸蝕するところとなり得る隙をば多く持ちたまうとお見受け致す。いや、それがしのような業の深き不心得者が名代の若き善智識に、畏れ多くもかような瑣末な言を垂れるのも烏滸がましうござりまするか。

 御房に限っては心配無用と存じ上げますけれども、どうかそれがしを浅薄と笑い飛ばしたまうな。

 御房の若き容を見れば、それがしが愚息の生前の面影が髣髴として、図らずも慨息のこころに一人沈まざるを得ず、己としてもまことに情けなく思わるるのでござる。

 それがしは獄に繋がれてから今まで、たとい公の思し召しがあったとしても、一介の囚人の分限にては何事も致すまじく候と、およそ面会なるものは謝絶し申して上げて参った。もっとも、公の思し召しなどはこれまで一度もあった例はござないが。それでもこのことによって、御房にはそれがしが気概を推し量っていただくことができたならば、それがしとしては感慨無量でござります。

 だが時に今御房と面会するはこれ、公の思し召し、或いは年寄連の意向のためにもござない。先刻も申し上げた通り、これはひとえにそれがしが郷、豊前国北浦の庄にては宇佐八幡の神、御房が高野山にては仏の御心の随に叶いましたことでござろう。御房が此度讃岐へと、弘法大師遍照金剛の御跡を尋ねて赴きたまい、その後ここ安芸の片田舎に立ち寄りたまうもこれ何の計らいにやあらむ。

 それがしの素性は御房も既に知り置きなさっておられるでござりましょうが、初めにそれがしの口より申し上げておきまする。それがし、元は大内氏は大内六郎左京大夫義興公が嫡子兵部卿義隆公に仕えしもののふでござりました。

 ところが、かの公は生来京の公家のような御嗜好で、唐・狛・切支丹など異朝の文物を御愛好になり、まことに文弱、敢えて乱世の奸雄にならむとする志は微塵もこれなく、大内家家臣一同その上下に到るまで、まったくもってほとほと閉口の体でござった。

 かような臣下の不信が募りに募って、遂には天文廿年葉月、よりによって幼少の頃は公御寵愛の御小姓でござった陶尾張守隆房様の手により、長門国は大寧寺にて自害にまで追い込まれましてござる。だがそれがし思うに、ほとんど弑された格好の公でござりまするが、唯一の救いとしては葉月仲秋の月の下に自害なされ、末期まで風流を貫徹することができたことではありますまいか。

 当時のそれがしはと申せば、それがしは元来、貴人の風流と呼ぶところを解することもできぬ無風流な兵の生まれ、然らば当然公の御存命中からその寵臣、相良遠江守様ら文好む一派からは疎まれておりました。それがしとしても彼らの好んで呑む水はそれがしには合わず、自然に、小姓を了して今や尾張守に封ぜられ世盛りの猛者となっておりました陶隆房様へと肩入れするを禁じえず。

 そして、それがしの用いる公という語も兵部卿義隆公亡き後、その翌年に名を改めて晴賢様となされました陶尾張守様のことを新たに指すための語となって、もうかれこれ幾年月経ちましょうか。この間を回顧すれば即ち、愚息をともなって走馬燈廻り、懐かしうて敵わぬが道理でござる。

 む、暗くなって参りましたな。いや何、陽光届かぬ土牢といえども、日に二度調えられて給仕されまする湌と、それに基づいた自らの感覚を頼りに、一日の刻限くらいはたやすく推すことができるのでござります。

 それ、かような囚人にも朝夕滞りなく湌を賜いまするはこれもすべて陶尾張守様の恩賜でございましょう。これに付けても、先程申しました御家の騒動におけるそれがしの、尾張守様に御味方するという選択は誤謬ではなかったと分かって頂けましたでござろうか。

 まぁそれはそうと、御房はここへおわす前の刻限を弁えていらっしゃるでしょうから、今がそろそろ火点し頃ではあるまいかなどとお考えを廻らすこともできましょう。それがしの躰の規矩も、同じく左様の頃合を示しておりまする。

 やや、これは失礼仕った。滔滔と止まるところを知らずしゃべっているうちに、つい前置きがくどくなってしまいましたな。でもまあ御房、それがし見るに御房の御顔には露もそれがしの語りを厭うような色は浮かんで来てはござない。何、それがしにはわかりまする。これもきっと、御房が平生より勤しみなさっておる克己の修いの賜物でござろう。

 おっと、かくいうこれもまた先の轍を。

 それがしはどうしてもあの殿での敗走以来、人の面を上辺だけに留まらずさらに深部へと剔るように観察してしまいがちでござるゆえ、つい御房にとっては不愉快なことを申したやもしれませぬ。それに、日頃このような人気の絶えた境遇にいると、どうしても人と交わって話す機会が渇望され、自らでも意識しないうちに、冗冗と要らぬことまで話し連ねてしまうのでござります。まこと失礼致した。

 ではもういい加減、肝腎の件に入ろうかと思いまする。せっかく御房のような善智識と対話する千載一遇の機に恵まれたのでござりますから、今日は一つ、それがしの拙いながら腹蔵のない問わず語りを聴いて下され。御房のような高僧に真摯に聴き届けて頂いた暁には、それがしの心もきっとたちまちに浄くなり、欣求の甲斐もあるというものでございましょうぞ。

