第4章「許すということ」

第36話「覚悟の先へ」



「……」


 クラリスはフライパンで卵を焼きながら、友美の顔を思い返す。彼女の顔はひどくやつれていた。何度も何度もセブンと現世の往き来を繰り返したのだろう。

 まだ正式な死を経験していない生者が、あんなに死後の世界に身を投じれば、いずれ待ち受けるのは……。


「クラリス」

「……」

「クラリス!」

「え? あぁっ!」


 直人の声で意識が現実に戻った。目の前には、黒い煙を吐き出す目玉焼き(だったが、今は真っ黒に焦げた円形の何か)があった。いつものパターンだ。


「すみません! 焦がしちゃいました!」

「別にいいよ。ほんとお前は期待を裏切らないな」


 クラリスが料理をすると、4989%の確率で何かしら失敗する。もはや次はどんな失敗をするのかと、毎回楽しみにしてしまっている直人である。彼はトースターから焼けた食パンを取り出し、皿に乗せる。


「ほんとにすみません……」

「いいっていいって。ほら、食おうぜ」


 直人と手を合わせ、朝食を食べるクラリス。しかし、友美のことがついつい気になり、フォークを握った手が度々止まる。彼女がワールドパスを使ってセブンに来て、必死で直人を探している。

 そのことを直人本人に明かすべきだろうか。そうしたら、直人はどんな反応を示すだろうか。


「なぁクラリス、この後あの鏡のところに連れてってくれないか?」

「鏡? ジプシックミラーですか?」

「あぁ、見たいものがあるんだ」

「分かりました。ご案内しますね」

「ありがとう。助かる」


 直人はいつもと変わらず、セブンでの生活を受け入れている。しかし、あの友美なら、彼を現世に連れ帰ろうと企てそうだ。今もセルの悪魔達は、友美のことを探し続けている。やはり友美の行為を止めさせるべきだったのだろうか。


「それと、一つ聞きたいことがあるんだが」

「何ですか?」

「この間悪魔が話してた“亡者歴典”って何なんだ?」


 直人は先日の友美と同じことを聞いてきた。クラリスは亡者歴典の概要を、彼に説明した。


「それで死者を管理してるのか」

「はい。それと同時に、人間の生と死を操ってるんですよ」


 亡者歴典には死者の名前が刻まれる。そこから名前を消せば、その人は生者という扱いに変わる。更にそこでワールドパスを使えば、事実上生き返ることが可能になる。今まで試したことは誰もいない。


「じゃあ、そいつの内容を書き換えたら、場合によっては生き返ることもできるってことか」

「もう! 直人さんまでそんなこと考える~」

「まで……?」

「あっ……」


 うっかり友美の存在をほのめかしてしまったクラリス。瞬時に口を押さえる。


「な、何でもないです! とにかく、そんなことしちゃいけませんからね!」

「お、おう……」


 友美のことを考えていると、つい彼女の存在をほのめかすようなことを口にしてしまう。やはり彼女がチケットを使ってセブンに来ていることは、直人には明かさないでおいた方が懸命だ。


 しかし、もしそのことを直人が知ってしまったら、どんな反応を示すだろうか。


「直人さん」

「ん?」

「友美さんと会いたいですか?」

「え? どうした急に。なんでそんなこと聞くんだ?」

「いや、その……何となく」


 あえてクラリスは直人に尋ねた。友美がチケットを使っている事実は伏せたままで。唐突に友美の話題を突きつけられ、返答に困る直人。彼の笑顔が少しずつ崩れていく。


「……分からない。アイツのことは好きだから、会いたいとは思う。だが、それはつまり、アイツも死んでるってことになる。アイツまで死ぬのは嫌だから、今は会いたくないとも思う。どっちかなんて、分からない……」


