第31話「会えたのに」
「それじゃあ、案内ありがとね」
「はい、気をつけてお帰りください」
夕日が山に沈みかける頃、宏一は案内係の天使にお礼を言って別れた。今日も満足いく写真が何枚か撮れた。そろそろ写真集が刷れそうだ。
「綺麗な夕日だ……」
パシャッ
宏一は半分沈んだ赤い夕日に向けて、シャッターを切った。死後の世界でも、現世と同じく日が昇って朝が始まり、日が沈んで夜が訪れる。そんな当たり前の風景であるが、死後の世界というだけで、彼はなぜか心引かれる。
セブンで暮らすことになり、写真撮影をメインに活動し始めてから、身の回りの何気ない風景に気を配るようになった。
「いいことありそうだな」
撮れた夕日に満足し、宏一は家に足を向ける。
「ん?」
宏一は足を止めた。自分の住むアパートの前に、誰かいる。自分の帰りを待っていたかのように佇む。その顔に、宏一は見覚えがあった。
「えっ……」
「あぁ……」
驚愕する宏一に、エリンも静かに歩み寄る。ようやく拝むことができた命の恩人を前に、溢れ出そうな気持ちを抑えながら足を進める。間違いない。この人こそが、自分の命を救ってくれた大切な人だ。
あのハイジャック事件を生還してから、彼の顔は一度たりとも忘れたことはなかった。
ダッ
「……!」
突然何かに突き動かされたように、宏一はエリンのいる方へ駆け出す。二人の距離が徐々に縮まる。対してエリンは、走ってくる彼を抱き締めようと、歩み寄りながら両腕を広げて待ち構える。
“やっと……会えた……”
エリンは止まらない気持ちと心音を必死に抑える。自分が生きているのは、宏一のおかげだ。彼にありったけの感謝の気持ちを伝えたい。エリンは彼に笑顔を向ける。そして、彼はエリン先生の元へ……。
スッ
「……え?」
突如として、エリンの足が止められる。なんと、宏一はエリンの横をすり抜けて行ってしまった。彼の瞳に、エリン先生の笑顔は写っていなかった。
ギュッ
エリンの後ろへと走り去っていった宏一は、アパートの入り口に立っていた咲有里に思い切り抱き付いた。最初から彼の瞳に写っていたのは、咲有里の姿だったのだ。
「咲有里! 咲有里ぃ!」
「宏一さん……」
咲有里を抱き締めた宏一は、メガネが汚れてしまうほどの大粒の涙を溢す。過酷な運命を切り抜けてきた戦士のように、宏一は胸一杯の感動を抱き、咲有里の体を包み込む。
「なんでこんなところに……もしかして!?」
「ううん、違うの。死んじゃったわけじゃない。でも、どうしてもあなたに会いたくて……」
「そうか。ごめんよ、勝手にいなくなって、寂しい思いをさせてしまって。君を置いていってしまって……本当にごめん」
そう、咲有里が死別した夫とは、宏一のことだった。つい先程宏一のアパートに着いた時、自分の名字と同じ「青葉」の表札を見て、彼女は違和感を抱いた。
そもそもエリンの大切な人と死因が全く同じという時点で、既に微かな疑念を感じていた。ハイジャックされた飛行機の中で、エリンを助けた宏一こそが、正真正銘咲有里の夫だったのだ。
「いいの。あなたがそう思ってくれること、すごく嬉しい。こうして会えたから……もう……うぅぅ……大丈夫よ……」
「よかった……ずっと君に会いたかった……咲有里……」
「私もよ、宏一さん……」
宏一に負けないほどの涙を流す咲有里。二人は周りの目を忘れ、身を寄せ合った。今まで誰よりも会いたいと願っていた大切な人と、抱き合うことができるという奇跡。二人はそれを存分に共有した。
その光景を、エリンは浮気現場に直面したような心境で眺めていた。
「なんで……」
彼が自分の命を救ってくれた大切な人であることは、絶対に間違いない。しかし、宏一は自分ではなく、咲有里と抱き合っている。それが受け入れらず、困惑した。
「え……?」
友美も同じく状況を把握できないでいた。エリンの言う大切な人は、宏一のことだと思っていた。そのため、エリン先生を彼と会わせようとセブンに連れてきた。