 縦しんばそれがしの問わず語りがこれから小夜中まで延びましたとしても、何卒御仏の御心のままに、済度の思いをもって聴きたまえ。

 話は去年有りました折敷畑での戦にまで遡るのでござる。義隆公亡き後、今に到るまで、陶尾張守様は領国の政一切をその一手に司る実力を持つようになっておりました。尾張守様の御意向によりまして、義隆公御自刃の翌年には、大内氏存続のまま、それがしらは豊前の大友氏より継嗣様をお迎え致しました。ここまでは、当時は畿内にいらっしゃったであろう御房も、風の便りか何かで御存知でござりましょう。

 次いで尾張守様は山陰山陽両道を知ろしめさむと、目下軍兵を調えてござった。それがしと愚息も、微力ながらその大望成就の為のお力添えができればと、平生からの弓馬の鍛錬により一層精を出してござりました。

 思い返せば懐かしくもありまするが、その頃愚息などは初陣の稚拙さから漸う垢抜けして参り、豪なる若武者といったところで、親馬鹿と思われるやもしれませぬが本当に立派な益荒男になってくれたと誇らしう思うておりました。そして愚息は、どこで調達して参ったのか、ある時などは黒韋縅に肩赤の深重な胴丸を持ち帰り、家伝の牛角十文字の鎗を丹念に研磨するその姿なぞはもはや歴戦の兵といった形でござった。

 おっと、左様でございますな、話を戻しましょうぞ。花の御所からの名門、大内氏の当主が弑されるくらいでございますから、現在も依然そうでありまするが、ここ山陽道は戦塵に塗れ兵馬倥偬として、目下どこを捜しても安々と睡る場も暇も見当たらないといった有り様でござった。

 そんな中、やはりすぐさま戦火が出来し、それがしら父子も、尾張守様の念願成就を阻まむとする敵勢と干戈を交えることと相成り申した。まぁ、折敷畑での決戦に到るまでには紆余曲折様々ございまして、石見国津和野の吉見様との不仲、果ては戦などもございましたけれども、何と申しましてもやはり、国衆の毛利殿が跋扈したことが挙げられましょう。下卑から興った彼らが急速に人心及び兵馬を纏めていたことは知っておりましたが、あの頃はそれがし達にもまだ余裕・・・いな、今では恥辱を忍んで油断と申す外あるまい、確かにたかが国衆出の毛利殿とその軍勢に対して、侮りからくる油断がござった。そしてそのまま、あの折敷畑での戦に到ったのでござる。

 あの戦におきましては、陶尾張守様より大将を仰せ付かって遣わされた宮川殿とともに、それがしら父子も毛利方の籠もる桜尾城を目指して進んでおりました。

 確か、それはちょうど秋深まった頃だったと記憶しておりまする。布陣した折敷畑の野には鹿の鳴く声が侘びしく響き、桜尾城を眺望するにつけて目に入る眼下の丘陵は一面、黄・紅に色付いて海の紺碧に連なり、これを追って見遣る目にはやがて厳島の朱の大鳥居と宮柱が照りながら映るといった風情でござった。それがしらも兵といえども木石にあらねば、これには心を動かされた次第でござりました。

 その戦の細かな戦況はいわずもがなでござりましょう。それがし達軍勢は、まんまと毛利方の謀事に乗せられて、各自散り散りに惨憺として山野へ落ち延びた訳でござって・・・。城を攻め落とすつもりが、守り方と攻め方が美事に逆転し、宮川殿はあえなく討ち死に、それがしと愚息もいつの間にか離れて互いにその生存さえ覚束無くなりました始末。

 いや、それがしに将を責める意図はござない、御房、ゆめゆめ勘違いしたもうな。勝つも負けるも兵馬の道ゆく者の定めでございまするゆえ、それは甘受せねばなりませぬ。

 それがしらの敗走の惨憺さを端的に、もっともよく表す事柄をば一つ挙げろといわれれば、それは斃れ、敵味方無く踏み付けられ、血塗られて方々に散らばった、見覚えのある味方の旗標でございましょう。

 戦場でそれがしはどうにか敵を斬り伏せ続け、地にしかと足を付けておりましたが、ある時に到ってふと四辺を顧みれば、つい先刻まで互いに励まし合いながら敵と斬り結んでいた味方達が見当たりませぬ。その中でも特に、居城の城下に居た頃から知っておりました朋友、富樫四郎資親の姿が見えず、だがそれがしも容赦なく押し寄せる敵への応戦に追われて構ってもいらず、とにかくそれ以上の前進は控えつつ戦ってござった。それに加え、その直前になかなか手応えのある敵と組している最中、脇から小太刀か何か、いずれにせよ刃の浅いもので率爾衝かれた左肩の傷も、命に別状はないものの気に掛かってしまい、それがしは自らにしか構っておられぬ具合でござった。御房が所望なされれば、今でも癒え遣らぬその傷をここでお見せ申すこともできますぞ、くく、まぁこれは突飛な戯れとして聴き流して下され。