 直人はコップに入ったミルクを見つめながら話す。揺れる白い水面のように、彼の心も揺らいでいた。セブンに来てから二ヶ月近く経ち、友美の顔もしばらく見ていない。

 それが酷く寂しく感じてはいるが、もう一度会うためには、友美も死ななければいけない。それも避けたいという相反する感情が背中合わせになり、彼は悩みに悩む。


「変なこと聞いてすみません」

「いいよ」


 クラリスは全ての判断を、友美に委ねることにした。自分はただの傍観者に過ぎない。二人の関係に口出しする権利はない。しかし、そんな自分にも、まだできることが残されているのであれば、どんなことでもしたいと思った。


“私にできること……”


 クラリスの盛り付けた黒焦げの目玉焼きやウインナーを、直人は美味しそうに頬張った。クラリスは彼の笑顔を見て、友美にも笑ってほしいと願った。




   * * * * * * *




 最近体調が優れないことが多い。寝ても体はだるいし、頭痛や吐き気を頻繁に感じる。疲労が限界に達すると、一人ではまともに歩けなくなる。花音や祐知君に支えてもらいながらでしか進めない。原因は不明だ。


「はぁ……はぁ……」


 今日も私の体は重い。少し歩いただけで、息切れが激しい。まるで透明な重りを背骨に詰め込まれたようだ。私は繁華街に立ち並ぶお店の壁を、ゆっくりと伝いながら歩く。


「うぅ……げほっ、げほっ……あぁ……」


 原因は不明だ。でも別に判明しなくてもいい。どうでもいいのだ。それより私には、優先すべきことがある。


 今日は明智駅前の広場で、雫ちゃんと待ち合わせをしている。三日前にLINEで雫ちゃんに言った。予定通り直人に会わせてあげると。

 死んだ兄に会うってどういうことだと、予想通り妄想の痛い人を相手にするような返事がきた。兄のいない生活にもようやく慣れてきたのに、あまり話題に出さないでほしいという気持ちが、文面から伝わってきた。


「うぅ……はぁ……はぁ……」


 スカートのポケットに入れたワールドパスに、微かな重みを感じる。クラリスからも、直人の居場所は知らされている。ついに彼と再会できる時が近づいてきて、落ち着いていられない私の心臓は、どんどん鼓動を早めていく。


「ぐっ……くっ……」


 早くなる鼓動が、私の歩みを封じ込めようとする。殴られたり叩かれたりしたわけでもないのに、体中がズキズキと痛む。耐えろ……耐えるんだ、私。もうすぐ直人に会える。そうしたら、痛みのことなんか忘れられるはず。


 私は駅前広場にたどり着いた。すぐにスマフォをいじっている雫ちゃんの姿を見つけた。


「雫……ちゃん……お待たせ……」

「友美、どうしたの? 具合悪そうだよ」


 雫ちゃんは眉を潜めながら、私に尋ねる。私のことを心配しているけど、多分心の底には、私と付き合うことをめんどくさく感じてる気持ちもあると思う。

 それもそうだろう。死んだ人に会いに行くなんて言うんだから。今日まで彼女は半信半疑だった。


「大丈夫……大丈夫だから……」

「そう。それじゃあ、早く連れてって」


 塩らしい態度で、私への心配を心から捨てる雫ちゃん。彼女の鋭い眼差しが「死んだ人に会わせることができるなら、さっさとやってみせろ」と訴えかけている。半信半疑どころじゃない。1ミリも信じていない様子だった。


「うん……」


 私はスカートのポケットから、ワールドパスを取り出す。雫ちゃんに自慢気に見せる。


「これはワールドパスって言ってね……死後の世界に行くことができるチケットなの……」

「はぁ……」


 雫ちゃんは「何言ってんの? この人……」と言うように、明らかに眉を垂れ下げる。普通はそういう反応を示すだろう。彼女もどこまでも常識人だ。しかし、実際に直人に会えば、その認識もあっという間にひっくり返るはず。


 私はボールペンを取り出し、チケットの空欄に名前を記入する。ペン先が紙に触れる。待っててね、雫ちゃん。あなたの悲しみは、私が晴らしてあげるから。


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