第33話「出来損ない」



 俺の父さんは、間違いなくこの世で最も最低な父親だと思った。親が決して捨ててはいけない“子どもへの愛”を、平気で捨てているからだ。アイツの子供へ愛情の欠如は、いつ見ても心底腹が立つ。


「おいゴラァ!」

「うあぁぁぁぁん」


 父さんの名前は、遠山久志とおやま ひさし。父さんは気に入らないことがあると、すぐに怒りを家族にぶつける。家庭内での暴力は日常茶飯事だ。俺が物心ついた頃から、そうだった。


「うるせぇんだよ! とっとと泣き止め!」

「うあぁぁぁぁぁぁぁぁん」


 雫が泣いている。部屋にこもっていた俺は、アイツの泣き声に気付くのが遅れてしまった。俺はすぐさま雫のいるキッチンに飛び込み、アイツを抱き寄せてやる。可哀想に、頬に叩かれた痕がある。聞かなくても、父さんが付けたものだと確定している。


「何やってんだ、父さん! 雫にまで手を出すな!」

「こいつが俺の湯飲みを割ったんだ。だから殴った。何が悪い」


 めちゃくちゃだ。悪いに決まってる。雫だって、ちょっと手を滑らせて、うっかり落としてしまっただけかもしれないだろ。湯飲みなんて、また買えばいいだけの話だ。

 それなのに、自分の娘を何の躊躇もなくひっ叩くことができるなんて、信じられない。俺はこの父親の心が計り知れない。


「雫、大丈夫だ。兄ちゃんが後片付けしてやるからな。雫は部屋に戻ってるんだ」


 俺は雫を部屋に戻るよう促す。可哀想に。妹はまだ5歳と大変幼いのに、その頃から父さんの罵声に怯える日々を過ごさなければいけないのだ。俺はいつも雫が泣いていると、不機嫌な父さんから遠ざけて逃がしてやっている。


「おい待て。雫、俺に謝れ。俺の湯飲みを割ったことをびれ」


 は? 何言ってんだ。謝るのはお前の方だろ。俺は心底この男の思考が気に食わない。威張るだけ威張り散らしやがって。他人の苦しみを考えもしない、極悪非道の悪魔が……。

 だが、また痛い思いはしたくない。抗って勝てる相手でもない。力関係はあからさまであるため、俺はこう言うしかない。


「俺が代わりに謝る。ごめん、父さん……」


 謝罪……唯一父さんの前に突き返せる選択肢が、これだ。日頃から父さんの機嫌を損なわないように生きてきた。そのために、父さんの前で弱い俺達に発揮できる力が、頭を下げて謝ることだ。


「そうか、お前が代わりに罪を償うか」


 ポキポキ……

 父さんが拳を鳴らしながら、俺に近づく。俺はキッチンの扉の裏に雫を逃がす。まれに、頭を下げただけでは許されない時がある。


「直人、お前は最近、成績が下がっているようだな。俺の血が流れているというのに、完璧な人間である俺の息子だというのに」


 俺達の弱みに漬け込まれた時だ。父さんが威張るのは、自分が優れた人間であることを知らしめるためらしい。学生時代は成績優秀、社会人では一流の企業に勤めて大成功。

 そんな今まで失敗することなく生きてきた完璧な人生を、出来損ないの家族を持たされたことによって壊された。それで父さんは日々怒鳴り散らしているらしい。


「少し制裁を加えよう。それで今回のことは許してやる」


 ガシッ

 父さんは俺の右手を乱暴に掴み、指をあらぬ方向に曲げた。


 バキッ


「ああっ! ぐっ……」


 バキッ


「あぁ……あ……」


 人差し指、中指、薬指を折られた。驚いた。頬を殴られるような一瞬の痛みとは、また違う。細かい部位を集中的にやられる暴力は、茨が根強く絡み付くように痛い。




「直人! 雫!」


 すると、キッチンの扉を開けて、母さんが入ってきた。仕事から帰ってきたのだ。仕事鞄を廊下に投げ捨て、慌てて俺達を抱き寄せる。


「大丈夫? よしよし、直人……」


 母さんの名前は、遠山純とおやま じゅん。父さんがいつからこんな性格なのかは知らないが、きっと母さんはその乱暴さに、俺達が生まれる前から苦しめられている。一番可哀想なのは母さんだ。


「母さん……俺は……大丈夫だよ……」

「チッ、もう帰ってきたのかよ」


 父さんは母さんにまで乱暴な口を吐き捨てる。きっと俺達が見ていないところで、母さんは俺達よりも酷い言葉を投げ掛けられているのだろう。


「この子達に乱暴しないで!」

「知るか! お前がこの出来損ない共を産んだんだろ! 俺の名声を汚す前に、さっさとこのガキをまともな人間に育てろ!」


 父さんは冷蔵庫から2,3本ビールの缶を手に取り、ドシンドシンと足音を立てながら、二階へ上がっていった。キッチンにようやく静けさが戻ってきた。母さんは俺の手を優しく撫でてくれた。

 本当に母さんが気の毒で仕方がない。母さんを助けてやりたい。いつも助けられてばかりだから、今度は息子である俺が、助ける側になりたい。


 でも弱いから、まだ子供だから、できない……。


「ごめんね、二人共。ほんとにごめんね……」


 なんで母さんが謝るんだ。母さんは悪くない。悪いのは怒鳴り散らす父さんだろ。それに、俺は大丈夫だ。まだ指が痛むけど、こんなのへっちゃらだ。我慢できる。だって、兄ちゃんだから。男だから。




 でも、本当に悪いのは、俺なのかな。俺が出来損ないの息子だから、怒られるのかな。もっと出来の良い息子だったら、怒られなかったのかな……。




 あぁ、羨ましいなぁ……頭がよくて、いい成績が取れる天才が……。




 俺も……天才になりたかったな……。








「直人さん」

「……あっ」


 クラリスの声で、意識が現実に戻った。うたた寝をしていたようだ。かつての父親に虐げられた記憶を、夢で見ていた。

 そういえば、友美と知り合ってすぐだったよな。母さんが殺されたのは。浮気を疑われた父さんが、問い詰めてきた母さんを包丁で滅多刺しにして……。


「聞いてるんですか! 直人さん!」

「あぁ……悪ぃ、クラリス」


 ひとまず、俺は余計なことは考えず、クラリスの話に耳を傾ける。彼女の話は長いから、ついつい意識が遠退いていき、しまいにはうたた寝をしてしまう。先程からユリア様の自慢話を長々と聞かされている。もう夜の11時を過ぎてるぞ。そろそろ寝かせてほしい。


「ちゃんと聞いててくださいよ~。それでですね! ユリア様のおっぱいはきっと、毎日誰かに揉んでもらって大きくなったと考えられてですね……」


 この頃、毎晩彼女の話に付き合ってやっている。ほとんどがユリア様の自慢なのだが、彼女の身の回りの生活ことを聞くと、自然と心が和らぐ。


「あっ! もしかしたらユリウス様が……」

「いや、それはあり得ねぇだろ。……いや、ワンチャンあり得るか?」


 アイツに壊された家族のことも、一時的にでも忘れることができる。


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