 畢竟、後になって考えてみれば、その時には既に味方の多くは討ち取られ、夥しき尸となり、生き存えた者は疾く遙か後方へと退いていたのでございましょう。それがしら極少数の頑固者だけが、自然と最前面にて敵と斬り結んでいたようで、これに気付くのにもかなりの時間と体力を浪耗致した。

 少時あって、それがしもいよいよ困じ果て、いい加減に折敷畑から退こうと意を決したその刹那、それがしは地に斃れて転がる尸の泥塗れになった膕を踏み付けて、その場でよろめいたのでござる。幸いにもこの間に敵から襲われることは無かったのでござるが、それがしが何気なく見たその尸は、首級は既に無かれども確かに富樫殿のものでござりました。

 それは彼の尸の身に着けていた当世具足の特徴的な伊予札二枚胴と、旗に記された富樫家の家紋からも容易に見分けが付いたのでござる。それらは出兵の前、城下にて富樫殿が吾等父子に嬉々として見せた代物でござりましたからな。持ち去られた首級の代わりに頸から流れ出た鮮血が溜まりとなって赤い円形を描いてござった。

 そのような修羅道の光景は、弓馬の道ゆく限りはさして珍しくもありはしませぬが、その時はその光景が何故だか強烈にそれがしの目に飛び込んで参った。

 そしてそれがしは、富樫殿には気の毒にせよ、尸が愚息のそれではなかったことに、戦場の真中で怪しげながら安堵の気を味わったのでござります。その時の感覚は、すぐ迫りくる敵のために一瞬のものでしかありませんでしたが、今でも確乎として覚えております。何と申しますか、敵の返り血を顔面に余すところ無く浴びてもなお、自然と笑みが零れ落ちてくるような感覚とでも申しましょうか。

 愚息が討ち取られるようなことは決してあるまい、愚息は味方の退却とともに順調に退きつつ、追ってくる敵をその入念に磨きし鎗もて衝き斃していよう、それがしも生きて城下に帰りなば鬼神同士改めて汝と一献酌み交わそうぞ、とこのような考えが、次々と斬り捨てる敵の肩や胴越しにそれがしに去来しておりました。

 とまぁ負け戦の中でのそれがしらもののふの武勇譚なぞ、御房の御耳に入れ申し上げるのも吾ながら狂悖の所業であるとは弁えてござる。それがしにとっての戦と呼べるものもここまででござりますから御容赦を。

 次いで折敷畑から落ち延びて、陶氏方の櫓を仰ぐ直近のこの砦まで、およそ六里にわたるほどの遠き道程をゆかねばならず、その間にこそ、それがしは世にも棘棘しきものを見たのでござります。

 戦場より命辛辛落ち延びたところ、どこぞより集まって参ったか、気付けば自然とそれがしを含め五人の落人が群れとなってともに陶氏方の砦を目指しておりました。もっとも、それぞれ悉皆、ややもすると命に関わり兼ねぬ痛手を負い、体中を廻る血に染まった布でさえ重そうな足取りで進みますゆえ、その進行は甚だ牛歩ではございましたが。それがしを含め五人味方は有るといえども負傷人ばかりでござった。さらには、逃げ行く道にては敵方は無論のこと、主だっては百姓どもの落人狩りに兢兢として動かねばならなかったのでござる。その中では、それがしは一応最上位のもののふでござりましたので、道々とかく何かと融通をされつつ山野を掻き分けて進んで参った。

 そして、まずはその日の陽も沈まぬうちに一人死んだのでござった。彼は先の戦にて下腹を一刀のもとに裂かれており、加えて背に幾本か矢を受けておったので、歩く途中も、腸は直に手で腹中に留め置くことができておりましたが流れ出る血は止めること能わず、遂には志半ばにて名も無き峠の鬼となったのでござります。まだ日も高うござって、敵方の山を狩る騒々しき音が背後に迫ってもおりましたため、彼の尸は念仏を一つ供えただけで、やむなくその場へと置き去りにする以外ございませんでした。

 そして、これは生き残った唯一の者であるそれがしとしても、とても悔やまれてならぬことなのでござりまするが、あの時は皆余りに悲愴であって、皆して一度は言い合った名を、今では悉く忘れてしまっておるのでございます。まことに死者へ何と申し開きをなしたらよいか、面目無い次第でござる。

 おや、御房、やけに掻き曇った御顔でいらっしゃる。そうか、生き死にといったものは、それがしらもののふには茶飯事でござりましても、御房達仏道の修者にとっては千尋の谷が如き一大事でござったな。

 それにしても御房、まだ一人目でござりまするぞ。それがし、問わず語りは続けさせて頂こうと存ずる。

 その日の宵は当然のことながら一睡もしておりませぬ。翌日からは、残った二人でもって順々に見張りを立てて仮初めに睡りを得ることができましたが、その日ばかりはさすがにかようなことはまだ思い至ってもおりませんで、終夜目を煌煌とさせながら目を見張り続けておったのでござる。