しかし、一緒に付いてきた咲有里が、まさか宏一の夫であるとは微塵も思っていなかった。偶然にしては、恐ろしいほどに出来すぎていた。
「宏一さん……あの……」
「何?」
いつまでも抱いて離さない宏一に、咲有里は口を開く。彼は先程からこちらを見つめるエリンの存在に気がつく。
「君は……」
「覚えてますか? あの飛行機の時の……」
「え? もしかして、あの時僕が庇った……」
宏一は瞬時に思い出すことができた。死ぬ直前に、ナイフで刺されそうになった乗客を助けたという記憶しか残っていなかった。しかし、エリンの言葉で過去の情景が掘り起こされた。
確かに目の前にいる金髪の女性は、5年前に飛行機の中でハイジャック犯に襲われそうになったところを、自分が救った人だ。
「奥さんがいたんですね……」
「あ、うん……」
今にも泣きそうなエリンの顔を見て、宏一は即座に察した。彼女は自分に恋心に近い感情を抱いていることを。彼女は自分を助けてくれた感謝を伝えに来たのに、本妻と仲睦まじい姿を見せられ、失恋してしまったのだ。
「……ごめん」
「いいんです。あなたが幸せなら……それで……」
ついにエリンの気持ちが溢れ出し、彼女の頬に二筋の線がつたう。宏一も罪悪感に苛まれ、場の空気が重くなる。
「宏一さん」
彼女の涙に心を痛めた咲有里は、宏一の腕から離れる。
「エリンさんと話をしてあげて」
「咲有里とはどうやって知り合ったの?」
「私、大学教授として働いてるんですけど、咲有里さんの職場と場所が近いんです。彼女のお店に頻繁に通ってたら、仲良くなって」
「そうなんだ。咲有里と仲良くしてくれて、ありがとう」
宏一とエリンは人気のない草原で腰を下ろし、ゆっくりと話をした。咲有里は自分の夫ではあるものの、今だけはエリンと二人きりでいることを許した。彼女が宏一に伝えたいことを存分に伝えるためだ。
「また会えるなんて思わなかったよ。すぐに思い出せなくて、本当にごめんね」
「いえ、大丈夫です。私こそ、奥さんがいるとも知らず、勝手に好きになってしまって……」
宏一は何度もエリンに頭を下げてきた。彼女にも宏一が重度のお人好しであることがわかった。彼女は宏一の申し訳なさを、何度も跳ね返す。
「私、ずっと伝えたかったんです。あの時、あなたが庇ってくれたおかげで、墜落した飛行機から私は生還できました。もしナイフで刺されて、重症を負っていたら……」
「そんな、僕は大したことしてないよ。あの時はほんと、無我夢中だったし」
「いいえ、あなたが助けてくれなかったら、きっと私も死んでいました。だから、ずっとお礼が言いたかったんです。本当にありがとうございました」
「ありがとう。僕も君が生きていてくれて嬉しいよ」
今まで伝えたくても伝えられなかった気持ちが、ようやく宏一の心に届いた。感無量だ。しかし、エリンの伝えたい気持ちはこれだけではなかった。彼は命の恩人であり、初恋の相手でもあるのだ。
「こんなこと言われても迷惑かもしれませんが、言わせてください。あなたに奥さんがいるとしても、私はあなたのことを愛しています」
「迷惑じゃないさ。僕を愛してくれてありがとう。君の気持ちには応えてあげられないけど、僕はすごく嬉しいよ」
エリンは自分の恋心を明かした。宏一も何となく察していたため、彼女の気持ちを受け止める覚悟はできていた。
しかし、自分には既に咲有里という愛すべき相手がいる。彼女の気持ちに答えられないことに、酷く罪悪感を抱く宏一だった。妻がいると知らなかったとはいえ、エリンも宏一に勝手に恋をしてしまったことを、深く申し訳なく思う。
「はい。本当にごめんなさい」
「僕の方こそ、ごめん」
二人の時間は謝罪で幕を閉じた。
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