 夜になってやっと、毛利方は落人への追撃の戈を仕舞ったと見えまして、少し高台から恐る恐る後方を窺うに、何らの灯火も松明もございませんで、それがしら一同は皆安堵の一息を吐いたのでござる。漸くもののふ同士の争いは終焉したとは申せ、ここからは、自前の竹光、或いは拾った太刀などを握り締めて無数に簇がりくる百姓土民の類から追われる身となったのでござる。そしてそれこそが、それがしら落人にとっての二つ目の戦、いいえ二つ目の敗走でござりました。

 御房、やはり先刻のそれがしの、“翌日からは残った二人でもって”という言葉が気に掛かっていらっしゃるか。数えてみれば、当初五人居て、その日に一人死に、本来は四人であるはずでござろう。

 そうでござる、御房が推測なさる通り、夜の間にまた一人、そして翌る日の夜が再び訪れる前にもう一人、冥土へと召されたのでござる。いや、しかし、前者は冥土へと犬のようにただ参ったのではござない。手負いながらも必死に、夥しい数の百姓どもをその場に止め置いてくれたのでござる。そしてそれがしら仲間の逃げる隙をば自ら与えてくれたのでござった。

 ・・・御房は今のそれがしの弁を疑いたまうか。いや、かたじけない、御房は何ものたまってはおらなんだ。今のは、それがしの負い目をば映じ出したのやもしれませぬ。それでもそれがしは、それがしのみぞ真実を知る者であると思うて、このことについてはもはや何も申すまいと定めておりまする。たといそれが卑怯な嘘偽りだと弾劾されたとしてもでござる。

 それがしらの群れが毛利方の追撃のやむを知った後、深更に到ってその警戒に綻びが生じた刹那、漆黒よりも深い夜の昏がりより竹と刃が、正に素人なる百姓どもの繰り出すのが明らかなほど一斉に飛び出して参った。それらは、やはり素人の仕業なるかな、繰り出された鋒のすべてが直近にいた仲間の一人のみを貫き通したのでござる。もののふ同士であらば、あれほどの多勢に無勢、その時には既にそれがしら落人の悉皆討ち取られていたことでございましょう。だが、そのおかげという言い方は宜しくないかもしれませぬが、百姓どもが皆一人だけに躍起になっていたために、それがしら他の落人が命を拾ったのでござった。

 あらゆる方向よりその躰を貫かれた彼は今にも死に絶えむとしながらも、貫通する百姓どもの武具が支え棒のようになって斃れること能わずに、膝を突いただけでなお天を仰いでござりました。そして最期の、正に死力を尽くして四辺の百姓どもを抑え込んでござった。

 それがしら他の落人はそこから一目散に驀と逃げておりましたが、それがしだけは辛うじて振り返りつつ、確かに彼の最期を見届けたのでござります。

 百姓どもから逃げる途上で僥倖にも、入り口は狭窄ながらも奥深く続いていそうな洞穴を見付け、三人してその奥の深邃へ深邃へと逃げ込んだのでござった。これもさらに僥倖重なって、百姓どもがそれがしらの洞穴に入るを目撃することはなく、それがしらは何とかここにおける限りは助かったのでござる。一日でどれほど進むことができたのかも皆目見当付かず、とにかく夜は洞穴の中にて皆起きたまま、平穏のうちに明かしたのでござる。まぁ平穏とは申せ、落人でありますること自体、平穏であるはずもございませんが。

 腹の具合はと申しますと、まだこの時は饑えておった訳ではござない。何せ、道々数多転がっておった尸が携えていた包みや筒から、必要な糧や水をば貰っておりましたゆえ。だがいかんせん、焦躁と悲愴のために頭が回り切らず、以後のために蓄えて置く程の糧を持つことをしておりませんでしたのが悔やまれてなりませぬ。

 翌る日の日中は、それがしらの歩みはまことに捗り申した。手負いの者どもの歩む速度とは申せ、およそこの砦までの距離の大半はこの間に稼いだと申すことができましょう。何故、日中は歩みが捗ったかと御房問いたまえば、それは毛利方のもののふどもは既に山狩りを了し、百姓どもは昼間はそれぞれの野良仕事に勤しみ、それがしらには手が回らなかったためでござろう。したがってそれがしらは、百姓土民に見付けられてしまうといった失策をなさなければ、速やかに前進、いな、後退することができたのでござる。

 ところが、このようにまったき様に物事が進んでおる時には往々として、人間は心に魔羅の類を招き入れてしまいますもので、その日中、原因を質せば本当に今では忘却してしまっておるほど歯牙にも掛くるに足らぬことなのではござりまするが、ひょんなことから内輪揉めがござりました。それは、三人のうちそれがし以外の二人の間に生じましたもので、一人は三十路を越えたばかりの者、そしてもう一人はもっとも年若き兵で愚息よりも僅かに年上かと思うくらいの者でござった。最年長かつ最上位でございましたそれがしは、自らの地位に鑑みて努めて双方に対し平等に接しようと、どちらの言行も黙過しておりました。その二人は歩を同じくしながらも小言を言い合い、時には威嚇し合ってもおったのでござる。

 そしてちょうどあれはその日の暮れつ方でございましたか、目指す砦の方角に西日が映えていたことがいまだに禍禍しくも在り在りと思い出されるのでござります。いずれにせよ、先程は折敷畑の丘陵から瞰ました秋の眺めを讃え申し上げましたが、落ち行くここに到っては、分け入る深い山間に鬱蒼と茂る秋の薄がそれがしら落人の心を狂わさむばかりに、去れるはずの敵方の武者から怒れる百姓、さらには異形のあやかしまで様々なものと化して秋風に音を立てて靡いてござりました。

 そんな夕刻のある時、もっとも若き者が、その時には皆の空腹の度合い進みいよいよ貴重となっていた糧をどこからか持って参ったのでござる。そして、片や三十路過ぎのもののふへとおもむろに分け与えたのでござる。それがしはまさかあのようなことになろうとは思いもしておりませんで、その様子を黙って見ていただけでござった。

 その後、当然それがしにも糧を分けにくるであろうと思っていたその者が、何故かそろりそろりと遅く動いておりましたことも、今思えばつくづく不自然だったのではござりますが、その時それがしは何も感じ取ることができないでおりました。

すると突然、それがしがその糧を受け取る前に、一足先に口にしていた三十路過ぎたる彼が、呻き声を上げ、白眼にて虚空を睨みながら斃れ込んだのでござります。

 ここで初めて、それがしはこの糧にわざと毒の塗ってあることを悟り、すぐに糧を捨て置きて彼へと駆け寄ったのでござった。だが彼は口もとを吐き出した泡で一杯にしたまま、既に帰らぬ人となっておるようでございました。それがしは咄嗟に、落人狩りの百姓どもが山に撒くという、附子を溶かして塗った食物や附子そのものを想起致し、してやられたのだと思いました。さらに、これでは行く先々の井戸もまた、百姓どもの種々の工作あって、到底飲めたものではないだろうと遅れ馳せながら気付いたのでござります。

 ところがこの時、彼をまだ助けられると思い助力を求めて振り返ったそれがしの目には、糧を調達して参ったかの若者の、能面のような冷たい顔が映ったのでござります。若者は黙り俯いて佇んでおったのでござるが、それがしが怒鳴り声を掛けると頓に、慄然たる様子を繕うかのようにして呈したのでござる。

 冷静になって当時を回顧することのできるようになり申した今でもそれがしには、若者の先の能面のような顔と、後の慄然たる様子のいずれが彼の本性でござったか、全くもって分からぬのでござる。

 それでも、無理をしてでも今この狭苦しく土臭い獄にてよくよく考察しようとすれば、かの若者はこの時から既に、心にどこか変調を来していたのではないかと考えることもできるのでござります。ただ、それがしは塗られた毒が百姓の手によるものだったと依然信じておりまする。これの是非は措いておき、生き存えたそれがしだけは信じて遣らねばなりませぬ。もののふの道ゆく者が、毒のような卑怯千万な道具を用いるなど、あり得べからざることでござりますから。それに、それがしには物言わぬ死者に鞭打つことなぞできぬ。

 そして誰ぞかに毒を盛られた彼は、とうとう息を吹き返すことはござなかった。終始一貫して若者は無言であり、哀しみも悔やみもその顔からは、それがしには見て取ることは不可能でござった。唯一、若者は何かに対する懼れだけは確乎としてもっていたようで、引き攣った無表情の顔のまま、聞き取れないほどの小声で独り言ちていたということだけが今でもそれがしの脳裏に焼き付いてござる。それが、果たして物狂いを表していたのか否かは、長しえに謎のままでござろう。

 さて、これまでのそれがしの言い表しから、あの若人の心の具合について御房は何か心得なさるものはござったか。

 ・・・・・・まぁ余りお考え込みになられるな。実物を眼前に直接見ている訳でもござないに、かよう問うたそれがしの方に非理がござろう。あの様子は、やはりそれを具に見たそれがしにしか判断を赦されぬものなのやもしれませぬ。それがしが自己で解さなくては、あの二人も浮かばれませぬでござりましょう。

 その顛末の後は、それがしと、それがしの愚息ほどに齢の離れた若人だけが山中に取り残される形となったのでござった。それがしら二人の間にはもはや何も交わされる言葉はござなかった。いつの間にか日もとっぷりと暮れ果てまた百姓どもの蠢く恐ろしい宵闇が目前に迫っておりましたゆえ、毒殺された尸を土に埋めてやる暇もあらずして、ただなるべく人目に付かぬところへと運んでからそれがしらは先を急ぐこととしたのでござる。もちろん両者無言のまま、どういうふうにしてか、そうのように決まったのでござる。

 日が暮れる際まで、できる限り進もうとしたそれがしらは、互いに無言のまま歩き出したのでござった。この間それがしは若人の顔付きや振る舞いの有り様を、彼に気付かれぬように逐一窺っておったのでござるが、それがしが若人に気付かれぬようになどと用心したのも徒労でござって、若人は以後一切こちらを見ることもなく、足許のみをその瞬きの極端に少ない目で虚ろ眺めて歩いておりました。

 それでもそれがしは若人の錯乱に備えて、用心に用心を重ねて、彼を常に自らの前へと置いて歩かせたのでござります。それがしの頭中では、いついつ若人が乱心の体にてこちらへ斬り掛かってくるやもしれませんで、陽が西山に隠れるにつれて展がりゆく昏がりとともに、それがしの彼に対する疑心も益々大きく膨らんで参ったのでござる。

 夜になって案の定、山中ではまたもや百姓どもが流れ始めたのでござった。宵闇の中、木立の彼方に百姓どもの挑げる松明の燈の橙色が隠顕する時分には、それがしら二人の落人はそれ以上下手に動き回ることができなくなったのでござりました。いや、この判断はひとえにそれがしの下したものでござって、かの若人独りであったならば、もしかすると無闇矢鱈に百姓どもの面前へと躍り出ていたやもしれませぬ。

 それほど若人は常軌を逸した風体となっておりました。戦戦としながらも何かに憑かれたかのように前へ進んでゆこうとする若人を、辛うじてそれがしが引き留めていたのでござります。

 とはいえ、それがしらも終夜同じ処に潜伏しておられた訳でもございませんで、正確な時刻は分かりませぬがとにかく深更、それがしらの隠れたる草木深き窪みへと、土民の戈が迫ったのでござります。それがしは、早計に窪みより飛び出てゆくことは危ういと思い、相手の迫りくる際の際までどうにか耐えていようと定めておりました。しかしこの時、同行する若人の方を息を潜めながら見遣れば、彼は全身を戦慄かせ、それがしの夜目にもくっきりと浮かび上がる程に蒼白い顔を呈し、その喉笛は今にも大音声の奇声を発さむとばかりに震えてござった。

 これは甚だ不味いと思い、それがしは急いで若人の口を塞いだのでござる。だがこれに余計驚いた様子の若人は、それがしの手の僅かな隙間より、何やら訳の分からぬことを呻吟とともに口走ってしまい、とうとうそれがしら二人は百姓に見付けられるに到ったのでござる。いよいよ万策尽き果てて、それがしもこの時には、どうせ死ぬならば最期までもののふとして太刀をば放すまいと、決死の戦いの覚悟を定めておりました。

 ところが、もはややむ無しと意を決してそれがしが隠れ処から躍り出ると、ここでも神運はそれがしらに味方したまいしか、それがしらと相対しておったのは余りにも矮小な老年の百姓ただ一人でござった。足軽にもあらざれば、戦にて独り遊撃することの無謀を知らなかったのでござろう、いざ眼前にそれがしらもののふを捉えた其奴は、それがしらへと襲い掛かるよりも、他の百姓仲間の援護を求めて左見右見するばかりでござった。彼に恨みは有らずともそれがしも生きてこの砦に辿り着かねばなりませんでしたから、咄嗟に其奴へと一足飛びにて組みつき、仲間へと声を上げられるよりも前に口を押さえ、頸をば掻き切って捨てたのでござる。この一部始終は他の百姓の気付かぬうちに行われ、それがしら落人がすぐ近くに潜んでおることが他に発見せられることはござなかった。

 それにしても、かくもそれがしが戦っている間中、かの若人は背後にて茫然と佇立しているばかり、何の援護も加えては来なかったのにはそれがしもほとほと幻滅致した。万一、あの時それがしが討ち取られておったら、かの若人は一体どうするつもりでござったのか、露も分かりませぬ。

 愚かな刺客を斬り捨てた後は、一刻の猶予も無くその場から逃げましたが、巧く逃げることができて、四辺に人の気も無い場所に大きな岩を見付けたのでござった。それがしらはその岩陰へと潜り込んだのでござります。新たな隠れ処にて落ち着きを取り戻してから、それがしは色々考えたのでござった。そして、見張り番として若人の寝顔を横目に朝焼けを迎えた時、それまでつらつら考え込んでいた挙げ句、それがしは甚だ情けなくなって参ったのでござる。

 尾張守様を筆頭に、畏れ多くもそれがしが愚息も含めて猛者揃いの吾が郷に、かの若人のような者がおるとは、それがしもその時まで全く思いも寄らなかったのでござります。かようなていたらくでは、いずれきたる毛利方との、あるいは今のところはこちらへ尾を振っておる吉見方との戦は、かなり思い遣られる次第でござりましょう。

 それに、聞けば毛利方ははや、厳島に宮尾ノ城なる塞を建てていよいよ尾張守様率いるそれがしら大内方を迎え撃ち、雌雄を決さむが心つもりのようではござりませぬか。かような深き土牢の奥底のそれがしにでも、それくらいの兵火の趨勢は聞こえて参ります。そして衢には、毛利の軍勢を悪し様にいう種々の流言が溢れ返っておるとも聞き及んでおります。毛利方は草津城を有するにもかかわらず、新たに築城、それもあのように不便な海中の厳島に城なぞ、よくよく考えれば極めて不可思議な、愚行とも思える行いでござる。必ずや何か腹中に一計有っての沙汰でござろう。尾張守様におきましてはそれがしが憂慮するまでもござりませんでしょうが、これら毛利方の動静を鵜呑みにするのは甚だ剣呑だとそれがしは存ずる。

 さらには、ただでさえ毛利の水軍の名はこの海に轟いてござるに、島を廻る軍船を数多用いた戦が急に始まり、毛利方が巧く取り計らって村上の水軍までをもその手中に収めることとなった時など、考えるだに恐ろしうござる。それこそ、我が方の軍船に厳島四辺の海をゆかせるのは土仏の水狂いとなりましょう。

 それにつけても、きたるべき毛利方との戦、我が方の兵どもは果たしていかに戦うでござろうか。多聞天の御加護厚き偉丈夫揃いならば宜しいのでござりますが・・・。まさかあのような若人が多勢ではござるまいか。苦慮すれば果てしも無いことで。こう申しますのは老輩の者の悪い癖ではござりますが、それがしが若い頃には少なくともそれがしの身近には、かような若人はおらなんだ。かの若人一人をして当今の若武者悉皆を括るのは甚だ無礼千万なことであるとは分かってはござる。現にそれがしの愚息のような、古の兵にも引けを取らぬ武者も確かにおった中で、それにしてもかような・・・。

 むむ、いや、知らず知らずそれがしが口舌も他を毒するものとなっておりましたな。さぞや御房には御耳に障りましたことでございましょう、かたじけのうござる。清貞なる御房にはなかなか解せぬことでございましょうが、まぁ、それがしの拙い親の心をも、どうぞ御斟酌のほど願い申す。

 さて、それがしらは辻や街道を通ることができず山中を踏み分けて進まざるを得なかったとは申せ、六里程の道を踏破するのに三日も掛かるとは予測もしておりませんでした。その原因は、手負いのために牛歩であったのは無論のこと、途上での百姓や毒の障碍があったも少からずございましょう。

 まぁ、それでも三日目の夜分には這う這うの体にてこの砦へと辿り着いたのでござった。加えて、その日はそれがしが朝焼けを見たのも束の間、午を前にしてたちまちの雨模様、午過ぎには土砂降りとなりました次第で。腹の飢えというものは、季節柄山野に生い茂っておった山菜や、地を這って出る木の根を中ることを冒してでもそのまま喰らいますれば何とか凌ぐことができました。だが苦渇の方は、まことに地獄にて咽ばかりを業火で灼かれているかのような四苦八苦の様でござった。そこに天の恵みが降り濯いだのでござりますから、それがしら落人の渇き切った口と喉は、天へと向けられて瞬く間に潤ったのでござります。

 そして御房、この三日目の日にこそ、それがしにとっての、今もなお続く真の試煉が天によって与えられたのでござりまする。もう前置きなぞ何も申すまい、ただ御房には今までと同じく聴いておって頂きたいのでござります。

 その日、午過ぎからの冷たい秋雨に山中は煙っておりましたが、前日と同様日中は百姓どもによる襲撃の心配もございませんで、それがしらと若人の二人は黙って歩き続けておりました。秋雨に撲たれながらも従前全身にへばりついておりました乾いた血や垢、芥の類がその雨とともに流れてゆき、それがしなどはどこか爽やかな心持ちすら有しておりました。しかしながら、依然としてそれがしがかの若人に対する警戒心を解くことはなく、自らの前をゆかせるように心掛けてござった。

 そして山に立ちこめる煙か霧か靄か雲か、とにかく歩みゆく先の一面に淡白な幕が掛けられたかのような有り様となった時、それがしが前をゆく、今や不明瞭な視界のために幽かにその背の受筒が見えるばかりであった若人の物狂う声が、煙る山に響き渡ったのでござります。

 それがしは、何事かあらむと急いて彼に追い付きましたが、そこには立ちすくんで硬直した若人と、視界を塞ぐ淡白な幕に隠れて審らかならぬ人影がござりました。

 人影はこちらへと、秋雨と白煙の中を近付いて来ておりました。その人影は、初めは一人のものだけが煙る先から浮かび上がるように見えておりましたものの、徐々にその背後に追随してくる幾人もの同じく白い人影が見えるようになって参りました。これにはそれがしも一旦は身構えたのでござるが、その人影の、審らかならねど山を分け入りくる足取りや四辺を隈無く探っているような気配から、すぐにただの百姓ではござないと分かったのでござる。先の老年の百姓の場合とは異なり、それがしはその人影から戦に長けたもののふの気配を感じ取っておりました。そしてそれがしら落人が向かう方角、つまりはこの砦の方より到ったらしきその人影にそれがしは、味方であれよかしなどとの淡い望みも抱いておりました。

 いかんせんそれがしら落人は迂闊には動くことができずに息を殺して立ち止まっていたために、幾人もの人影のその先頭の者が、淡き白の幕を張ったように不明瞭な視界の先からその正体を明らかにするまでには、やや時間が必要でござった。

 その間、それがしが同行の若人の様子を改めて背後から確かめると、当初戦慄いていた彼は、その顫えを止めたか、もしくは顫えが自ずと止まったか、歯を食い縛って後ろからでも分かるほどに口もとを強張らせておりました。そしておもむろに、佩刀の鞘には弓手、欛には馬手をそれぞれ這わせておるところでござりました。人影は味方かもしれぬゆえそれがしは咄嗟に、若人の肩へと手を掛けて止めようと自らの籠手を上げたのでござる。

 ところが、それがしの籠手なる手が若人の肩へと添えられた正にその刹那、若人は秋雨に撲たれただけにもかかわらず凍り付いたかのような顔をそれがしに向け、何もいわずにそれがしの手を無礼なほどの強さで振り払ったのでござる。その直後それがしは、若人の遂に気の触れるを思い知らされたのでござった。

 だが次いで、前方の人影を慮って若人を制止しようとしたそれがしの両腕が彼をすくめるよりも前に、若人は冲天の奇声を発すると同時に佩刀を抜き、白く煙る視界の先、人影のある方へと驀進しておったのでござります。

 若人を止めるにはまだ遅くはないと思い、それがしも励声しながら彼を追ったのでござる。そして突進する若人と、立ち罩める白い煙から漸う脱け出でて参った先頭の人影の正体とが出合った拍子に、それがしは、やっと、それまで覚束ない足許を見ていた目を転じ、そちらを見遣りました。この時のそれがしの老眼には、それがしの制止及ばず若人が振り下ろした刀身越しに、余りにも突然のことで幾ら猛々しき益荒男とはいえ自らに振り下ろされる刀身を仰ぐことしかできないでおった、紛れもない我が愚息がしかと映ったのでござる。そして、いつかのあの黒韋縅に肩赤の胴丸が、その継ぎ目に凶刃を受けて斜めに崩れていったのでござった。

 ・・・・・・そこからはあいにく、今ではほとんどがうろ覚えでござります。いな、この期に及んで御房の御前にて嘘は通用すまい。それがしは覚えておらぬ訳ではござなく、ただ思い出すことがいかがしてもできぬ、と申した方が真でござりましょう。

 ですが御房はこれもお信じにならぬ方がよい。もしかしたら、それがしはすべて明確に覚えており、ただ申し上げないだけであるやもしれませんから。

 まぁ切りがござりませんので、今はそれがしの申し上げた通りお受け止め下され。もっとも、この砦に到り申して後、御上より調書取るとて、そこに居合わせておった味方の武者らの口から聴いたことには、あの光景を目にしたそれがしは奇しくもかの若人と同じ冲天の奇声を発し、佩刀をば抜き遣って彼へと突進したそうでござります。そしてそのままそれがしは、かの若人の頭を一刀のもとに、幾寸か空に浮くほどの膂力で刎ね飛ばしたと申します。

 以上は他の者より聴いた話ゆえ、真偽のほどについてそれがし自身確信は持てませぬが、その者どもの狂言申す謂れもござりませねば大方限り無く真に近きことでありましょう・・・

 ・・・・・やはり御房、その顔は、それがしの浅膚な二重の嘘など御見通しなさっておられるか。

 正直に申し上げると、若人と愚息をめぐる事の顛末に関して一つだけ、それがしにも確実に思い返すことのできるものがござる。それは、かの若人の刀を肩から胸に掛けて受け、血汐吹いておる愚息の、それがしを見付けて露の間自らの怪我を忘れたかのような安息に弛んだ顔でござります。それだけでござる。あとは本当に何もござりませぬ。御房や他の者は訝しみなさるやもしれませぬが、本当に、今のそれがしが心には、何も無いのでござります。ええ、心覚えは無論のこと、怒りも無念も、ひいては悲しみさえ。

 ではそれがしが今何を思っておるかと申し上げれば、かつて義隆公御健在の或る折に公、陶尾張守様、他重臣ら一同同座して見た猿楽『敦盛』の中なる熊谷次郎直実、蓮生法師の心情をば、思うてござりまする。

 だが御房、ゆめゆめ思い違いなさるな、熊谷とそれがしとでは到底その境遇は異のうてございましょうぞ。熊谷は敵として相対した壮健かつ廉正な無官の大夫敦盛を、それがしは・・・愚息を斬ったかの若人を、でござりますれば。

 そして熊谷とそれがしとでは、どちらがどうということも、決してござりますまい。かようなこと、考えるだに愚かしうござりましょう。もとより、もののふの苦しみは、そのもののふ一人のうちにのみ、良くも悪くも出来し終着するのでござりまするゆえ。熊谷はやはり手ずから、弔い、法事、念仏の道をば見付け出だし、それがしにてはこれ・・・。

 おや、もう外では牢番の替わり目と相なっているようで。語りに夢中で気付かぬうちに、それほどの時が経っておりましたか。ではいい加減、ここまで長きにわたり申したそれがしの問わず語りもこれで終わりと致しましょう。

 む、最後にとは、御房はまだそれがしに何か申せとのたまうか。ああ、もう金輪際何も申すまい。空蝉の世にては、それがしを救済できるのもまたそれがしのみでござろう、定めて神仏にはあらざらむ。前々より文にて御房の慫慂なさる桑門へ入ることも、それがしは絶えて致すまい。

 まぁ、それでも御房、今日はそれがしが問わず語りを宵まで飽きもせで聴いて下さり、まことにありがとうござりまする。御房のおかげで、それがしの心も今までの漂泊から転じ、確乎として定まりました所存でござります。たといこの安芸は国境の砦が、近々毛利方の手に落ちようとも、ここ土の囹圄なるそれがしの自決が揺らぐことは寸毫もござない。

 されば、御房につきましてはすぐに荷をおまとめになり、ここより早々に帰られよ。


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【小説】獄の落人(ひとやのおちうど) 紀瀬川 沙 @Kisegawa

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